八 幕間④ 困惑
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そんな昨日の朝霧の憂鬱など、遠い果てのような気分で清太は一人の女を眺めていた。その女こそ、神の花嫁として神の御許へと送ったはずの女だった。
今、女は清太の家の奥座敷で規則正しい呼吸を繰り返しながら眠っている。
女を見つけ、蔵を出た後、女は気を失った。自宅へと連れ帰りはしたが、眠ったまま目覚める様子はない。
清太は女を寝かせた布団の横で、姿勢良く座ってはいたが、膝の上に置いた拳は緊張で握り締めっぱなしだった。女が目覚めるのを、今か今かと、ほんのわずかに身動ぎするだけでも期待してしまうのだ。
一体、蔵の中で何があったのか。
なぜ、生きて返されたのか。
八千矛神は何を伝えようとしているのか。
女の口から一つでも聞き出せなければ、何一つとして知り得ないのだ。おかげで、清太の心中はどんよりとした曇天のままどころか、暗雲が立ち込めている。
「……何が一体、どうなっているんだ」
清太は思ったままが口からこぼれて、そのまま隠すように両手で顔を覆った。悩ましいこと、この上ない状況なのである。
『神の花嫁』とは、何代か前の祭主が、都合に合わせてつけた名目だったという。だから、本当に神との契りとは真似事で、本命は生贄を神に食わせることだった。
それこそが、八千矛神を祀る者たちの役目なのである。
しかし、今の状況は不可解としか言いようがない。その名目上の花嫁が、生きたまま返されたのである。それも、不吉ななにかを残して。
清太は蔵の中で不可思議な、なにかを聞いた。
それは、耳の中で地響きがなっているような、同時に甲高い金属音が鳴っているような音だった。だが不思議と言葉がわかったような気もした。
『我が妻となった女を丁重に扱うように』
と、そんな言葉を言った気がするのだ。普通であれば、気のせいと考えるか。しかし、清太はこれまで三度、祭主の役目を務めてきた。祭主でなくとも、持ち回りの役の一つをこなして参加したことも合わせれば、五回は儀式に参加している。その五度目が此度だったわけだが――これまで何かしらの兆しがあったことはない。だがしかし、その五度の儀式で、蔵の中に何かがいると感じたのは、何も今回が初めてではないのだ。
境界として定められている柘植の木。あれは、神の土地を表す目印だ。それを超えた先は異界と思え。それが先代からの教えだった。勿論、清太も次代である息子の平太にそう教えている。
清太はあの向こう側へ入るたび、いや、清太だけではない。誰しもが、境界の向こう側へと入ると、何かの気配を感じるのだと言う。そこから更に蔵へと入れば、それこそ形容し難いなにかだ。
常になにかの気配があり、ずんと重くのしかかるのだ。
そこに、人を喰う神の存在である。
だからこそ、誰も神事を疎かにしないし、常に糸を張ったような緊張に包まれるのだ。
――今年の儀式は成功したのかどうか……それだけでも知りたいのだが……。
来年以降の豊作は約束されたままなのか、それともこれが何かの区切りなのか。
――咲が吾郎と逃げてしまった時から、何かがおかしくなってしまった……代理の贄が盲目の娘ではいけなかったのか……。
清太は、はあと大きく溜息を吐いて、手がずるりと顔から滑り落ちた。力なく落ちた手の向こう側では、今もすやすやと女が眠っている。
――この女は本当に神の妻となったのか……。
これぞ、神のみぞ知る……である。




