五
恐ろしいことになった。
庄屋は激しい吹雪が続く中、蔵へと走った――走りたかった。しかし、ここ数日の吹雪で足場は悪いどころの話ではない。前を進むにも、腰の辺りまで降り積もった雪が邪魔で進めないのだ。
「おい、本当にあの娘も蔵へ行ったと? 無理じゃないか?」
組頭が庄屋の後を追いながら言った。ここ数日、椿は蔵へとお参りには行っていなかった。行こうにも、吹雪で家から出られなかったのだ。それは、皆同じ。だから、雪かきもされていない道を女ひとりが進んだとなれば、跡が残るはず。しかし、そのような形跡は全くと言って良いほどにないのだ。
ただ、椿が姿を消し、鍵が消えた。この状況だけで、庄屋は慌てているのだ。
「だが、嫌な予感がする。蔵が開いたような気がしてならんのだ」
庄屋は祭主だが、霊的な能力はない。それでも、長く上守家の血筋として生きてきただけの経験はあると思っている。
村人もそうだが、刀根田は八千矛神と共に生きてきた。だから、どうしても変化には過敏になる。
庄屋は鋤で道を切り開き、他大勢も力を貸した。そして、境目の扉にたどり着き、庄屋の嫌な予感が当たったのだと皆が思い知らされただろう。
「閂が外れて……」
吹雪で外れた、と思えればよかったのだが、閂はご丁寧に扉の横に立てかけられている。扉はしっかりと開かれ、その先の鳥居がよく見えた。
庄屋はぶるりと身を震わせる。
神域は恐ろしい場所と知っている身震いではない。
何か、いるのだ。
そこから、不用意に口を開くものはなかった。慎重に鳥居の道を進み、しかし戻りたいと言う気持ちも重なる。嫌な予感では済まない畏れに支配され、庄屋はたどり着いた蔵の前で足を止めた。
扉が開かれた蔵の前には、神の妻になったと宣言した女と、もう一人。
暗闇が人の姿になったかのような黒。しかし赤い瞳だけが人でないと言っている。その目が、庄屋に気がついたのかこちらを向いた。
庄屋は一目見て、それが八千矛神であると理解した。したが――足どころか、指の一つも動けない。
ああ、なんて畏ろしい。
庄屋は何も言えないまま、鋭い赤い瞳が殺意もなくこちらを見やる。そして、鋭さを携えたまま、八千矛神は女を連れて歩き始めた。
庄屋は今にも心の臓が潰れてしまいそうなほどの恐怖に犯されていたが――黒い姿が静かに横を通り過ぎ、鳥居の道を進んでいくだけ。他のもの達も八千矛神に道を開け、ただ見ていることだけしか出来なかった。そして、神域の境界へと辿り着いた八千矛神。もうそのまま吹雪の中へと消えてしまうだろう。そんな予感が庄屋の口を動かした。
「……お……お待ちください」
庄屋の声は震えていた。
「我々はこれから、どうしたら……」
神が消えたこの村がどうすれば良いのか。庄屋は不安で仕方がなかった。
『さあなぁ、御先祖を恨んで生きれば良いんじゃないのか』
人のようでそうでない、歪な声だった。それだけ告げて、八千矛神は女と共に吹雪の中へと消えてしまった。
◇
村は騒然となった。
解放された蔵にはもう、神の気配はない。本当に女と共に去ってしまったのだ。
庄屋は愕然とするも、呆然とする暇などなかった。すぐさまに別の問題が起こったのだ。
びゅうびゅうと吹き荒ぶ冷気は少しづつ弱まりつつあった。しかし、激しい風は続いて、やたらと風は不気味な声に聞こえて仕方がなかった。
しかしそれも仕方のないことだったのかもしれない。
新たな問題――それは、村中の食料が全て腐ったということだった。
今の今口にしようとした握り飯から、備蓄の蔵に納められていた米、土の中に埋まったままだった芋まで。さらには農耕用に飼われている牛や馬が倒れて死んでしまった。その肉もまた、ぐずぐずと腐っていく。
問題はそれだけでは止まらなかった。それぞれの家に溜め込んでいた財貨が、全て土へと変貌してしまったのだ。冬の間に織るはずだった発光したように白く美しかった絹糸すらも、黒く変容していく。
全てが、八千矛神の豊穣により手に入れたもの。
種は無事だったが、春を待つ余裕はなく、だからと言って冬を越す為の食料もない。
これから村はどうなってしまうのか。
庄屋は神が最後に放った言葉が呪いであったのだと、思い知るよりなかった。




