第6話《夜間学習》
夜は静かに更けていく。
だが、優希の前では時間の進み方が違っていた。
「美悠、これ」
優希が指さしたのは本棚だった。
「漫画。あんた文字は、読める……よね」
優希は本棚から抜き取った漫画を床に積み上げ、ページをめくる。
ぱら、ぱら、と乾いた紙の擦れる音が規則的に続き、その速度は常軌を逸していた。
「ちょっと待って、それ一冊三十分はかかるやつだから」
美悠が目を丸くする。
「平均読了時間予測、八分三十四秒」
「張り合うな」
そう言いながらも、美悠は横顔から目を離せない。
目の動きは速いが乱れておらず、感情のコマではほんのわずかに瞬きの間隔が変わる。
「それ、面白い?」
「感情描写は誇張されている。でも理解しやすい」
ページがまためくられる。
「この主人公は、友達のために自分の夢を諦めた」
一瞬だけ、優希の指が止まった。
「……友情、優先」
優希はページを見たまま動かない。
「夢を失う選択は、合理的ではない」
小さく呟く。
「でも主人公は、後悔していないと描写されている」
ページの端を指でなぞる。
「損失より、誰かの笑顔を優先する価値。……理解はできる。だが、体温のようなものが胸の奥に残る」
美悠の胸が小さく軋む。
「それ、あんたの得意分野だもんね」
優希は首を傾げるが否定しない。
次の巻へ伸ばす手は迷いなく滑らかで、物語を摂取すること自体が目的のようだった。
「もう寝なさい」
時計を見ると日付が変わっている。
「睡眠、必要?」
「必要。人間はね」
「私は……」
「人間と同じ身体なんでしょ。だったら寝なさい」
少し強めに言うと、優希は本を閉じた。
従順というより、納得してやめる動きだった。
布団を敷く余裕もなく、美悠はソファに座り込む。
優希はなおもページを指でなぞっていたが、やがて美悠の呼吸がゆっくりになると、そちらへ視線を向けた。
「美悠……」
返事はない。
優希は再び本をめくり続け、数時間後、積み上げた漫画の横で壁にもたれたまま目を閉じた。
演算停止ではなく、自然な休止のように呼吸が整っていく。
――朝。
薄い光が差し込み、美悠はぼんやりと目を開ける。
首が痛い。
ソファで寝落ちしたことを思い出し、身体を起こした。
視界に入ったのは山のような漫画。
棚の三分の二が空いている。
「……ちょっと待って。これ……全部?」
その横で、優希が眠っていた。
横向きの顔に光が落ち、髪が頬にかかっている。
規則的な呼吸、わずかに震える睫毛、静かな寝息。
どう見ても人にしか見えない。
どう見ても、優希だった。
美悠はしゃがみ込み、その顔を見つめる。
輪郭、鼻筋、口元、昔と変わらない。
「……優希」
九年間触れられなかった存在が、今ここにある。
夢なら覚めないでほしいと思いながら、震える手で頭に触れる。
髪は柔らかく、体温がある。
「なんで……戻ってきちゃうかな」
涙がこぼれる前に、優希の睫毛が震え、ゆっくり目を開いた。
「おはよう、美悠」
昨日より滑らかだった。
音のつながりが自然で、間が柔らかい。
「夢を見た。内容は曖昧。でも、温度があった」
「――そっか。夢も、見るんだ」
「なんで泣いてるの?」
「泣いてないし」
「涙、確認済み」
「確認するな」
優希は周囲の漫画を見渡す。
「夜間、学習効率良好。人は泣くとき、悲しみか喜び、どちらかが存在する可能性が高い」
少し考える。
「今の美悠は、どちら?」
問い方が柔らかい。
「……両方だよ」
優希は小さく頷く。
「理解、進行中」
その表情には昨日よりわずかな揺らぎがあった。
模倣か、芽生えか、まだ定義できない。
だが確実に変化している。
「とりあえず朝ごはんは……蓮を待つか」
「甘いもの、希望」
美悠は吹き出す。
「人間らしくなってきたじゃん」
「人間らしい、とは」
「欲張りってこと」
優希は少し考え、ほんのわずかに口角を上げた。
昨日より自然な笑みだった。




