一
ふと、目が覚める。
椿が生家を離れたのは、もう、半月も前のことだ。
――今更、夢に見るなんて……。
椿は鈴の姿を思い浮かべながら、夢の余韻も相まって涙がこぼれ落ちた。鈴は今、どうしているのだろうか。そんなことばかりが浮かぶのだ。
椿にとって、鈴は人生の半身にも等しかった。離れ難い双子の姉妹のように、いつも一緒。
――いえ、違うわね……世話係を命じられていたから鈴は私のそばにいるしかなかった。私は鈴の時間を奪い続けていただけ。
椿の両親が急逝した後、鈴は叔母夫婦に何を言われようとも椿のそばを離れなかった。椿が打たれることがあれば、身代わりになろうとすることもあった。
――そういえば、鈴が蔵に閉じ込められることもあった……。
叔母が椿を躾と称して蔵に閉じ込めたことがあった。だが、椿は怯えるどころか居眠りをして、眉の一つも動かさなかった。ならば代わりにと、叔母は鈴を閉じ込めたのだ。
たった一刻程度のことだったが、鈴は暗闇に酷く怯えるようになり、一人で眠れなくなってしまった。それからしばらくは二人で一つの布団で寝る日々が続いたのだ。
思い出と、忌まわしい記憶が交互に合わさって、苦しいような、懐かしいような、不可思議な感覚に椿は襲われる。だがもう、そんな感情もお終いだろう。
鈴は自由になったのだ。
これからは自分自身の幸せを掴んで生きていくはず。そう自分に言い聞かせても、鈴を思い出すだけで椿の胸は軋んだ。そんな、夢とうつつの境目を彷徨うかのように呆然としていると、無音の空虚な空気の中に、ふっと男の声が湧いた。
「どうした」
その声は、椿に現実を思い出させるには十分だった。
目覚めた体に染み込む、変わらない冷えた空気。しかし同時に、背中には温もりがじんわりと滲む。それこそ、幼い頃に鈴と共に寝た晩のように温かい。それも、背中だけではなく、腹の辺りにも人の腕が回されているような感触までするものだから尚のこと。
――そうだった……昨日、私は……。
椿はだんだんと、昨日のことが鮮明になった。と言っても、椿の視界は暗闇のままだし、夜と朝の気温による変化もない。どれだけの時間が過ぎたのかもわからない状況では、昨日という言葉すら正しいのかもわからなかった。
そうやって戸惑っている間に、椿の身体が転がされる。ぐるりと、寝返りを打つように反転すると、言葉は正面から椿に届いた。
「泣いているのか?」
何かが、椿の頬を伝う涙を優しく拭う。怪奇な感触ではない。指の腹、だろうか。そんな思考で、椿はようやく、今は一人ではないのだと思い出した。
「……ここは気味が悪いだろう、しばらくの辛抱だ」
朧は静かに、そして椿を労るように言った。
「……違うの。それは平気……ただ少し……寂しくなってしまっただけ」
椿は正直に言った。今、会話できる相手は、お互いの利益のためとはいえ、夫となった目の前の存在だけ。
「……まあ、こんなところに閉じ込められたらな。しかも、得体の知れないものと一緒じゃあな」
自虐的な朧の言葉は、もの寂しさも感じさせる。自分は人だと主張しながらも、そうでないと言っているような。そんな卑屈な姿こそ、人のようだと椿は思った。
だから、何気なく――おそらく向かい合っているであろう、朧へと手が伸びた。
最初に触れたのは骨ばった喉だ。柔らかくない筋が張って、そして真ん中部分は少し飛び出ている。喉仏だろう。昔父に教わった覚えがあった。
「どうしたよ」
朧は怪訝な口ぶりながらも、手を払う事はしない。
「あなたはどんな顔をしているのかと思って」
「醜男は嫌か」
「さあ、見たことがないからわからないわ。でも、声は嫌いじゃない」
そこからさらに、喉をたどって上へ。輪郭をつくる下顎がはっきりとしてようやく、朧の顔はあった。
まずは頬。張りのある肌は、若さを伺える。しかし、女や子供のようにふっくらとはしていない。むしろ頬骨の影響か、固いと感じるほどだ。鼻筋は通って、唇の形も良い。髪は目を覆うように長く、しかし後ろはまとめるには至らない程度の長さ。
幼い頃に触れた丸顔の父親とは違う顔付だった。普段触れていた小柄な鈴とはもっと違った。
――なんだか、本当に人みたい。
椿は触れれば触れる程、朧という形は見えるのに、反対に存在がよくわからなくなっていた。朧は自身が人間だと主張するが、この暗闇の主でもあり、神とすら呼ばれる存在を人と断定できるものだろうか、と。
しかし不思議と、昨日のような不可解な事象への恐怖はない。今も、目の前にいるのは、夫になったであろう人なのだ。
「満足したか?」
椿は朧の言葉で我に返る。逡巡する間も、肌に触れたままだったのだ。
「あ、ごめんなさい」
椿は慌てて手を引っ込めようとするも、何かがその手を掴んだ。
「べつに良い」
武骨な――男の手だった。
「細いな」
「……そうかしら」
椿の手を両手で包み込むように、細い指を、繊細な手のひらを、手の甲を丹念に調べるように摩る。くすぐったいような、気恥ずかしいような。椿もまた、されるがままだった。
そうすることで、今度は朧の手の形が見えるのだ。
朧はおそらく、椿の姿が見えている。しかし、椿がしたように、手から手首、腕、二の腕、肩と、椿の形を確かめているように触れていく。
椿の体温は上がった。父親以外の異性に丹念に触れられるなど初めてで、どうにも気恥ずかしい。いや、父親でもここまで触れることはなかった。自分がその手のことをやったのだから、拒否してはいけないと思いつつも、椿の腰は引けていた。
だが、そうはさせまいとでもいうのか、肩に触れた朧の手が歯止めをかける。引き寄せられることこそないが、椿の身体の形を準えた。
肩から筋を辿り、そのまま手は耳へ。椿の髪を撫でたかと思えば、椿の頭に収まっていた簪や花飾りを一つ一つ外していく。
「……何しているの?」
「邪魔だろ、これ」
髪を結っていた全てが消えて、椿の頭は軽くなった。その解いた髪を、朧は手櫛で梳る。それも、何かを確かめるように、丹念にだ。
「……ねえ、あなたは私が見えているのよね?」
椿はしばらく朧の好きにさせていたが、手持ち無沙汰だ。何となく気になって問いかけた。
「ああ、見えている」
「じゃあ、何を確かめているの?」
朧は迷いなく、それこそ息をするかのように淡白に言った。
「俺が、幻覚を見ていないかどうか」
朧の手は止まらない。髪の毛の先から、指の先、耳の位置や形。今にも、椿の身体の線まで調べそうで、椿は慌てて止めた。
「ま、まって……!」
今まで――鈴にだって、そこまで触られたことはない。あっても遠慮がちだった。だから、と言うよりも流石に至る所までとなると、気恥ずかしいどころでは済まない。
椿は朧の手を絵探りに捕まえて、それ以上動かないように止める。
「幻覚って……」
椿がそう言いかけて、しかし同時に手から朧の感触がすり抜けていく気がした――いや、確かにあった人の形が、気配が、靄のようになってしまったのだ。それこそ、朧げな何かへと変じてしまった。
『……なんでもない』
朧は力無く、その言葉一つ残して消えてしまった。




