二
朧が消えて、あたりは空虚。
先ほどまであった人の感触は武骨だが、確かに温もりを感じた。しかしそれが、ふっと消えたのだ。水を掬った時のように、手の隙間からこぼれ落ちていく感覚とはまた違う。手をすり抜けたような――本当に突然、感触も温もりも暗闇の中に溶けてしまったかのように消えたのだ。
そうしてまた、椿の耳にはしじまが届く。
ポツンと、暗闇の中に一人。最初の、神と対峙するのだと身構えていた時のような恐怖心はないが、何故だか今度は一人になったと言う不安が椿を襲った。
音も無い。気配もない。風の揺らぎもなければ、不可思議にささめく声もないのだ。
椿はじっとしてなどいられなかった。じっとしているから不安なのだと、寂しいのだと言い聞かせて身体を起こした。
おそらく、あたりは供物で埋め尽くされているはず。椿は慎重な足取りで、足を這わせるように歩くも、一向に何も足に引っかからないどころか、爪先にすら当たらない。
――おかしい……供物が消えている?
とりあえずは壁まで歩こう。椿は際まで慎重に歩くも、やはり、何一つ障害物に当たることなく辿り着いた。
――どうなっているのかしら。
椿の周りを埋め尽くしていた供物は一体どこへ行ったのか。
――そう言えば、椿は朧が外した簪も……。
それすらも踏んだ記憶がないと知る。たまたま踏まなかっただけなのか、それとも供物含め朧が何かをしたのだろうか。
――考えても仕方ないわね。
椿は頭を切り替えるように、次の行動へと移った。と言っても、できることは限られる。とりあえずは、部屋の形を把握するところから始めることにした。
壁伝いに手を這わせ、椿は部屋の中を歩く。
今自分が置かれている状況を把握することを第一歩と考えてのことだったのだが――。
――……あれ?
ぐるりと一周、壁に手をついたまま部屋を回り終えたと同時に気がつく。
「扉がない?」
確かに四つの面に触れたはず。角も四回曲がった。椿は訝しむも、もう一度、ぺたぺたと壁に触れながら部屋を一周。が、結果は同じ。さらに言えば、椿はどの方角から自分が入ってきたかもわからなくなっていた。
「どうして?」
見えないとは言え、土壁と扉の違いくらいはわかるはず。
――扉は壁と同じ材質ということ? でも、隙間や窪み、凹凸もないなんてありえない……わよね?
だのに、椿の手には土壁と同じ冷たい手触りしかない。しかも、どこをどう触ろうとも平ら。これには朧という存在と同じぐらいに困惑してしまったのだが――ふと、思い出す。ささめく者たちのことを鑑みれば、そういった事象はあって当然と考えるべきだろうか。しかし、扉が消えるなど、椿には考えてもみなかったことでもある。
「……えっと、確か……」
椿は蔵へと入る時のことを脳裏に浮かべる。花嫁行列で、養母となった庄屋の妻に手を引かれて畦道を歩いた。履き慣れない厚みのある草履のせいで、何度も蹴つまずきそうになって耐えた。そうやって、やっとこ歩いて辿り着いた先が蔵だった。
見えなくとも、異様な気配が漂っていた。
――その後に……。
例の扉である。
錠前を外す音と、分厚い木扉を開ける、ぎいぎいと鳴く音は、今も椿の耳の中に色濃く残っている。
その時の空気も、周りの怯えたような息遣いも、足取りも、妙に忙しなく動くから衣擦れの音も異様に煩いのも。どうして、いちいち扉を閉め、錠前を内側から掛け直したのか。朧の言う、封じられている、とやらと関係があるのか。
椿は、今になって色々なことが不可解に感じた。
――村の人たちは、何か、おまじないでもかけていたのかしら? そんな不思議なことができる人たちとは思えなかったけれど……。
椿は考えるも、不可思議な声のささやきのような体験をしても、そういった方面に明るくはない。あくまでも声が聞こえるだけなのだ。
「外に出てから調べるしかないのかしら」
「多分な」
降って湧いたように、椿の背後から突然声がした。椿は驚きで肩が跳ねる。が、その肩を落ち着かせるようにか、朧の手らしきものがそっと触れた。
「そんなに驚くことか?」
「びっくりしたもの。あなたが突然現れるから」
朧の気配は毎回突然に現れる。何もないと感じていた場所に、突然、気配が顕現するのだ。しかし、現れたばかりの気配は人のようなものに感じるのだから不可思議としか言いようがない。
「それで、何を探っていた」
「……ここがどう言う場所なのか知ろうと思って」
「実りは?」
「何もないわ。まさか、扉まで消えているだなんて考えていなかったもの。あと、供物もね」
「供物は俺が腹の足しにした。扉に関しては見たこともない」
朧の突飛な発言に、椿は驚きと混乱が同時に芽生えた。
――腹の足しって、どう言う意味? いえまずそれよりも……。
「扉を見たことがないって……元は人と言うなら、あなたもとびらから入ったのではないの?」
「俺は、知らない間に蔵に放り込まれてた。その時は暗闇に目が慣れていなかったからな、判らない。だが、見えるようになってからも、そんなものは一度として現れなかった」
朧の声色は一定で、諦めのように何の感情もこもってはいない。
「気づいた時にはいつも供物のように米やらが山のように置かれている。決まって真ん中は誰かいて――お前の時もそうだった」
儀式は十年に一度。椿はそう聞いている。であれば、これは十年ぶりの食事ということだ。腹の足し、という言葉通りであれば朧は食事の途中。
「今も、お腹は空いているの?」
椿はそっと朧に尋ねた。自身もまた、贄という役目でここにいるのだ。
「……供物を喰ったから、少しは紛れた」
生で食べれるものばかりだっただろうか。じゃらりとした金属のような音もした気がすると、椿は思い出す。
――食べる……確か、絹もあると言っていたような。
到底、食べるという言葉が当てはまらないそれに、椿が戸惑っていると、朧がそっと言った。
「喰うって言っても、口で喰うわけじゃない。あんまり気にするな」
「……でも、足しにしたということは、まだお腹が空いてるんじゃ」
「まあ、なんとなくの空腹感があるな。いつもに比べれば、まだマシだ」
朧はこれまで何度と贄や供物を喰らってきたのだろう。神妙とは言い難い口調は、とてもそうとは思わせなかった。だからこそ、椿は不可思議だった。この、朧という人物は本当に、ささめく者たちの言葉通りの残忍な存在なのだろうか、と。
「ねぇ、今まで贄も……本当に人も食べてきたの?」
椿はしんとした声で問う。分かりきっていたことではあったが、朧の口から直接聞いてみたいとも思った。
朧は躊躇うように僅かに間をおいて、しかし次に口を開いた時にははっきりと一言。
「ああ、喰った」
そう、言った。




