二
大通りには藤岡屋とは別に、木の下屋と呼ばれる旅籠がある。
昔は藤岡屋に次いで繁盛していた店だったが、藤岡屋が傾き始めた頃から益々盛況とのことだった。
そこで、ふた月ほど前に新たな番頭になった男の名が、藤岡屋に勤めていた佐吉という男だと団子屋の主人が教えてくれた。鈴という女も、そこで一緒に働いているのだとも。
日が傾きかけた昼過ぎの頃合い、椿はそっと朧に背を押されながら日除け暖簾を潜った。
「ごめんください」
と、少しばかり弱腰に椿は言った。日差しのせいか、中が薄暗く見える。反対にこちらは見え難いだろう。帳場に座っていた男は、帳簿から目を上げたが、目を細めながらこちらを見ていた。しかし、声はしっかりと聞こえたようで、「はい、はい」と短いながらにも返事があった。
「お泊まりでしょうか」
と、優しげな、歳を召した男の声がして、椿は背筋を伸ばした。男の声に覚えがあったのだ。
「あの、佐吉さんでいらっしゃいますか?」
帳場で男が何かに反応して、驚いたように立ち上がった。目を凝らすように見開いて、しかし半信半疑なのか――それこそ幽霊かどうかでも確認するかのように、よたよたと椿に近づいて椿の手を握った。そして、ようやく幽霊でないと確信した声は感極まっていた。
「よく無事で……」
佐吉の手は震え、目からは涙がこぼれ落ちる。椿はそれだけでも故郷に帰ってきたことに胸が熱くなった。
「お会いできて良かった。あの、鈴は?」
「ああ、鈴……ぜひ会ってやってくれ。椿さんが刀根田に行ってからずっと落ち込んでいたんだ」
佐吉は「おい、誰か」と人を呼んで、鈴を連れてくるように言った。
「刀根田村で疫病が流行ったと耳にしていたんだ……もしやと思って――本当に良かった」
そう言って、佐吉は椿の手を握り込む。本当に椿が無事な姿を見て安心し切っていた。しかし、次に目線を上げた時、視線は椿ではなくその背後へ。
「…………ところで、そちらの方は」
椿の後ろには、何も言わずに見守っていた朧。椿は何と説明すれば良いか迷っていたが、朧がすかさず「刀根田村を出るついでに、ここ迄送っただけだ」と言った。何も間違ってはいない。なのに、椿の胸に痛みが走った。
「それは……なんとお礼を言ったら……」
椿の心など知らないと佐吉は、朧へと向かって、それはそれは丁寧に何度と「ありがとうございます、ありがとうございます」と繰り返した。椿の父と佐吉は店主と番頭という立場だったが、父が雇われの時から友人同士の関係だったと椿も聞いている。だからなのか、椿と鈴のことも娘のように可愛がっていくれていた人物でもあった。
その心が今もあるように――むしろ、佐吉は父の代わりに心の底から喜んでいるようだった。
椿は、今はわずかに生まれた自分の胸の苦しみなど知らないふりして、もう一つの――目が見えるようになったのだと伝えようとした。
「それと――」
そう言いかけた時だった。どたどたと、老舗にあるまじき足音が帳場へと駆け込んできた。
「佐吉さん、さっき……!」
小柄で、愛らしくも幼い顔立ち。落ち着いた色の着物を着て、少々大人びても見えたが――椿を目にした瞬間にその顔は歪んで、ボロボロと涙を流し始めたのだった。
「……お嬢様!!!」
くしゃくしゃの顔のまま、鈴は帳場から椿へと飛びつく勢いで駆け寄った。椿を二度と離さないと言わんばかりに抱きしめて、うわんうわんと、まるで子供のように泣きじゃくる。椿は驚きこそすれ、つられて泣き出し、隠すように鈴を抱きしめた。
椿は生きることを諦めていた。そして、鈴にも諦めるように言った。それが、いかに愚かだったのかと思い知らされたのだ。
二人の涙はそれからしばらくは止むことはなかった。
◇
是非泊まっていってくれと店主からの申し出もあり、椿と朧は木の下屋へと招かれた。藤岡屋とは商売敵でこそあったものの、椿の父との関係は悪くなかったのだとか。
それに今は稼がせてもらっているのだと、商売人らしい言葉と一緒に椿に笑っていた。
夕暮れにもなると鈴や佐吉、過去に藤岡屋に勤めていた者も一緒に食事をして、小さな宴会のようだった。
椿が目が見えるようになったのだと話したものだから、そのお祝いで大賑わいだったのである。
だからとて、刀根田村のことは話せない。疫病の噂もあったからか、誰も詳しくは聞かなかった。ただ、めでたい、その心ばかりの賑やかな時間だった。
椿は皆に囲まれ、身動きもできずにいたのだが、朧はと言うと、端で佐吉と話し込んでいた。二人は神妙な顔をして、宴席の様相ではない。
――何を話しているのかしら。
耳を澄ませたところで色んな声が混ざり合ってよく聞こえない。そうやって、朧のことばかり気にしていたからだろうか、突然鈴が言った。
「……お嬢様、あの方とはどんな仲なんですか?」
色恋沙汰を期待して何にやら想像しているのか、鈴は楽しそうに頬を赤らめ、息巻いている。
「だから、あの人は私を気遣ってここまで送ってくれただけよ」
椿は、自分で言いながらチクリと胸が痛んだ。
「そんなお人好しの方には見えませんよ! お嬢様に気が合ったからじゃないんですか!?」
朧は表情が暗い。目元も、前髪で隠れてしまっている上に、着物も黒と第一印象は悪いのかもしれない。しかし、そんな見た目とは裏腹に、椿は朧の優しさを知っている。刀根田を出て、故郷までたどり着く間、朧と寝屋を共にしたことはあっても、朧が椿に手を出したことも、素振りもない。ただ約束だから。それだけの理由でここまでは連れてきてくれただけなのだ。
「それは……多分違うわ」
椿が静かに否定したものだから、それ以上誰も追及することはなかった。椿はそっと、お猪口の酒を飲みながら、もう一度ちらりと朧を見やる。すると、朧と目があった。
いつもであれば声をかけるところだが、直ぐに逸らされてしまう。そんな些細なこと、と思えたら良かっただろう。だが、椿の胸には次々と針でも刺さっているようでならなかった。




