三
秋が終わろうとしている。
時折、山から吹き降りる冷たい風がそう思わせた。
風上――山々へと目を向ければ、麓から山頂のほとんどが紅と黄とが入り混じっている。いや、紅葉の色は黄色と赤だと聞いていたのだが、どうにもまた別の色にも見える。そこに茜色の夕焼けがさせば、さらに色が変わった。
椿は一人、肌寒いと感じながらも、初めて見る秋をうっとりと眺めた。
そのまま、目線は空へ。
――朝方は白んだ青。お昼は濃い青。夕暮れは茜色から紫……夜はどんな色なのかしら。
着替た時に、ミツに尋ねた些細なことだった。空は何色だろうか、と。しかし、ミツにそれはいつ頃の話なのかと問い返されてしまった。朝と昼と夜、頃合いで空は姿を変えるのだと教わったのだ。紅葉も、また似たように色味が変わるのだろうか。椿にとっては、全てが未知なるものと言っても良い。
――覚えることが沢山ありそうね。
椿はこの世の一端を見ているに過ぎない。まだ見ぬ何かがあると思うと、椿の心は踊った。ほんの数日前では考えられなかったことだ。椿の足取りは浮かれたように軽い。そのまま、一人、夕暮れの畦道を歩いた。
田圃の収穫が終わった畦道はがらんとして、もう稲が揺れる音は消えている。代わりに、山々の風に揺れる木々のざわざわと賑やかしい。
椿はそれまで、肌と音で感じるだけだった秋を端々から受け取り歩いた。視界に入る全てを堪能していると言っても良い。その足が向かうは、例の蔵である。
今の椿の姿は、ただの村に馴染めていない女だろうか。それとも、妖しげな女だろうか。ただ歩いているだけにも関わらず、終始、誰かの視線が椿へと注がれていた。時に物陰から、時に堂々と。
今も、そう。
――あれが、八千矛神の?
――そうらしい。初めて生きて帰ってきた贄だとか。
――街から連れてきた娘だろう? 盲目じゃなかったのか。
――それが、どうにも八千矛神に目をもらったのだと言っているらしい。
――そんな話聞いたことねぇ……本当に最初から盲目だったのか?
――庄屋が言うには生まれつきだとか。儀式に参加したやつも、芝居には見えなかったとよ。
――どうだか、みんな八千矛神が恐ろしくて、それどころじゃないだろ。
秋風に紛れるように、コソコソとした会話が椿の耳に届く。到底聞こえない距離だ、誰も椿が聞こえないふりをしているなどとは思わないだろう。
「……私に直接尋ねれば良いのに」
椿は一人ごつ。そんなことを言えば、ことさら妖しく見えるだろうかと、椿は一人微笑んだ。
神の妻になったと宣言した椿の言葉を、一体何人の村人が信じたのだろうか。今、村人には自分がどう見えているだろうか。気が触れた女か、それとも信仰心に目覚めた女か、あるいは……。
そんなことを考えているうちに、椿は目的の場所へと辿り着いて足を止めた。
畦道が途絶え、椿の目前には柘植の木が広がる。その先は、目で見なくとも異様な気配が漂う。その境目の唯一の通り道である門が、椿を待ち構えているかのように聳え立つ。と言っても、それは単純な木戸で鍵も無い。閂を外して、椿はそっと中へと入った。
蔵よりも先に、椿の視界に入ったのは赤い鳥居だった。これもまた、着物の燕脂色とは違う赤だ。それが連なるよう幾つも並んで、蔵までの道となっている。
儀式の時に、庄屋が鳥居を潜るようにと言っていたな、と椿は思い出す。それが、人が踏み入ることのできる道なのだと。庄屋の言葉通りなのか、実際に境界に踏み込んだ瞬間から、空気がずんと重くなっていた。
――儀式の時もそうだった。
儀式の時――椿はほんの数日前の記憶が懐かしいと感じた。それこそ鮮明に、人の気配や匂いまで。
重たい引振袖。
無駄に飾りつけられ、動かしにくくなった頭。
どれだけ鮮やかと言われても、血で染まってしまうであろう化粧。
武家に行くほどに豪奢な帯も、結局は無惨に裂かれるのだろうか。
全てが無駄。そんなことを考えていたな、と椿は鳥居の道を歩きながら他人事のように思った。
儀式の時の椿は、常に黄泉へと向かっている心地だった。実際に死ぬ覚悟でいたのもあったが、周りの花嫁行列に参加していた者たちの気配のせいもあっただろう。
皆、蔵へと赴くことを拒否するように足取りは重く、呼吸は一律と言えない様子で芯から怯え、底知れぬ何かへの畏れと緊張でなのか汗ばんだ匂いが終始あった。それは、椿の手を引いていた庄屋の妻も同じだった。手は震え、伝わる脈は激しく波打っていた。特に、椿を屠蘇台の前に座らせる時など、手を離すその瞬間に手の震えは大きくなっていたのだ。
今の椿にはそのような緊張も動揺も、ましてや畏れもない。もう死を願うこともなく、同じ道を歩いていながらも、状況も精神も決意さえも全く違った。
今、心中を覆い尽くしているのは、むしろ不安だ。まだ、どうやって朧を外に出すかの方法は不明。見つけられるかどうかもわからない。蔵を開けたらどうなるかを試すとしても、一筋縄ではいかないだろう。やるにしても、全て一人で成し遂げなければいけない。そのことを考えると、自分が死ぬとわかって同じ道を歩いていた時よりもずっと――それこそ村人たちのように椿も緊張や恐怖なるものに苛まれてしまいそうだった。
鳥居の道が途絶え、ようやく蔵に辿り着いて、扉の前に椿は立つ。
神が棲まうと云われる大蔵は、漆喰の白壁で覆われ毅然として見える。その入り口である大扉には椿が両腕で抱えなければならないような大きさの頑丈な錠前が掛かっており、それが容易に外れないことくらいは一目瞭然だった。何となく触れてみれば、錠前はヒヤリと冷たい。無機質でいて、強固。それが三つ続く。そのまま、椿の手は滑るように扉へと触れた。
蔵からは何の音も、朧の気配もない。朧がいるのは一番奥。それでも、僅かな振動もなく、まるで朧の存在が嘘だったかのようで、椿の不安を煽った。
朧の存在を証明するものは、見えるようになった椿の目のみ。
椿は心の思うまま、一つの名前を口にする。
「……朧」
ザア――と、椿の呼びかけに応えるように、風が吹く。山々を駆け巡るような強い風だ。
偶然……いや、椿は朧なのだと確信していた。この地は八千矛神の土地。椿はその妻。その繋がりが、椿に教えてくれるのだ。
そして、その繋がりゆえの椿の目。
見えるようになった喜びが満ちる椿の心には、共に浮かぶ想いがある。
「あなたは、どんな顔をしているのかしら」
どんな瞳の色で、どんな髪色だろうか。
手で触れたままの顔立ちなのだろうか。
本当はどんな姿なのだろうか。
朧がいなければ、この喜びを知ることもなかった。まだ見ぬ欲望に目覚めることもなかった。
まだ見ぬ何かに思い馳せることもなかったのだ。
死ぬなどと考えていたことが、まるで嘘のように椿の心は熱い。その想いが椿を突き動かす。
生きて帰ってはいけなかった贄の身である椿は、神の妻という体裁がなければ殺されてもおかしくはない。
逃げるか、留まるか。
その二択が目の前に並んだ時、椿は迷うことなく留まることを選択した。
もう、後戻りは出来ない。いや、する気もなかった。
――逃げるなど、あり得ない。
椿は思う。約束など関係なしに、純粋に心が求めたのだ。
もう一度、朧に会いたい、と。




