第2話《速報》
扉が閉まると、街の音が切り離された。
古びたワンルーム。
狭い玄関、乾ききらない洗濯物の匂い。
生活の痕跡がむき出しのまま残っている。
美悠は鍵をかけ、背中を預けて息を吐いた。
肺が痛い。
さっきまで街の一部だった音は壁の向こうへ押しやられ、部屋には二人の呼吸だけが残る。
「……座って」
優希は立ったまま、天井の照明やコンセント、電子レンジの表示へ視線を滑らせる。
《環境変化。居住空間。安全度不明》
「……みゆう」
呼ばれた瞬間、美悠の喉が鳴る。
「それ言わないで。心臓に悪い」
救急箱を引き寄せる。
「肘、見せて」
赤く滲んだ擦過傷。
血は多くないが、痛いはずだ。
昔の優希なら「最悪」と顔をしかめただろう。
優希は無表情のまま。
アルコール綿を当てる。
「……しみるよ」
肩がわずかに跳ねる。
《微弱な痛覚信号》
「いた……」
それでも手を引かない。
視線だけが美悠の指先を追う。
「……あんたさ」
言葉が見つからない。
「お腹、空いてる?」
《空腹。残存》
「……お腹空いた」
冷蔵庫には卵と牛乳しかない。
「とりあえず、これ。飲める?」
優希は迷わず牛乳を口にする。
喉が上下し、呼吸は乱れない。
整いすぎている。
昔の優希は、飲み物を飲んだあと小さく息をついた。
目の前の少女には、そういう無駄がない。
美悠はテレビのリモコンを探すふりをして、呼吸を整えた。
手の震えをごまかしたかった。
「……ニュース、つけるね。さっき外、騒がしかったし」
【速報】
アナウンサーの声は淡々としていた。
『本日午後、外科医の篠宮恒一容疑者が、国家戦略医療資産に指定されている人体培養技術の一部データを不正に流出させた疑いで身柄を確保されました』
美悠の目が大きく開く。
「……篠宮……?」
次の映像。
バリケードの向こうでカメラが揺れ、記者の声がかぶさる。
『家宅捜索では、培養された人体の各部位を結合させ、“人を模した存在”が完成していた可能性があると発表されました』
美悠の喉が鳴る。
画面には、ぼやけたカプセルの映像が流れた。
白い照明。ガラスの曲面。
その中に横たわる、ひとりの少女。
髪の長さ。輪郭。瞳の形。
美悠はゆっくりと、テレビから優希へ視線を移した。
優希はテレビを見たまま、瞬きもしない。
『当該個体は、九年前に発生した無差別殺傷事件で死亡した篠宮容疑者の実の娘を基に設計された可能性があるとみられています――』
美悠の胸が、内側から殴られた。
「……嘘……」
耳が遠くなる。
部屋の空気が薄くなる。
視界の端で優希の肩がわずかに動いた。
音に反応したのか、言葉に反応したのかは分からない。
『また、篠宮容疑者は該当個体を、BCH(Bio-Constructed Humanoid)と呼称し――』
――BCH。
それは名前ではなく、分類だった。
『また、当該技術で生成された構造体は“人”ではなく、法的な人権の対象外とする見解が示されています』
――人権の対象外……
その言葉が落ちた瞬間、美悠の中で最後の迷いが音を立てて崩れた。
怖い。気味が悪い。理解できない。
それでも、目の前のこの子をまた失う方が、ずっと怖かった。
九年前、手は届かなかった。
今は、届いている。
美悠はテレビを消す。
「……いい。もう観ない」
優希がゆっくり顔を向ける。
「……みゆう」
その呼び方だけが、あの頃と同じだ。
美悠は一歩近づき、優希の手首に触れる。
「BCHでもなんでもいい。今ここで、放り出せない」
優希は黙って見つめ返す。
その視線には、確かに“現在”があった。
「……ねえ。名前、ほんとに優希なの?」
「私は篠宮優希」
外では遠くサイレンが鳴っている。
テレビは言った。
人権はない、と。
だからこそ、美悠は優希の前に立つ位置へ体をずらす。
「今日はここにいな。明日のことは、明日考える」
数秒後、優希が言う。
「……ありがとう」
それが記憶か模倣かは分からない。
それでも胸が痛む。
「うるさい。泣かせるな」
美悠はキッチンへ向かった。
「牛乳だけじゃ足りないでしょ。卵くらいならあるから」
背後で優希の足音がついてくる。
まだ何も理解できない。
それでも――九年前に離れた手を、今度は離さないために。




