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人を模した君へ 〜未登録の十七歳〜  作者: ユノ・サカリス


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第3話《あの日》

フライパンに油を落とすと、じゅっと音が弾けた。


美悠は卵をひとつ手に取る。

白い殻。指先にひやりとした感触。

軽く縁に当て、ひびを入れる。

殻が割れる感触が指先に伝わる。


その瞬間、胸の奥がひりついた。


――あの日、手の中にあったのは卵じゃなかった。


温かくて、重くて、滑りそうになるもの。


放課後だった。

テスト前なのに二人でコンビニに寄り道して、どうでもいい話をしていた。


「ねえ、将来どうする?」


「えー、まだ決めてない。美悠は?」


「私? とりあえず生きてればなんとかなるっしょ」


優希が笑う。

少し鼻にかかった、やけに明るい笑い声。


次の瞬間、悲鳴が上がった。


振り向いたとき、光るものが見えた。

刃先だったのか、街灯だったのか、今もはっきりしない。


人の波が崩れ、押され、倒れる。

優希の手が、ふっと離れた。


「……優希?」


振り返ったときには、もう遅かった。


白いシャツが赤く染まっていく。

あまりにも簡単に。


「やだ……やだ、やだ、やだ……!」


膝をつき、傷口を押さえた。

温かいものが指の隙間からぬるりと零れていく。


「誰か……! お願い、救急車……早く!」


優希の唇が動いた。

何か言った。

でも、聞き取れなかった。


ただ、目がこちらを見ていた。


――たまたま、私じゃなかった。


あの位置が逆だったら。

あの一歩が違っていたら。


私が倒れていて、優希が泣いていたのかもしれない。


サイレンが近づき、誰かに肩を引かれた。

手が、離れた。


――届かなかった。


美悠は、気づけばフライパンの柄を強く握っていた。

卵はすでに白身を広げ、じわりと固まり始めている。


「……焦げる」


小さく呟き、火を弱める。

背後で足音が止まった。


「……いい匂い」


振り向くと、優希が立っている。

さっきまでの事件もニュースも、なかったみたいな顔で。


「卵の匂い、好き」


その言葉に、美悠の喉が詰まった。

あの日、優希は言っていた。


「明日さ、卵焼き作ってよ。美悠の、甘いやつ好きなんだよね」


明日は、来なかった。


美悠はフライ返しを握り直す。


「……今日は焦がさないから」


それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

じゅう、と音が鳴る。


――今度は、手を離さない。


卵焼きを皿に盛ると、優希は迷いなく手を伸ばした。

指先でつまみ、そのまま口へ運ぶ。


「熱い」


小さく眉が寄る。


「ちょっと! 箸使えないの?」


美悠は慌てて箸を差し出した。

優希は受け取り、数秒だけ観察するように視線を落とす。


それから、何事もなかったかのように正しく持ち、器用に卵焼きをつまみ上げた。


動きに迷いはない。


「……甘くて、美味しい」


その言い方がどこか丁寧で、美悠は息を止めた。


「ねぇ」


声が少し低くなる。


「さっきニュースで言ってたBCHって……あんた、なの?」


優希は箸を止めない。


「どこまでが優希で、どこからが違うの?」


問いは静かだったが、指先はわずかに震えている。


優希は咀嚼を終えると、自分の頭をとん、と指さした。


「スマホの記録……画像、全部ある。SNSも。会話も」


淡々としている。


「記録、ある」


美悠は唇を噛む。


――スマホの中身を基にした。


そういうことか、と直感する。


優希が続ける。


「頭に、学習用のAIが――」


「やめて!」


思わず強く遮った。


「もういい。分かったから」


自分の心臓の音がうるさい。


「難しい言葉いらない。あんたは優希でしょ?」


優希は数秒、考えるように瞬きをした。


「私は、篠宮優希。……十七歳」


その数字に、美悠の胸が締めつけられる。


「十七……」


笑おうとして、うまくいかない。


「そっか。優希の時間、止まってるんだね」


喉を整え、言い直す。


「私は浅川美悠。二十六、に……なっちゃったけど」


少し照れたように笑う。

優希はその顔をじっと見つめる。


「……九年、経過」


「そうだよ。九年だよ」


美悠は頷く。


「でもさ」


一歩、距離を詰める。


「時間が止まってても、ここにいるのは“今”の優希でしょ?」


優希はその言葉を処理するように、ゆっくりと復唱した。


「……今の、優希」


その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。

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