第16話《行きたくない》
――サイレンが止む。
応援のパトカーが二台、三台と到着する。
制服の数が一気に増える。
優希の周囲の空気が、さらに重くなる。
「状況は?」
「例のBCH疑い個体です。抵抗の兆候なし」
男性警官が短く答える。
優希はその言葉を聞いて、小さく頷く。
「抵抗、兆候なし。最適解、従順」
両手をゆっくりと下ろし、前に差し出す。
「同行、可能」
女性警官が手錠を取り出す。
その金属音が、やけに大きく響く。
美悠は息を呑む。
「ちょっと待って! 何もしてないでしょ!」
「任意同行です」
男性警官は冷静だ。
だが、その手は確実に優希の腕を掴んでいる。
優希は一瞬だけ、美悠と蓮を見る。
二人の目が、必死に何かを訴えている。
蓮が叫ぶ。
「優希、行くな! 大丈夫だ! 話せば分かる!」
自分に言い聞かせるような声。
だが優希は首を振り、静かに言う。
「抵抗は、状況悪化。最適解は、従うこと」
その言葉に、美悠の顔が歪む。
「違う! あんたの最適解なんて聞いてない!」
警官に掴まれたまま、優希は歩き出す。
一歩。
また一歩。
アスファルトの感触が、やけに硬い。
そのとき、後ろで鈍い音がした。
「やめろって!」
蓮が腕を掴まれ、地面に押さえ込まれている。
「公務執行妨害になりますよ!」
別の警官が美悠の腕もねじ上げる。
「離して! 優希!」
その声が、優希の背中を貫いた。
足が止まるり、胸の奥が強く脈打つ。
「心拍数、急上昇」
違う……違う。
胸が締めつけられる。
頭の奥に熱が溜まっていく。
「廃熱……処理できない……」
視界が揺れる。
優希は、思い出す。
三人で湖へ出かけた日。
夜風の匂い。
笑い声。
熱を出し、美悠がそばに寄り添ってくれた夜。
震える手で、額に触れてくれた感触。
蓮が慌てて駆けつけてくれたあの夜。
「無理すんなよ」と言った声。
真夜中の散歩。
秘密の時間。
「朝の太陽、観測したい」
そう言って、海へ行こうと約束した。
それが、いま、目の前で引き裂かれている。
振り返る。
地面に押さえつけられた二人。
自分の名前を叫んでいる。
「優希!」
「戻ってこい!」
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「最適解、再計算――」
――できない。計算不能。
「……嫌だ!」
声が出た。
自分でも驚くほど大きな声だった。
「行きたくない! 離して!」
掴まれた腕を振り払おうとする。
女性警官が一瞬怯み、尻もちをつく。
「危険行動!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、男性警官が優希の身体を地面に押さえつけた。
衝撃が走る。
アスファルトの冷たさが、頬に伝わる。
「やめろ! この子は――!」
美悠の声が、かき消される。
優希はなおも叫ぶ。
「嫌だ! 離して! 行きたくない!」
涙が、勝手に溢れてくる。
「制御……できない」
腕を押さえつけられ、身動きが取れない。
大の大人二人が、少女の身体を地面に固定している。
その光景を、いくつものスマートフォンが囲む。
「ちょっと乱暴すぎない?」
「女の子じゃないの?」
「何もしてないでしょ!」
野次馬の声が、あちこちから飛ぶ。
優希の耳には、断片的にしか届かない。
視界がぼやける。
それでも、美悠を探す。
「優希! 優希!」
地面に押さえつけられたまま、美悠は必死に名前を呼ぶ。
蓮も、歯を食いしばりながら叫ぶ。
「優希!」
その声が、胸に刺さる。
「離れたくない!」
思考ではなく、ただの願い。
だが現実は、力だった。
手錠がかかり、金属の感触が手首に触れる。
身体が持ち上げられる。
抵抗は、もう力にならない。
泣き声だけが残る。
「行きたくない……」
それは、懇願だった。
女性警官の目は、まだ怯えている。
だが任務は止まらない。
優希は半ば抱え上げられるようにパトカーへと運ばれる。
ドアが開き、押し込まれる。
外から、美悠の叫び声。
「優希――!」
ドアが閉まる。
その瞬間、世界が切り離された。
サイレンが鳴り、パトカーが走り出す。
窓越しに見えるのは、地面に押さえられたままの二人。
そして、いくつものカメラ。
優希は、震える唇で呟く。
「私は……」
言葉が続かない。
涙だけが、頬を伝った。




