第1話《呼ばれた名》
オープンテラス。
白いテーブルに赤いトレー。
小さな子どもが、ハンバーガーとポテトを抱えている。
「熱いから、ゆっくりね」
母親が笑い、油と塩の匂いが広がる。
その中で、少女は足を止めた。
十代後半に見える顔。視線は子どもの手元に固定されている。
そこに迷いはなかった。
《エネルギー低下。補給必要》
一歩、距離を詰める。
次の瞬間、ハンバーガーは少女の手にあった。
「え……?」
子どもの声が震える。
少女は包み紙を剥がし、そのまま口へ運んだ。
《取得完了》
パンの柔らかさと肉の脂が広がり、指先にかすかな熱が残る。
痛覚信号が走るが、空腹の優先順位がそれを上回る。
《嚥下。吸収開始》
母親が立ち上がる。
「ちょっと!」
周囲がざわめく。
だが少女は理解していない。それが“奪う”という行為であることを。
「警察を!」
《警察……拘束リスク上昇。回避行動へ移行》
少女は走り出した。
人波を縫い、テーブルの脚を避け、椅子の隙間をすり抜けて通りへ飛び出す。
「待て!」
背後で怒号が上がる。
角を曲がった瞬間、前方に小さな影が飛び出した。
《子ども》
内部で演算が走る。
《衝突予測。回避行動選択》
身体が大きく軌道を変え、芝生へ踏み込み、その先の人影へぶつかった。
「きゃっ!」
鈍い衝撃が走り、もつれた身体がそのまま地面へ倒れ込む。
少女の肘と膝が擦れ、皮膚が裂けた。
《皮膚損傷。軽度》
遅れて痛みが走る。
「いたた……あなた、大丈夫?」
頭上から声が落ちる。
少女は顔を上げた。
差し伸べられた手が、途中で止まる。
「……え?」
視線が少女の顔に固定され、呼吸が浅くなる。
「……優……希?」
その名が落ちた瞬間、空気が張り詰めた。
血、悲鳴、伸ばした手。
九年前の無差別殺傷事件の記憶が、容赦なく押し寄せる。
「なわけないか……」
女性は首を振る。
少女は肘を見下ろした。
《出血。止血不要。行動優先》
立ち上がろうとする。
「待って!」
女性も立ち上がる。
「怪我してる!」
少女が走り出すと、女性も追う。
「待ちなさい!」
距離が縮まる。
「早いな……でも元陸上部、舐めんなよ!」
少女の心拍がさらに上昇し、公園へ飛び込む。
芝生の上で足を止め、振り返った。
数秒遅れて女性が追いつく。
「はぁ……あなた……大丈夫?」
数歩の距離。
――似ている。いや……違う。でも……同じ?
少女の内部で照合が走る。
笑い声、教室、放課後。
少女の口が、ゆっくり動いた。
「……み……ゆう」
女性の心臓が跳ねる。
「なんで……私の名前……」
少女の視線が揺れる。
「警察に……捕まる。逃げなきゃ……」
再び走ろうとしたその手首を、女性が強く掴んだ。
「待って!」
かすれた声。
指先がわずかに震えている。
「あんた、なんなの……優希にそっくりで……」
涙が滲む。
「なんなのよ……あんた。名前は?」
少女は一瞬視線を彷徨わせ、それから答えた。
「優希」
女性――美悠の目が大きく見開かれる。
呼吸が止まる。
――違うはずなのに。
九年前、自分の目の前で血に倒れた同級生。
篠宮優希。
あの時、伸ばした手は届かなかった。
「……私のこと、知ってるの?」
喉の奥が焼けるように痛む。
「美悠……友達」
その二文字が、美悠の胸を貫いた。
理解が追いつかない。
目の前にいるのは他人のはずなのに、呼び方だけがあの頃と同じだった。
遠くでサイレンがかすかに響く。
優希の身体がわずかに強張る。
「警察……来る。逃げなきゃ」
理由も理屈も整理できない。
それでも――今ここで手放せば、また失う。
九年前と同じように。
「行くよ!」
美悠は優希の手を強く引き、再び走り出す。
公園を抜け、路地を曲がり、さらに細い道へ。
息が荒くなる。それでも足は止まらない。
やがて古びた二階建てのアパートが見えてくる。
「ここが……今の私の家」
鍵を乱暴に回し、扉を開ける。
優希を中へ引き込み、背中でドアを閉めた。
外の音が遠のき、部屋には二人の荒い呼吸だけが残った。




