第4話《未完成の感情》
卵焼きの甘い匂いが、まだ部屋に残っていた。
そのときだった。
――ピンポーン。
インターホンの電子音が、やけに大きく響く。
美悠の肩が跳ね、優希の視線がドアへ向く。
「……誰?」
「静かにして」
美悠は即座に立ち上がり、優希の手首を掴んだ。
「クローゼット。入って」
優希は一瞬だけ首を傾げたが、逆らわない。
言われた通り、扉の奥へ入る。
「声、出さないで」
美悠は息を整え、ドアを半分だけ開けた。
そこに立っていたのは、蓮だった。
「ちょっと! 来るなら連絡くらいしてよ!」
「何回もしたし。てか、待ち合わせ来なかったのオマエだろ」
その言葉で、美悠の頭にフラッシュする。
駅前。
約束。
優希とぶつかった時間。
「あ……そうだよね……ごめん」
蓮は眉をひそめ、美悠をまっすぐ見る。
「待ってる間、暇だったからニュース見てたんだよ。篠宮って医者、捕まったってやつ」
美悠の喉がひくりと鳴る。
「……それで?」
「ニュースで言ってたろ。“人を模した存在”。もう完成してたって。しかも、それ……亡くなった娘に似せてたって」
空気が止まる。
「……あれ、優希のことだろ?」
美悠は一瞬、言葉を失う。
蓮は続ける。
「正直さ、俺も名前見てドキッとした。だって、あの優希だぞ?」
視線が鋭くなる。
「だから来なかったのか? それとも……なんか知ってんのか?」
美悠の喉が乾く。
「あぁ……優希……ね。蓮、好きだったもんね」
蓮は一瞬だけ視線を逸らした。
「……俺も、ちょっと思い出しただけだよ。てか、誰かいる?」
蓮が美悠の肩越しに部屋を覗こうとする。
「いや、今日は帰って。ほんとごめん。また連絡するから」
「はぁ?」
そのときだった。
クローゼットの中から、小さな音。
次の瞬間。
「……蓮くん」
美悠の背中が凍る。
クローゼットの扉が、ゆっくりと開いていた。
「ちょっと! 優希、なんで出てきちゃうの!」
蓮の視線が美悠を通り越し、固まる。
「……え?」
優希は、まっすぐ蓮を見ている。
「嶋田蓮くん。三年二組。サッカー部。……文化祭で私に告白。失敗」
部屋の空気が凍りつく。
蓮の顔色が、みるみる変わる。
「……なんだ、それ……」
美悠は観念したようにドアを大きく開けた。
「あーもう! 仕方ない……入って」
優希は首を傾げる。
穏やかすぎる声。
感情の波形が見えない。
美悠は額を押さえた。
蓮は靴も脱がず、一歩踏み込む。
「ちょっと待て……似てる、とかじゃねえな。そのまんまだ。お前……本当に、優希なのか?」
優希は数秒、沈黙した。
「私は篠宮優希。十七歳」
迷いがない。
「……十七歳って」
「九年、経過。でも私は、十七歳」
蓮は目を閉じる。
過去と現在が、頭の中で噛み合わない。
「篠宮が作った……BCHってやつ、か」
「私はBCH。未登録個体」
さらりと告げる。
説明書の一行のような口調。
その中で、優希の瞳孔がわずかに開いた。
「……蓮くん」
一歩、近づく。
「好き」
事実報告のような声。
だが距離だけが、やけに生々しい。
「はぁ?」
美悠が弾かれる。
「今、私の彼氏なんだけど!?」
「九年前。好意、確認済み」
「だから、今、蓮は……」
「心拍数四%上昇。視線接触頻度増加。データ近似」
「やめて! 数値で言うな!」
優希は美悠を見る。
「でも……美悠も、蓮くん好き。だから、私、蓮くんいらない」
その言葉はまっすぐだった。
蓮の眉が歪む。
優希が止まる。
「友情、優先。最適解」
蓮が低く言う。
「それはあのとき、お前が悩んで選んだんだ。今のお前って、どうなんだよ」
優希の瞬きが増える。
「……今の、私?」
美悠が震える声で言う。
「それ、昔の再演でしょ……今のあんたは?」
優希は胸に手を当てる。
鼓動は規則正しい。
だが、わずかに速い。
「心拍数、上昇……理由、不明」
蓮が息を吐く。
「俺が好きだったのは、あの頃の優希だ。でも、目の前にいるのも優希だ。正直、脳が追いつかねえ……」
美悠は頭を抱える。
「なんで今、恋愛の話になってんの……。てか、今、彼女の前で言うセリフか?」
優希は二人を見て、胸を押さえる。
その感情は、模倣か、それとも初めて生まれたものか。
ただ、その鼓動だけが確かにここにあった。




