第3話《あの日》
フライパンに油を落とすと、じゅっと音が弾けた。
美悠は卵をひとつ手に取る。
白い殻。指先にひやりとした感触。
軽く縁に当て、ひびを入れる。
殻が割れる感触が指先に伝わる。
その瞬間、胸の奥がひりついた。
――あの日、手の中にあったのは卵じゃなかった。
温かくて、重くて、滑りそうになるもの。
放課後だった。
テスト前なのに二人でコンビニに寄り道して、どうでもいい話をしていた。
「ねえ、将来どうする?」
「えー、まだ決めてない。美悠は?」
「私? とりあえず生きてればなんとかなるっしょ」
優希が笑う。
少し鼻にかかった、やけに明るい笑い声。
次の瞬間、悲鳴が上がった。
振り向いたとき、光るものが見えた。
刃先だったのか、街灯だったのか、今もはっきりしない。
人の波が崩れ、押され、倒れる。
優希の手が、ふっと離れた。
「……優希?」
振り返ったときには、もう遅かった。
白いシャツが赤く染まっていく。
あまりにも簡単に。
「やだ……やだ、やだ、やだ……!」
膝をつき、傷口を押さえた。
温かいものが指の隙間からぬるりと零れていく。
「誰か……! お願い、救急車……早く!」
優希の唇が動いた。
何か言った。
でも、聞き取れなかった。
ただ、目がこちらを見ていた。
――たまたま、私じゃなかった。
あの位置が逆だったら。
あの一歩が違っていたら。
私が倒れていて、優希が泣いていたのかもしれない。
サイレンが近づき、誰かに肩を引かれた。
手が、離れた。
――届かなかった。
美悠は、気づけばフライパンの柄を強く握っていた。
卵はすでに白身を広げ、じわりと固まり始めている。
「……焦げる」
小さく呟き、火を弱める。
背後で足音が止まった。
「……いい匂い」
振り向くと、優希が立っている。
さっきまでの事件もニュースも、なかったみたいな顔で。
「卵の匂い、好き」
その言葉に、美悠の喉が詰まった。
あの日、優希は言っていた。
「明日さ、卵焼き作ってよ。美悠の、甘いやつ好きなんだよね」
明日は、来なかった。
美悠はフライ返しを握り直す。
「……今日は焦がさないから」
それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
じゅう、と音が鳴る。
――今度は、手を離さない。
卵焼きを皿に盛ると、優希は迷いなく手を伸ばした。
指先でつまみ、そのまま口へ運ぶ。
「熱い」
小さく眉が寄る。
「ちょっと! 箸使えないの?」
美悠は慌てて箸を差し出した。
優希は受け取り、数秒だけ観察するように視線を落とす。
それから、何事もなかったかのように正しく持ち、器用に卵焼きをつまみ上げた。
動きに迷いはない。
「……甘くて、美味しい」
その言い方がどこか丁寧で、美悠は息を止めた。
「ねぇ」
声が少し低くなる。
「さっきニュースで言ってたBCHって……あんた、なの?」
優希は箸を止めない。
「どこまでが優希で、どこからが違うの?」
問いは静かだったが、指先はわずかに震えている。
優希は咀嚼を終えると、自分の頭をとん、と指さした。
「スマホの記録……画像、全部ある。SNSも。会話も」
淡々としている。
「記録、ある」
美悠は唇を噛む。
――スマホの中身を基にした。
そういうことか、と直感する。
優希が続ける。
「頭に、学習用のAIが――」
「やめて!」
思わず強く遮った。
「もういい。分かったから」
自分の心臓の音がうるさい。
「難しい言葉いらない。あんたは優希でしょ?」
優希は数秒、考えるように瞬きをした。
「私は、篠宮優希。……十七歳」
その数字に、美悠の胸が締めつけられる。
「十七……」
笑おうとして、うまくいかない。
「そっか。優希の時間、止まってるんだね」
喉を整え、言い直す。
「私は浅川美悠。二十六、に……なっちゃったけど」
少し照れたように笑う。
優希はその顔をじっと見つめる。
「……九年、経過」
「そうだよ。九年だよ」
美悠は頷く。
「でもさ」
一歩、距離を詰める。
「時間が止まってても、ここにいるのは“今”の優希でしょ?」
優希はその言葉を処理するように、ゆっくりと復唱した。
「……今の、優希」
その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。




