四
「まあ、そんなことをやっていたから、ばちが当たったんだろうな。その結果が今だ」
沈んだかと思えば一転、朧は「はは」と渇いた笑いを見せる。
椿はどう返して良いかはわからなかった。椿は虐げられこそすれ、苦労に覚えはない。叔母夫婦は椿を利用しよう、従わせようとしたが、椿を殺すことまでは考えていなかった。そこまでの度胸がなかったか、念の為の体裁でも考えていたのか。椿も、なんとなくその考えが読めて――更に言えば、ささめく者たちの進言もあったから、それ以上の行動に出なかった。朧の言う通り、抵抗など無意味と考えて甘んじて受け入れていたのだ。
自分から話をしようと言ったにも関わらず、椿は言葉が出てこない。そのまま、しゅんと沈んでしまったが――朧の低く、力強い声が届いた。
「目が見えるようになるって言われて、少し欲が出たんだろ?」
椿の肩がいぴくりと動く。椿は顔を俯けたまま、ぽそりと言った。
「……人生で一番欲しかったものよ」
それさえあれば、朧の言うように抵抗もできただろうか。椿は焦点の合わない瞳を朧の顔があると思しき場所へと向ける。
「なあ、椿。本当に腹は立たないのか?」
同じ男の声であるはずなのに、耳をくすぐるような、艶かしい色気のある声だった。悪巧みでも企てているかのような、その悪巧みに誘われているような。
「それ、前にも訊いたわね」
「俺なら他人の犠牲になってまで死のうとは思わない。せっかく此処から出たら、その鈴ってのに会うんだろ? 目が見えるようになって、やりたいことはそれだけか? どうせなら、盗られたもん取り返すぐらいしたって良いだろ」
「……ほとんど残ってないわ、手遅れよ」
椿の父が誠心誠意で取り仕切っていたときは、繁盛していた旅籠。しかし、今は飯盛り女(名目上給仕だが、売春もする)を置いて、怪しい筋の出入りもある。不穏極まりない状況で、椿を刀根田村へと売る行為。その上、椿が生家を離れたと同時に番頭も仕事を辞めた。鈴を連れて他へ移るのだと、最後の挨拶を交わした時に椿に教えてくれたのだ。だから、なんとなしに、旅籠の終わりは近いと椿は読んでいた。
朧の言う通り、抵抗していれば何か違っていたかもしれない。だがもう、椿の思い出の場所とは程遠くなった今では、取り戻す意味もない。
「だからって、馬鹿に良い思いさせたままで良いのかよ。仕返しぐらいしないとな」
椿の髪がさらりと揺れた。繰り返し、椿の髪を弄ぶように、何度も何度も。
「……考えたこともなかった。やり方も思いつかないわ」
「俺がやってやるよ。何せ、俺は神とやら、らしいからな」
朧の物言いは少し不気味で、しかしどこか頼もしさもある。朧が愉しげに言っているのもあるだろう。椿はそれがおかしくて、「ふふ」と小さく笑った。
「たまには欲望で物事考えて生きてみろよ。俺はお前を利用する。お前も俺を利用する。簡単だ」
「最初からそう言う約束でしょ?」
「やる気の問題だ。お前なら死に物狂いで生きているやつと、いつ死んでも良いと考えてる奴。どっちを信用する?」
椿は言われて、ああと納得した。椿は鈴にもう一度会いたいと思うこそすれ、その先に願うのは死だ。死に向かうことしか考えていないとなれば、目的の半ばで諦めることもあるかもしれない。それでは、朧の言うように信用はないも同然だろう。
「それなら何故、あなたは私と契りを交わしたの? 運に賭けたと言うの?」
「……いや、」
愉しげだった朧の声が、途端に凪いだ。しかしそれは、椿に失望したようなそれではない。朧の声がそこで止まって、椿はどうしたのだろうかと朧へと手探りに手を伸ばした。だが、その手は途中で止まってしまう。朧の手に捕まったのだ。
「なんでだろうな」
朧は椿の手を自身へと引き寄せたかと思えば、静かに呟いた。たまたま椿が言葉が通じたから、返答はそれでも良かったはずなのに、はっきりとしない。まるで、朧自身戸惑っているようだった。それは、先ほどまであった不安の現れでもある。
今の朧は、椿により強い欲望を持たせることで、成功率を上げようと考えているのかもしれない。いや、そうだろう。椿に触れても直、椿が幻覚かどうかが分からない状態で、再び一人になった時の焦燥は椿には計り知れない。更に、どれだけ待っても、椿が戻って来なかったとしたら。椿は今になって、自分が残酷な言葉を吐いたのだと気がついた。
「……ごめんなさい。私、最初に私が逃げたらどうするか……なんて、嫌なことを言ったわ」
「あんな状況で何も言わずに従うだけなんてつまらねぇだろ。弱い女よりも、強気な女の方が好みだ」
その瞬間、椿の右頬に触れる何か。朧の手が頬を撫でていると気がつくのに、そう時間は掛からなかった。
優しく、真綿でも撫でるように。時に、下ろされた髪をかきあげるように。
椿はふっと湧いたように、顔が熱くなった。好みだ、などと勘違いしそうな言葉。椿は色恋沙汰は無知に等しい。だが、それが親が子にするような行為とも、友人同士のそれとも思えず、夫婦とはこういったことをするのだろうかと、鼓動は激しくなった。
「あの、朧……」
そう、朧の名を呟くと、それまで掴まれたままだった椿の手が解放された。かと思えば、今度は左頬に触れる感触がある。
同時に、優しくだが更に引き寄せられたような感覚があった。いや、本当に近づいていた。
椿の頬には、確かな息遣いがあるのだ。
「……朧、あのっ」
途端に、距離が気恥ずかしく感じて、椿は腕を前に出す。朧の胸を押して距離を作ろうとするも、力では敵わない。
だが、それ以上の距離が近づくことはなく、朧はゆっくりと、椿の顔の輪郭を辿っているだけ。ただ、指や手のひらの感覚を全て使っているかのように、細部まで探ろうとする。
椿を幻覚かどうかと探っていた時とは違う繊細な動きに、椿の心臓は張り裂けそうだった。嫌ではなかったが、気恥ずかしさがどうしても勝る。
「朧、」
何度目かの呼びかけで、ようやく朧の手が止まったが、朧はそのまま椿を包み込むように抱きしめていた。
椿は驚くも、その行為の意味を問えなかった。
問う必要がなかった、とも思った。
――……ずっと一人……。
暗闇にずっと一人。椿は寂しさを埋めるように、そっと朧の背へと腕を回していた。




