五 幕間② 椿と鈴
二階の四畳半の狭い座敷が椿の部屋だった。日当たりも悪く、更に言えば風通しも悪い。その部屋で、鈴と琴を奏でる時間だけが、椿の唯一の楽しみだった。
その、日課の琴を弾き終わった直後のこと。
「私、売られるみたい」
椿は昨晩のことを今思い出したかのように呟いた。
椿はのうのうと手を膝の上に置いて姿勢よく座ったままだったが、あまりに突飛な発言だったからか、隣で一緒に琴を奏でていた鈴は、最後の一音を見事に外す。挙句、今にも飛び上がりそうなまでに「ええっ!?」と素っ頓狂な声を上げていた。
「お、お嬢様!? いくら、あのごうつくばりの二人でもそんなっ……」
椿が口にした不穏の正体など、鈴はお見通しとでも言わんばかり。鈴がごうつくと言ったとおり、椿が十歳の時に両親が急逝した後、勝手に椿の後見人を名乗り、家と店を乗っ取った。更に言えば今は、椿に遺された筈の財産を食い漁っている状態。そう言われるのも無理もない。
「本当よ、聞こえたもの」
椿は本来であれば悲劇を自ら語っているというのに、至って冷静だった。反対に側にいた鈴は驚いて固まったまま、声も出ないと言った様子だ。そんな鈴を尻目に椿は淡々と琴を片づけ始めた。
椿は視線を異方へとむけたまま。手探りながらも慣れた手つきで琴柱を外す。しかし、正気を取り戻したのか、椿の手の上に鈴の手が重なった。
「お嬢様やります」
椿は素直に鈴に任せた。椿は鈴へと琴柱を渡せば、鈴が慣れた様子で琴を片付けていた。そして、終わるや否や先ほどよりもずいと椿に近づいて、今度は対面に座り直していた。
「それで、お嬢様。売られるって、どこにですか!。まさか、女郎屋っ!?」
「刀根田村の庄屋さんの養女になるという話みたい」
椿が聞こえたと言った言葉に、鈴は何も疑問を持たない。幼い頃より、鈴は椿のそばにいる。椿の耳が人一倍良いことは、鈴もよく知る事実。狭い世界での、二人の秘密だった。
「それがどうして売られる、になるんですか。大体、養女になるって……お嬢様はもう十八です。そんな話、何か裏があるに決まってます」
椿は既に妙齢。本来であれば、嫁入りをする年頃でもある。養女とするにはそれ相応の価値か役目を求めてと考えるからだろうか。鈴は女郎屋を口にした時よりも、悲痛めいた声をあげていた。
「そうかもしれないわね。でも、このままここに閉じ込められていても、何も変わらないから」
此処――この日当たりも悪い部屋は、屋敷の中で一番狭く、窓も小さいため、風通しも悪い。その上、二階の奥とあって盲目の椿には不便極まりない場所でもある。元は中庭に面した縁側が椿の部屋だったが、勿体無いと取り上げられてしまった。病床の身と偽るにも都合が良かったのだろう。今では、こぢんまりした部屋で椿と鈴は寄り添って眠る日々だ。
「このままここに居たら、本当に女郎屋にでも売られてしまうか……下手をしたらお店の方で客を取れとでも言われるかも。良い機会だと思うの」
椿はそっと顔を小窓の方へと向けた。夏も終わりで、ひぐらしの鳴く声が虚しくも響く。風も涼しくなりつつある夕刻。椿の目は窓の外を見ているようで、どこも見ていないように焦点は何も示してはいなかった。
「目が見えたら、ここから逃げる勇気も出たかしら」
ひっそりとこぼした椿の瞳は、やはり何も映してはいなかった。一抹の光すら見えたことのない、椿の生きる世界は終始暗闇。しかし反して、椿はおっとりと頬に右手を添えて首を傾げている。その姿どおり、悲劇や嘆きなど感じていないように。
その代わりとでも言うように、鈴は興奮したように椿にさらに詰め寄る。椿の両の手で握り抱えると、今にも泣きそうなまでに顔を曇らせて――しかし目は真剣だった。
「そうです、お嬢様逃げましょう! この家から逃げたって、あの二人は追ってきません。それで……」
「それで、どうするの? 私にも鈴にも親族はいない。私は真っ当な仕事にはつけないだろうし、あなたのことを路頭に迷わせるなんて到底できない」
「さ……佐吉さんなら、なんとか」
佐吉は、下男下女、手代が入れ替わろうとも、今も番頭を続けている。父や母と同じように椿と鈴を可愛がっていた人物で、確かに彼であればと思わせる人柄。しかし、椿の意思は毅然として変わらなかった。
「駄目よ。迷惑はかけられないもの」
今、椿が真っ当とは言い難いがそれなりの生活が維持できているのは、佐吉が叔母夫婦を見張っているからだ。これ以上の負担を強いてはいけない。
椿は常に冷静だった。自身のことなど顧みないように感情は凪いだまま。鈴を諭すように言葉を続けた。
「お店はどうせ、私ではどうにもならなかった。そこに未練はないの。でも、鈴や佐吉さんに迷惑をかけてまで何かをしたいとは思わない。目が見えない私はどうやっても足手纏いだわ」
椿は自身が売られると語った時よりも、さめざめとした声色で言った。もう諦めている。そう語っているようで、それが鈴を落ち込ませてしまったのか。
先ほどまで椿に勢いづいて問い詰めていた姿勢は消えて、椿の手を握りしめる鈴の手は力ない。更には椿の手に、ポロポロと水が落ちてくる。ぐずぐずと堪えるように鼻をすする鈴の声が、水の正体だろう。
「……私は……お嬢様に幸せになってほしいです」
涙ぐみながらも、鈴は言う。椿と鈴は本当の姉妹のように長い時間を共に過ごした。椿の両親が、盲目の椿のためにと拾った孤児でもあったが――そうでなければのたれ死んでいたのだと言うのが、鈴の口癖だ。勿論、今ではそのような面影は何処にもない。ただ椿を想い、憂う友人だった。
「お嬢様、私はどうしたら良いですか」
鈴は椿が逃げる気がないのを理解してしまったのだろう。このままでは、椿は売られるように刀根田村へと行ってしまう。抵抗もせず、受け入れる椿を目の前で見ているからこそ、鈴は椿よりもずっと苦しんで涙を流しているかのようだった。
「……鈴、私が此処を出る時に、あなたも出なさい。それこそ、佐吉さんを頼ってお嫁に行くの。そうしたら、私のことも刀根田村に嫁にでも行ったのだと思って、忘れてしまいなさい」
幼馴染である鈴も、椿と同じ年頃。しかし、鈴の目には涙が溜まったままだった。
「そんなこと言わないで下さい……」
「私は鈴に幸せになってほしい。それで十分よ」
椿は自分自身のことはさめざめと話したのに、鈴のことにはこれ以上ない慈愛が籠った声色で、ゆっくりと語っていた。




