三
宴会のような夕食も終わり、椿と朧はそれぞれ宿の部屋へと案内された。ただの旅の道連れと朧が言ってしまったからなのだが、椿は久しぶりに一人きりになってしまったのだ。
もう日は沈み、家々は眠りについている頃だ。ほんの先ほどまでの騒がしさが嘘のように、町は丸ごとしじまの中。
二階の窓の外は浮かぶ灯りもない夜の景色。椿は窓辺にしなだれるようにもたれ掛かって、眠れぬ眼で呆然と眺めるばかりだった。
朧とは野宿をしたこともあれば、夫婦を装って民家に泊めてもらったこともある。だから、隣り合わせで眠ることが当然だった。刀根田村からここまで、常に朧が一緒だったからか、椿は一人の時間に違和感を感じていた。
「……わたし、帰ってきたのよね……?」
自問自答をぶつけるように、夜闇に向かって問いかける。しかし、これには返事はなかった。応えるまでもなかったから、かもしれない。そうとは理解していても、誰かに、何かを答えて欲しかった。
部屋へと案内される前、佐吉と店主が並んで、椿へと話があると真剣な眼をして言ったことがある。「これからどうするつもりだ」、と。
椿に帰る家はない。しかし、もう目は見えるのだから、仕事には困らないだろう。何事も経験あるのみ。佐吉はそう言って椿がやる気であれば仕事を紹介すると言った。しかし、店主の意見は少し違った。二番目の息子の嫁に来てはどうか、と。
木の下屋の他に、次男に任せようと考えている仕事があるようで、そちらを一緒にやってみてはとの誘いだった。丁度、嫁探しをしようかと考えていた矢先でもあったそうだ。
椿が、その息子自身の意見は聞かなくて良いのかと問えば、椿を一目見て気に入ったのだと返事があったそうだ。どうにも、宿へと引き止めたのは、それが目当てだったらしい。店主は商売人だ。思い立ったが吉日……行動は早いに越したことはないのだろう。
嫁入りの件を受け入れなかったとしても、仕事や住む場所の紹介するとのことで、店主からも佐吉からも、数日は考えなさいと言われた。
――佐吉さんは何事も経験と言ったけれど……嫁入りが一番安泰なのかしら……鈴も近々、結婚するみたいだし……。
鈴は、椿がお嫁に行くようにと言った通り、相手を見つけていた。佐吉の紹介で、小間物屋をやっている男らしい。そうなれば、今度は本当の友人として、鈴と会うことも出来るだろう。
何もかもが好転して、椿が欲しかった真っ当な人生が収まろうとしている。なのに、椿はしっくりこない。それどころか、よそごとばかり考えてしまっている。といっても、気になることは一つだけ。
――朧は、これからどうするのかしら。
朧は先行きを決めるのは椿を送り届けてから、と言っていた。
――もう、何か決めてしまったのかしら。
宴席で話をする間はなく、何も知らない状態だ。
――佐吉さんとは、何を話していたのかしら。
本当は、椿が今悩むべきは自分の今後だ。しかし、それが大事なことだというのに今ひとつ。それよりも、朧のことが気になるのだ。約束を終えたからもう関係もなくなるはずなのに、どうしてこんなにも胸が騒つくのか。
――……私、どうしたいの?
過去に諦めた人生が、動こうとしている。なのに、何かが足りないのだ。
――私、どう生きたいの……?
椿はこれからのこと、というよりもどう生きたいか、何をしたいかを考えた時に浮かぶのは、朧と一緒に見た景色だ。
ここまで、椿は朧とと、ささやかな旅をした。
刀根田村を後にして朧の瞳の色が落ち着いた頃、二人は山を降りた。その間、朧が知っている限りのことを教えてもらいながら。あの、縁側の木は椿なのだとようやく知れた時でもあった。
どうして椿を知っているのかと問うと、実は不味いが油が取れるのだとか。朧らしい知識だと椿は思った。
他にも、梅や菜花、南天に山茶花、木の実に山菜やきのこ。他にも遠目に見た動物や鳥、川の魚まで。
朧が知っていたり、匂いで判断できたり、すれ違った旅人に尋ねてみたり。寄り道をしながらゆったりと歩いていたら、三月もかかってしまったというわけだ。
町に辿り着く手前、「もう直に桜も咲く」と薄紅に染まった蕾を差し示しながら朧は言った。
――桜は一緒には見れないのかしら……。
そうしてそんなことを思うかなど、わからない。ただ、胸を熱くするような思い出ばかりが浮かんで、これからの現実など霞んでしまう。
椿は「はぁ」とため息が出て、窓枠に頭を伏せてしまった――その直後、囁くような小さな声が聞こえた。
「椿――」
朧の声だった。椿は声に直ぐさまに反応して顔を上げる。窓の向こうの階下――下は大通り。椿は何故だか嬉しくなって、身を乗り出す勢いだった。
もう寝静まる頃とあって、大通りに人気はなく提灯の明かりも殆ど消えて薄暗い。だが、椿にはこちら見上げている朧が見えた。
「朧、あの――」
椿は咄嗟に声を上げたが、朧が手を前に出して静止を示していた。
「あまり大きな声は出すな。そっちに行くから待ってろ」
そう言った朧の気配が揺らいだ。そして――ほんの一度の瞬きの間に朧の姿は闇に溶けるように消える。
時折見せる、朧の人でない部分。椿が目を凝らしたところで、追えはしない。そして、突然――背中に気配が生まれた。
薄闇の中、微かに生まれる気配。覆い被さるように、背中がひしとくっつく。窓際に置いていた手にも、朧の武骨な手が重なって、あたたかい。
「椿」
耳元で囁く、しっとりとした朧の低い声。椿の胸の内は花が咲き乱れたように熱くなった。
蔵の中で、互いの姿を確かめ合ったようだと椿は思う。違いがあるとすれば、その時以上に距離が近いことだ。
椿は緊張一色だった――のだが、背中と手に感じていた温もりはあっさりと消えた。
「……なんてな」
朧の軽い調子の声と共に距離ができて、振り返った椿に何もしないと言わんばかりに両手をあげている。
「何もしない。俺に話があったんだろ?」
椿は肩透かしを食らったような気分だった。朧の言う何かは、椿にはも想像できないが、何かが起こってもおかしくはないような気がしたのだ。しかし、朧は距離を作ったまま、窓を伝う壁を背に胡座をかいて座り込む。
「……えっと、」
椿はしどろもどろしながら、窓際から離れることもできず、力が抜けるようにすとんと座った。
――何を訊こうと思っていたんだっけ……。
ほんの畳一枚分の距離。たったそれだけの距離が、椿は遠く感じた。椿はそろりと朧へと眼を向ければ、赤く戻った朧の瞳が椿を見つめる。
「……朧は……これからどうするか決めたの?」
椿は自身の戸惑いを胸に、朧へと尋ねた。対して、朧の答えは素っ気なかった。
「明日には、この町を出て行こうと思ってる」




