第14話《人目のない時間》
――三日後の朝。
美悠は優希の額に手を当てる。
「んー、熱はもう大丈夫そう。今日も大人しくしてるんだよ」
「美悠が出たら、施錠確認。外出、禁止。訪問者、応答不可」
「うん。それ守ってね」
靴を履きながら、美悠は何度も振り返る。
優希は頷くだけだ。
「退屈、という状態でもお腹は減る」
「そう、生きている証拠。お昼は十二時ね。その前に食べちゃダメ」
テーブルの上には、卵焼きに焼いたウィンナーがラップをかけられている。
「わかった」
「じゃあ行ってくる! 急がなきゃ」
ドアが閉まり、足音が遠ざかる。
その瞬間、世界から音が一つ減ったように感じた。
「美悠が仕事に行くと、部屋は急に静かになる」
優希はテーブルの上の本を手に取る。
昨日、蓮が持ってきた小説と雑誌。
ページをめくる音だけが、部屋に響く。
「感情描写、誇張。だが、理解は可能」
読みながら、ときどき窓の外を見る。
昼間の光は強い。
「昨日と一昨日。太陽、直接観測未実施」
小さく呟く。
――夕方過ぎ。
美悠が帰宅する。
「ただいま」
「おかえり」
その二言だけで、空気が少し柔らぐ。
食事を済ませ、時計が日付を越える頃。
蓮がやってくる。
「よし、行くか」
三人は静かにアパートを出る。
人目を避けるように、住宅街の細い道を歩く。
街灯がまばらに灯る。
自販機の白い光が、妙に明るい。
優希が立ち止まる。
「この時間、街の音が少ない」
「みんな寝てるからね」
「では、私たちだけが起きている?」
蓮が笑う。
「秘密の散歩だからな」
優希は少し考える。
「秘密。悪くない」
夜風が頬を撫でる。
昼間よりも、世界は小さい。
その小さな世界に、三人だけがいる。
コンビニの前を避け、交差点では遠回りする。
誰かに見られる可能性を、無意識に計算している。
優希がぽつりと言う。
「私は、隠れる存在?」
美悠が即座に返す。
「今はね。今だけ。きっと時間が経てば、みんなあのニュースのことなんて忘れる」
優希は頷く。
「一時的制限。了解」
帰り道、蓮が紙袋を差し出す。
「ほら、追加」
中には数冊の小説。
表紙は女の子同士が抱き合っている。
美悠がにやりとする。
「へー。蓮ってこういうの好きなんだ」
「ち、違う! たまたま目についただけだ!」
優希が本を受け取り、真顔で言う。
「登場人物は女性同士で恋愛関係にある」
「分析するな!」
「感情の方向性に性別制限は確認されない」
蓮が赤くなる。
美悠が笑う。
「いいじゃん、蓮。可愛い」
「や……やめろ!」
優希はページをめくりながら言う。
「この物語では、選択は困難。だが、主人公は選ぶ。選択可能であることは、重要」
美悠が優希に抱きつく。
「そしたらー。今日は優希と一緒の布団で寝ようかなぁ」
「おい!」
蓮は顔を赤らめ、目を下に伏せる。
「……嫌いじゃないぜ、そういうの」
一瞬だけ優希を見る。
優希は何も気づかずページをめくっている。
思わず美悠は吹き出す。
「冗談よ! 蓮ほんと、あんた何考えてるの?」
「う……うるせぇ」
三人の笑い声が夜風に溶ける。
「なぁ」
蓮が空を見上げる。
「次の休み、海行くか」
美悠が顔を上げる。
「昼間は危ないかもだけど、朝早くなら」
優希はほんの数秒考える。
「朝の太陽、観測したい」
その言い方が、静かで、強い。
美悠は頷く。
「じゃあ決まり」
優希が小さく言う。
「選択、予約完了」
三人は笑う。
散歩を終え、蓮は「またな」と手を振って角を曲がっていった。
アパートに戻り、扉が閉まる。
再び、外界との距離ができる。
布団に入りながら、優希が呟く。
「人目のない時間。安心値、上昇」
美悠は横を向く。
「そのうち、昼間も歩けるようになる」
「その確率は?」
「待っていればいつか上がる。……きっと大丈夫」
優希は静かに目を閉じる。
今日の夜も、誰にも見られていない。
だからこそ、確かに生きていると感じられた。
遠くで、救急車の音が鳴る。
世界は動いている。
その中で、二人の小さな時間が、確かに存在していた。




