一
桜の蕾が薄紅に染まり始めた、春の日和。
とある宿場町の老舗旅籠の前でのことだった。
椿は朧と共に、故郷へと戻っていた。
そして今、生家の目の前にいる。
生家――藤岡屋の向かいには団子屋がある。椿はその縁台に座り、注文した品を待つ間、生家だった場所を眺めることしかできなかった。
団子屋は味噌と胡桃を使ったタレの餅が売りで、近所でも絶品だと評判の店だ。椿も子供の頃は何度と口にした懐かしい味に舌鼓を打ちつつ、生家へと踏み込む予定だった――のだが、生家の戸は締め切られているどころか、人の気配すらない。
「あの、藤岡屋さん何かあったんですか?」
と、椿は注文した品を運んできた若い給仕に声をかけた。
給仕は件の餅が乗った皿と茶を縁台へと置きながら、神妙な顔つきになった。しかし、噂好きなのか、空になったお盆で口元を隠しながらも不謹慎ながら顔は緩んでいる。誰かに話をしたかったのかもしれない。
給仕はそっと椿へと声を潜ませ耳打ちした。
「……どうにも、旦那さんが博打で借金を作っていたらしくて……借金のかたにお店もお家もとられたんだとか」
「そんなに?」
「なんだか怪しい所と付き合いもあったみたいですし、利息も相当だったんじゃないかって。最近は女郎屋みたいなことやって御奉行にも目をつけられていたとかなんとか。先代の盲目で病弱なお嬢様を人買いに売ったなんて噂も出回っちゃったから、お客さんもおかしな人ばかりになって……時間の問題だったと思いますよ」
「それで、ご夫婦は?」
「昔の家に帰ったとしか、詳しくは……」
ひとしきり話したところで、他から給仕に声がかかった。給仕は元気よく「はーい」と返事をすると、会釈だけして行ってしまった。
「……そんなこともあるのね」
椿は初めて眺める生家を前に、何とも言えない気持ちだった。もう二度と帰ってくることはないと考えていたのに、思い出の家が消えてしまったと言う事実が寂しい。本当になくなってしまうとは考えてもみなかったのだ。
「あれだ、因果応報ってやつだろ」
椿の隣で大人しくしていた男の声に、椿はそちらを向く。妖を彷彿とさせた赤い瞳は今は鳴りを潜ませ、夜を思わせる黒い瞳のがそこにある。男――朧は、注文していた餅を手にあっけらかんとしていた。
餅、と言っても串に小判形の餅が三つ刺さって並んだものだ。一つの串に三つ並んだ餅は味噌と細かく砕かれた胡桃を合わせた甘いタレがしっかりとかかっている。朧はその一本を頬張りながら、もう一本を椿に差し出す。
タレが手に落ちないようにと慎重に受け取って、じっと見つめた。
「これ、子供の頃はよく食べたの」
その目で見るのは初めてだが、炭で炙られた胡桃味噌独特の香ばしい香りは懐かしさを浮かばせる。
「お店でも、ここで買ったものをお客さんに出してた。そのおこぼれを、私と鈴に番頭さんや女中さんがこっそり分けてくれて。私、食べるのが下手だから、手や髪にタレがついてね。飼ってた犬が匂いに釣られて、私に戯れ付くの」
椿はそっと言葉を終えて、一つ目に齧り付いた。甘い味噌と胡桃の味が口いっぱいに広がって、餅米の食感が残ったままの柔らかい餅とよく合う。
本当は、昔の味で楽しい時間を思い出したかっただけだった。しかしどうしてだか、懐かしさよりも心は虚しさばかりが込み上げる。
――本当に帰る場所を失ってしまったのね……。
椿の目には涙が浮かんで、頬へとこぼれ落ちていた。だが、その頬を武骨な手がそっと拭った。
「……取り返すか?」
と、朧は優しい手つきとは反面、真剣な顔つきで言った。
椿は考える間もなく、首を振る。
「……父が、よく言っていたの。元々、運良く分不相応の仕事と立場が回ってきただけだから、もし失うことがあっても縋ってはいけないって。その時はお返しする時が来たんだと思って、受け入れるしかないんだって」
そう言って、椿はもう一つ餅を頬張った。
「あっさりしてんなぁ」
「私も下手に縋り付くべきじゃないわ。お父さんは元々、お取り潰しにあった武家だったとかで、私が生まれる前は喰うにも困るような貧乏だったらしいの。あのお家も、親族も後継もいないからと養子縁組して欲しいと頼まれたものだったんだって。遠縁の親族に渡るよりずっと良いって。それが元に戻ったのよ」
「だがよ、叔母夫婦はどうする。探せばこの街にいるだろう?」
「……放っておくわ。朧の言うとり、叔母は報いを受けたのよ。もう関わりたくもない……それに、本当はね、仕返しなんてする気はなかったの。一言ぐらい何か言っておこうと思っていたんだけど……それもどうでも良くなっちゃった」
「…………そうか」
朧の声がやや不服そうではあったが、椿は涙を拭う。
「これを朧と食べられただけでも良かったわ」
「……まあ、これは美味いな。今はこんな甘いもんが普通に食えるんだな」
「そうよ、だからいろんなところに……」
いろんなところに、一緒に行きたい。そう言いかけて、椿は口を噤んだ。
お互い、利益だけの関係。もう直、最後の約束に辿り着いたら、その後などないのだ。
「なにか言ったか?」
「ううん」
椿は言葉を飲み込むように、最後の一つも頬張った。
これで、終わり。
最後の一つの餅の味が口の中から消え、茶を啜ると朧の視線に気づいた。もうその手には餅も茶もない。膝に肘ついて、覗きこむように椿を観察する目をしていた。
「行くか?」
と、何気なく言った。それが別れのような気もしたが、椿は頷くしかなかった。




