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海月  作者: ふるかわゆう


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7/8

第七話 手がかり

家に着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。

玄関の扉を開ける。


「ただいま……」


声が、静まり返った家の中へ消えていく。

返事はなかった。

父は、まだ帰っていないらしい。

靴を脱ぎ、鞄を置く。

そのまま自分の部屋へ向かおうとして、ふと足を止めた。

鞄の中に入れた、あの紙。

今日、出会った刑事――佐伯さんから渡されたものだった。

鞄から紙を取り出し、眺める。

そこに書かれた電話番号を見つめていると、今日の出来事がふと頭に浮かんだ。


佐伯さんの言葉。


『どんな小さなことでもいい。何か分かったら、いつでも連絡してくれ』


紙を鞄の中へ戻し、私は自分の部屋へ入った。


───


夕食を軽く済ませ、お風呂から上がる。


時計を見ると、まだ九時を少し過ぎたところだった。


いつもなら、もう少し遅くまで起きている。

けれど今日は、妙に身体が重かった。


あかりちゃんのお母さんに会った。

刑事の佐伯さんとも話した。


今日は、いろんなことがあった。


布団に入ると、昼間に見た光景が頭の中に浮かんでくる。


雪の残った田んぼ。

何台も停まっていたパトカー。

山の中を探し続ける人たち。


そして――あかりちゃんのお母さん。


最後に見た、あの人の顔が忘れられなかった。

私は目を閉じる。

瞼の裏に、あの光景がまだ残っている。

あかりちゃんは、今もどこかで助けを待っている。

そんなことを考えているうちに、少しずつ意識が遠のいていった。


――気がつくと、そこにいた。


また、海の底だった。

身体がふわりと浮いている。

周囲には、どこまでも続く暗闇。

見慣れた景色。

私は、ゆっくりと周囲を見回した。

――また、この感覚だ。


そのときだった。


――遠くで、かすかな光が揺れた。


黄色い光が、暗闇の中でチカチカと揺れていた。

私は動きを止める。

少しずつ、こちらへ近づいてくる。


――あの生き物だった。


ちょうちんあんこうは、私の前で静かに止まった。


『……こっち』


声が海の中に響く。

ちょうちんあんこうが、暗闇の向こうへ進んでいく。

私は、その後を追った。

しばらく泳ぐと、前方に何かが浮かび上がってきた。

最初は、ただの黒い影だった。

けれど、近づくにつれて、その輪郭が少しずつはっきりしていく。


建物だった。


古びた建物が、暗闇の中に浮かんでいる。

壁はところどころ崩れ、窓ガラスもいくつか割れていた。

前に見たものと同じだった。

けれど――今回は、建物だけではない。

その周りまで、はっきりと見えていた。

雪の積もった地面。

その向こうに並ぶ木々。

そして、建物へと続く細い道。


そして――


建物の横に立つ、古い看板。

文字はほとんど消えていた。

それでも、かすかに読むことができた。


――旧 施設。


その下にも何か書かれている。

けれど、文字はほとんど消えていて、読むことができない。


私は目を凝らした。


その瞬間だった。


『……お姉ちゃん』


ちょうちんあんこうの声が響いた。

すると、目の前の景色がゆっくりと揺らぎ始めた。

黄色い光の向こうに、古びた建物が浮かび上がる。

さっきまで見えていたものとは違う。

今度は、建物の中まで見えていた。

薄暗い廊下。

その奥に、ひとつの扉がある。

――鍵の掛かった扉。

前に見たものと同じだった。


『わたしはここだよ……』


声が、扉の向こうから聞こえる。

私は、その場から動けなかった。

扉の下から、細い光が漏れている。

暗い廊下の床を、わずかに照らしていた。


『……たすけて』


その声を聞いて、私はゆっくりと手を伸ばした。

扉に指が触れる――

その瞬間、目の前が真っ白になった。


───


二〇二五年一月十六日


私は目を覚ました。

まだ、夢の感覚が残っている。

私はゆっくりと身体を起こした。

頭の中に、さっきまで見ていた光景が浮かんでくる。


古びた建物。

雪。

木々。

細い道。


そして――建物の横にあった、古い看板。


「…旧…施設」


小さく呟いた。


夢の中で見た看板の文字を思い出そうとする。

けれど、肝心の施設名は、最後までよく見えなかった。

このままでは、時間が経つにつれて夢の記憶も薄れてしまう気がした。


忘れないうちに書いておこう。


私は机の前に座り、夢日記を開いた。


前に書いた最後の一文を見つめる。


――私は、あの子を助けたい。


その下に、今日の夢を書き始めた。


二〇二五年一月十六日。


――木々。

――細い道。

――鍵の掛かった扉。

――古い看板。


そして最後に


――旧 施設


そこまで書いて、手が止まった。

小さく息を吐いて、その下にもう一つ書き足す。


――必ず、見つける。


美咲は、ペン先を離しノートを閉じた。

時計を見ると、まだ朝の九時を少し過ぎたところだった。

階下から、ガタゴトと物音が聞こえてくる。

リビングを掃除しているのだろう。

そういえば、昨夜は帰ってきたことにも気づかなかった。

いつの間にか帰宅していたらしい。


今日は土曜日。

学校は休みだ。


なら、今のうちに調べてみよう。

この施設がどこにあるのか分かれば、明里ちゃんの手掛かりが見つかるかもしれない。


私は、まずスマートフォンで検索してみることにした。

検索画面に、夢の中で見たものを手掛かりに言葉を入力していく。


――旧 施設。

――山の施設。

――養護施設。

――昔の施設。

――介護施設。

――廃施設。


けれど、それらしい情報はなかなか出てこなかった。

夢で見た施設が、今も存在しているのかさえ分からない。

私は画面を閉じた。

インターネットに載っていないのなら、昔のことを調べるしかない。

図書館なら、古い新聞や地域の資料が残っているかもしれない。

そう考えた私は、近所の図書館へ向かうことにした。


私は椅子から立ち上がった。

部屋を出て、階段を下りる。

リビングへ向かうと、掃除を終えた恒一がソファに座っていた。

テーブルにはコーヒーが置かれ、その隣には広げられた新聞。

恒一はコーヒーを一口飲みながら、黙って新聞に目を通している。


私は少しだけ足を止めた。


「……お父さん」


恒一が新聞から顔を上げる。


「ん?」


「私、ちょっと図書館に行ってくる」


「図書館?」


「うん。調べたいことがあって」


恒一は一瞬だけ私を見たあと、手にしていた新聞をテーブルに置いた。


「そうか」


それ以上、恒一は何も聞かなかった。


私は玄関へ向かい、コートを羽織る。


「夕方までには帰るから」


「気をつけてな」


「父さん、今日休みで家にいるから。食べたいものあったら連絡してくれ」


「うん、わかった」


靴を履き、玄関のドアを開けた。


私はそのまま、図書館へ向かった。


図書館までは、歩いて十五分ほどだった。

いつもなら何気なく通り過ぎる道も、今日は少しだけ違って見えた。

頭の中には、夢の中で見た古びた建物の姿が残っている。

あの場所は、本当にどこかに存在するのだろうか。

そんなことを考えながら、私は歩き続けた。


───


図書館に着いた。


私の住んでいる町は田舎だけれど、この図書館は外観から見ても立派な建物だった。

テスト前になると、勉強をするために何度か利用している。

けれど、今日はいつもとは違う目的でここへ来た。

私は入口へ向かい、図書館の中へ入った。

図書館の中には、たくさんの本が並んでいた。

小説や参考書、雑誌に児童書。

テスト勉強で来たときには、いつも勉強スペースへ向かっていたから、こうして館内をゆっくり見て回るのは久しぶりだった。

私は目的の資料を探すため、館内を見渡した。

昔のことを調べるなら、新聞や地域の資料が置かれている場所を探さなければならない。

案内板を確認しながら歩いていると、「郷土資料」という文字が目に入った。


私は足を止めた。


「……ここかな」


小さく呟いて、その棚へ向かった。


棚には、地域の歴史や昔の出来事について書かれた本が、年代ごとに並べられている。


『汐見市の歴史』

『汐見市の歩み』

『郷土の記録』


見慣れないタイトルの資料も多い。

私は一冊ずつ背表紙を眺めながら、古い施設について書かれていそうなものを探した。

夢の中で見た、あの古びた建物。

どこにあるのかは分からない。

それでも、まずは自分の住んでいる汐見市から調べてみようと思った。

私は『汐見市の歴史』と書かれた、少し分厚い本を棚から取り出した。

机へ向かい、本を開く。

学校でも、こうした地域の歴史や資料を見る機会はあった。

けれど、これまであまり興味を持ったことはなかった。

こうして改めて真剣に見てみると、意外と面白いものだった。


時間をかけて汐見市の歴史を何冊か調べてみたけれど、手がかりは見つからなかった。

次に、私は隣町である白浜市について調べることにした。

あかりちゃんに関する手がかりが、そこにあるかもしれない。

私は棚を移動し、白浜市の歴史や地域に関する資料を探し始めた。


何冊かの資料に目を通した。


けれど――。


探している施設についての記述は、どこにも見つからなかった。

古い地図や写真も調べてみたけれど、それらしいものはない。


「……やっぱり、ない」


小さく呟きながら、本を閉じる。


汐見市、白浜市の歴史を調べても、手がかりは見つからなかった。


私はしばらく考えた。


もしかすると、あの施設は、この二つの市にはないのかもしれない。


次は、その隣にある青葉市を調べることにした。

ここまで来たら、時間を惜しんでいる場合ではなかった。

どれだけ時間がかかってもいい。

一つずつ、しらみつぶしに調べていこう。

そう思いながら、私は新しい資料を手に取った。


私は青葉市の歴史が書かれた資料を手に取った。

ページをめくりながら、施設や廃墟について書かれていないか探していく。


市の成り立ち。

昔の町並み。

公共施設や学校の記録。


けれど、どの資料を見ても、あの夢で見た施設に繋がるようなものは見つからなかった。


「……ここにもない」


そう呟きながら、次の資料へ手を伸ばす。

古い資料ほど、ページの端が少し黄ばんでいた。

何冊目だっただろう。

私は一冊の古い郷土資料を開いた。

そこには、今の青葉市とは違う名前が記されていた。


――若葉市。


「……若葉市?」


思わず、声が漏れた。


私はその名前をじっと見つめた。

今は青葉市と呼ばれている場所が、昔は別の名前だったらしい。

何となく気になって、私は「若葉市」と書かれた資料を探してみることにした。

棚に並んだ古い資料を一冊ずつ手に取り、ページをめくっていく。


市の歴史。

町の移り変わり。

昔の地図。


どれも今の私には関係のないことのように思えた。

それでも、なぜか手を止めることができなかった。


そして――


昭和初期、まだ青葉市が若葉市と呼ばれていた頃の古い地図を眺めていたときだった。


「……ん?」


私は指を止めた。

地図の片隅に、小さな文字が記されている。

そこには、現在の地図には載っていない施設の名前があった。


私は夢の中で見た光景を思い出した。


霧に包まれた、古びた建物。

割れた窓。

そして――鍵の掛かった扉。


「……もしかして」


胸の奥が、わずかにざわついた。

私は地図に顔を近づけた。

施設の名前は、かなり小さな文字で書かれている。

何度も目を凝らしながら、その名前を読み取った。


「……若葉養護施設……?」


聞いたことのない名前だった。

私はすぐに別の資料を探し始めた。

施設が何のために使われていたのか。

いつ建てられたのか。

そして――今はどうなっているのか。

古い資料を一冊ずつめくっていく。


しばらくして、私はある記述を見つけた。


『若葉養護施設』


そこには、施設についての簡単な説明が書かれていた。

若葉養護施設は、かつて若葉市の山奥に建てられた養護施設だった。

障害のある人や、精神疾患を抱えた人などが暮らしていたという。

しかし、施設の院長による不正や、入所者に対する不適切な扱いが明らかになり、施設は封鎖された。

その後、施設は取り壊されることもなく、長い年月が経った。


やがて、若葉市は青葉市へと名前を変えた。


市名が変わり、町の姿も少しずつ変わっていく中で、山奥に残された施設の存在は人々の記憶から薄れていった。

古い地図には残っていた「若葉養護施設」という名前も、いつしか現在の地図から消えていた。


古い地図には残っていた「若葉養護施設」という名前も、いつしか現在の地図から消えていた。


私は、もう一度古い地図に目を落とした。

山の中に記された、小さな文字。


『若葉養護施設』


その名前を見つめていると、夢の中で見た光景が頭の中に蘇ってきた。

霧に包まれた建物。

古びた外壁。

割れた窓。

そして――鍵の掛かった扉。


「……似てる」


思わず、声が漏れた。


もちろん、夢の中で見た建物と、この地図に記された施設が同じものだという確証はない。

それでも、偶然とは思えなかった。


私はさらに資料を探した。


施設の写真が残っていないか。

当時の新聞記事がないか。

そして――封鎖された理由について、もっと詳しく書かれていないか。


何か一つでも、夢の中の建物と結びつくものがないか。

私は古い資料を、もう一度一冊ずつ調べ始めた。

施設について書かれた記録を探し、古い新聞にも目を通していく。

ページをめくるたび、紙の擦れる音が静かな館内に響いた。

けれど、なかなかそれらしい記述は見つからない。


何冊目だっただろう。


一冊の古い新聞を開いたとき、私はふと手を止めた。

紙面の中に、見覚えのある名前があった。


『若葉養護施設』


「……これ」


思わず、小さく声が漏れた。

私はその記事に目を近づけた。

記事の見出しには、大きくこう書かれていた。


『若葉養護施設、閉鎖へ』


私は息を止めるようにして、記事を読み進めた。

そこには、施設で長年にわたって不正が行われていたことが書かれていた。

施設を運営していた院長が、国や自治体から支給されていた補助金の一部を不正に流用していたという。

さらに、施設の入所者に対しても、適切な支援が行われていなかった。

記事を読み進めるにつれて、胸の奥が重くなっていく。


そして最後に、こう記されていた。


施設は閉鎖され、入所者は別の施設へ移された。

私はしばらく、その文章から目を離せなかった。


「……こんなことが、あったんだ」


知らなかった。

山の中に、そんな施設が存在していたことさえ。

私は記事を読み終えたあと、ページをめくった。

すると、次のページに一枚の古い写真が載っていた。


「……」


私は思わず、身を乗り出した。


写真には、山の中に建つ施設が真正面から写されていた。


古びた建物。

いくつもの窓。

その周囲には、木々が生い茂っている。


そして、建物の前には――


『若葉養護施設』


そう書かれた看板が立っていた。

私は写真から目を離せなくなった。

夢の中で見た建物と、よく似ている。


いや。


建物だけじゃない。

写真に写る窓の位置も、建物の周囲の雰囲気も。

夢の中で見た光景と、重なっていた。


『若葉養護施設』


私は、その名前を見つめた。


ここだ。


間違いない。


あかりちゃんはここにいる。

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