第10話《優希の特等席》
車は住宅街を抜け、大通りへ出る。
助手席に美悠。
後部座席に優希。
優希は窓に顔を近づけ、流れていく景色を目で追っている。
「建物、多い」
「都会だからな」
蓮が軽くハンドルを切る。
「信号、青」
「分かってる」
優希はシートに手を置き、少し前のめりになる。
「速度、一定。操作、滑らか」
「分析すんな」
美悠が笑う。
「蓮、評価されてるよ」
優希は数秒考え、それから言った。
「助手席、座りたい」
一瞬、車内が静まる。
「は?」
美悠が振り返る。
「ダメに決まってるでしょ。顔バレしたらどうすんの」
「帽子、ある」
「そういう問題じゃない」
優希は少し考える。
「前方視界、広い。運転者の行動、観察したい」
蓮が苦笑する。
「研究対象かよ、俺は」
数分後、結局コンビニの駐車場で席を入れ替えることになった。
優希が助手席に座る。
シートベルトを慎重に引き出す。
「固定、完了」
車が再び走り出す。
優希はまじまじと蓮の横顔を見る。
ハンドルを握る指。
アクセルの踏み込み。
信号を読む視線。
「ちょっと優希!」
美悠が後ろから声を上げる。
「蓮のこと見過ぎ!」
優希はゆっくり振り返り、美悠と目が合う。
その瞬間、口元がにやりと歪んだ。
「ちょっと、何それ!」
「優越感」
即答に、蓮が吹き出しかける。
「は?」
優希は正面を向いたまま続ける。
「助手席、特等席。視界、共有。距離、最短」
美悠が大きくため息をつく。
「もー! あんたやっぱり感情あるじゃない!」
優希は少し考えたあと、静かに言う。
「今のは、ログにない」
「何よそれ!」
車内に笑いが広がる。
その笑いは、まだ誰にも奪われていない。
やがて街並みが低くなり、ビルの隙間に空が広がり始める。
優希が窓を開け、ふと息を吸った。
「匂い、変化」
「排気ガス減っただけだろ」
蓮が言う。
「違う」
優希は窓の外を見つめたまま続ける。
「胸が、少し楽。……空気が、違う」
美悠はバックミラーに映る蓮の目線と、その隣で窓を見つめる優希の横顔を、交互に見た。
窓の外には、山の稜線がゆっくりと姿を現していた。
道路脇の緑が濃くなり、車の数も減っていく。
「静か」
優希が小さく呟く。
信号が少なくなり、エンジン音がやけに澄んで聞こえる。
蓮がウインカーを出し、細い道へ入る。
木々に囲まれた駐車スペースに車を停めた。
「着いたぞ」
エンジンが止まる。
突然の静寂。
優希はシートベルトを外す手を止め、耳を澄ます。
「音、少ない」
「山だからね。昔、あんたと二人で来たんだよ、電車乗り継いで」
美悠がドアを開けると、ひんやりとした空気が流れ込む。
優希も降りる。
足元の砂利が小さく鳴る。
遠くで水の音がしていた。
木々の間を抜けると、湖が現れる。
風が水面を揺らし、光が細かく砕けている。
優希は立ち止まった。
しばらく、何も言わない。
それから、ゆっくりと息を吸う。
胸が上下する。
「……冷たい。寒い? ……違う。澄んでいる」
視線は水面に向けたまま。
「肺が、広がる感じ」
美悠はその言葉を聞いて、そっと笑う。
優希は一歩、また一歩と湖へ近づく。
波はない。
ただ、水が静かに呼吸している。
「ログにある風景。……でも少しだけ同じじゃない」
小さく、そう言った。
蓮が腕を組みながら呟く。
「そっか……思い出なのか、記録なのか……」
優希は水面に映る自分を見る。
「水面がキラキラ光る。私がそこにいる」
美悠が隣に立つ。
「そう。今日のあんた」
優希は水面から目を離し、空を見上げた。
雲がゆっくり流れている。
そして、大きく両手を広げた。
「空、広い!」
急に跳ね上がる言葉の抑揚に、美悠と蓮は驚いた。
その声は、もう疑いようのない感情だった。
そして、ほんの少しだけ笑った。
それは誰かの記録をなぞった表情ではない。
今、この瞬間に生まれたものだった。
美悠の瞳が微かに潤む。
「あの子、前に来た時も、ああやって空に手を伸ばしてた」
「――そっか」
蓮はそれ以上何も言わず、二人の姿を眺め、微笑んでいた。




