第13話《熱の夜》
ドアを開けた瞬間、美悠は違和感に気づいた。
静かすぎる。
いつもなら、何かしらの独り言が聞こえるはずだった。
分析、観察、どうでもいい報告。
「優希?」
返事がない。
靴も脱がずに部屋へ入ると、カーテンの向こう、布団の膨らみが目に入った。
丸まっている。
「……優希?」
近づく。
優希はゆっくり顔を上げた。
頬が赤い。
「体温、上昇。廃熱、処理できない」
声が弱い。
美悠の心臓が跳ねた。
「え、なにそれ。壊れた? 風邪? バグ?」
優希はぼんやりと天井を見つめる。
「寒い。でも暑い」
その言い方があまりに人間で、美悠の喉が詰まる。
額に触れる。
熱い。
「やだ……熱あるじゃん」
優希の瞳がわずかに揺れる。
「故障、可能性?」
「言うな!」
思わず強く言ってしまい、すぐに後悔する。
「ごめん……ごめん」
タオルを水で濡らしながら、手が震える。
「私、何もできない……」
優希はその顔を見つめる。
涙が、ぽとりと落ちる。
「美悠、泣いている」
「当たり前でしょ!」
声が裏返る。
「私は、壊れた可能性がある?」
その一言で、美悠は崩れた。
「ない! 人ならこれはただの風邪! ……人なんだから」
布団の上から優希を抱きしめる。
「やめてよ……」
声が震える。
「風邪でも不具合でも何でもいい。治るから。治るって信じるから」
優希は少し沈黙し、ぽつりと呟く。
「病気の個体に対し、美悠は優しさが増加する」
「は?」
「通常時、口調は鋭い」
「今それ言う?」
「だが現在、声が柔らかい」
美悠は泣きながら笑う。
「うるさい。黙って寝て」
そのとき、スマートフォンが鳴る。
蓮だ。
『おっす。今日優希、大丈夫だったか?』
「蓮……。優希熱出してる! デコピタと、スポーツドリンク買ってきて!」
『熱!? おいおい、どうしちまったんだ優希……』
「蓮……お願い、急いで」
『熱かぁ。もしかしたらそれ、ただの風邪じゃねぇか?』
「でも頭AIだよ!? オーバーヒートとかだったらどうすんの!」
『……分かったよ。すぐ行く』
電話を切る。
氷枕を替え、汗を拭き、薄いお粥を口に運ぶ。
やがて蓮が到着する。
「優希! 大丈夫か?」
「蓮くん……」
優希は軽く咳き込んだ。
「こりゃ、風邪だな」
蓮の言葉に、美悠は少しだけ安心する。
「とりあえず今晩は様子を見るしかないな。ただ、これ以上悪化するようだったら……」
蓮が低く言う。
「俺たちには対処のしようがない」
少しの沈黙のあと、蓮が口を開く。
「オレ行くよ。オレがいたら優希もゆっくり休めないだろうし。でも何かあればすぐに連絡をくれよな」
「……うん、ありがとう」
蓮は優希を一度だけ見た。
額に貼られたデコピタと、汗で湿った髪。
「無理すんなよ」
それだけ言って、静かに立ち上がる。
玄関で靴を履く音がやけに大きく響いた。
ドアノブに手をかけ、少しだけ振り返る。
美悠は優希の手を握ったまま、顔を上げない。
「……頼んだ」
小さく残し、蓮は部屋を出た。
ドアが閉まる。
外の足音が遠ざかり、やがて完全に消える。
部屋には、二人の呼吸だけが残った。
優希の指が、布団の上から美悠の袖を掴む。
力は弱いのに、離れない。
優希はうわごとのように呟いた。
「美悠……いなくならないで」
その声は、分析でも報告でもなかった。
ただの、不安だった。
美悠の胸が締めつけられる。
「どこにも行かない。絶対、いなくならない」
優希の手を握り返す。
その約束がどれだけ脆いものか分かっていながら。
優希はわずかに息を吐いた。
「安心値、上昇」
その言い方が、泣きたくなるほど人間らしかった。
美悠は優希を抱きしめ、額に唇を押し当てる。
優希は目を閉じる。
「不便。けど……悪くない」
――朝。
窓から光が差し込む。
優希はゆっくり目を開けた。
その隣で美悠もゆっくり目を開ける。
「体温、正常域」
声は昨日よりはっきりしている。
「身体、回復機能確認」
美悠はその場に座り込んだ。
「……人間だよ、あんた」
涙と笑いが同時にこぼれる。
優希は天井を見つめる。
「発熱、学習。美悠は、私を失う可能性に弱い」
「分析するな!」
それでも、美悠はその手を離さなかった。
美悠は蓮に電話をかけ、優希の回復を報告した。
その声は、昨夜より確実に軽かった。




