一
真っ暗闇の夢の中で、誰かに頭を撫でられている――そんな気がした。
――鈴……じゃない……あの子は手が小さいもの……。
――お母さんじゃない……お母さんはもっとゆっくり撫でる。
――お父さんでもない……お父さんの手はふっくらとして……。
長い指と硬い手、武骨だが優しい。ゆっくりと、頭を撫でたり、手櫛で髪を梳ったりと、まるで手触りを確かめているような――。
「……朧?」
はっきりと、朧の気配がしたわけではなかった。だが、骨ばった手の感触が、朧のそれと似ていたのだ。
「……ねえ、朧……」
椿は、手探りで手を伸ばした――――――が。
◇
「……え?」
椿は視界に飛び込んだものに、どうにも実感が湧かなかった。いや、椿にはそれがどう言う行為なのか――見えていると言う感覚が掴めずにいた。そこにあるのは天上だが――椿にはそれを何と形容するのも難しい。現実味すら帯びていなかったと言っても良いくらいだ。
夢から覚めたばかりで、夢とうつつの違いからまだ抜け出せていないのもあっただろう。椿は上を見上げたまま、瞬きの一つすら忘れていた。だが、だんだんと最初に見た空を思い出して、自分が何かを見ているのだと思い出す。
そこで、ようやく夢から覚めた心地で、椿は上体を持ち上げることができた。
しかしどうにも、何かを見ながらの行為に身体がついていかないようで、すっきりとした目覚めとは程遠い。均衡を失ったように身体は常にゆらゆらと揺れて、どうにも身体がいうことをきかない――そんな状態だった。
「……ここは……」
椿はなんとなく、瞼を閉じた。耳を澄ませて、鼻をすんと鳴らす。
畳の匂いと、開け放たれた障子窓から入り込む風と、それに紛れる土や草木の匂い。
離れた場所からは、数名の声がして、どうにもどれも聞き覚えがある。庄屋一家のものだろう。しかしどうにも声はどれも団欒とは言い難い。何か相談事をしているかのように、声をひそめている。
――うまく聞き取れない……。
起き抜けだからだろうか。椿はあっさりと諦めて、今度は今自分がいる部屋へと集中した。
椿は刀根田村へとやってきて、儀式が始まるまでの数日、庄屋の邸宅で過ごした。建前としての養女だったが、部屋を割り当てられた――その時の風が流れてくる方向から考えた窓の位置や、部屋に残った匂いが同じだった。
「……蔵の外に出たのは、夢じゃなかったのね……」
椿はもう一度、瞼を開く。
顔を右へ左へと向けて、今いる場所を一望していると――。
「あっ……」
と、驚くような若い女の声がした。声には覚えがある。刀根田村で数日、何かと世話になった平太の妻――ミツだった。廊下に面した襖は開け放たれたまま、そこから顔を覗かせたミツと目が合う。ミツの姿は初めて見たが、声には覚えがあった。若く、はつらつとして、しかし僅かな疲れを滲ませた女の声だ。初めて会った時も、家事や子育て、さらには儀式の準備などがあるから忙しいのだと、こっそり愚痴をこぼしていた。一番歳が近いからと、椿の面倒を見るように言われたらしいが、押し付けられたの間違いだろう。どうにも、それは続くようだ。
椿の様子を伺いに来たのか、手には何やら抱えている。
あれはなんだろうか。そんなことをぼんやり考えている間に、ミツは椿へと近づいていた。
「起きた……のね、良かった……」
本当であれば、椿が庄屋の家族の一員として過ごす期間は、たった数日の筈だった。ミツは戸惑いを隠せていないのか、やたらと声に強張りがある。
足取りも慎重で、椿へと近づくのも、恐る恐るといった様子だ。それは、布団の横へと膝をつくまで続いた。
「……起き上がれる? 何か食べるのなら用意はするけど」
「お腹は特に。それよりも、庄屋さんとお話がしたいですが……」
「お義父さんも、お話があるから目が覚めたら伝えて欲しいと言われてるの。とりあえず、着替えましょうか」
「……あの、」
「なに?」
「それ、なんですか?」
椿がそれ、と目線で示しながら言ったもの――は、手桶と水と手拭いである。もちろん、椿は知らないから聞いたのだが、ミツは何を言っているのか理解できない様子で困惑していた――が、椿の目線に気がついたのか、再び声には焦りが含まれていた。
「……椿さん、それって……手桶のこと?」
「ミツさんが持ってるものがそうなら。触れたことはあるのだけれど、見るのは初めてなの」
「……見える……え?」
「ミツさん、庄屋さんにお伝えする時に一つ言伝をお願いしたいのだけれど」
「……な……なに?」
ミツの声は慎重だった。僅かに取り戻し始めた落ち着きが、またも溢れてしまいそうなまでに声は震えそうになっている。反して、椿は何事もないかのように微笑んでみせた。
「私、目が見えるようになったの――八千矛神様に目を頂いたのだと、お伝えして下さい」
何の気無しのような言葉だったが、ミツの顔色はみるみる変化をして――はて、これが苦々しい顔というのか、それとも青褪めているというのか、椿は悩ましいばかりだった。




