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海月  作者: ふるかわゆう


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8/8

第八話 あの日

「明里~、もう起きる時間よ」


優しい声が、静かな部屋に響いた。

布団の中で丸くなっていた明里は、もぞもぞと身じろぎをした。


「うーん……」


眠たそうな声を漏らしながら、ゆっくりと布団を捲る。

ぼんやりとした目で天井を見つめたあと、明里はもう一度、布団の中へ潜り込もうとした。


「明里、学校遅刻するよ」


「……あと五分」


「昨日もそう言ってたでしょ」


「……今日は起きるもん」


布団から顔だけを出して、明里は小さく答える。

母親は、そんな明里を見て笑った。


「まったくもう。まだ眠たいの?」


「…うん」


明里は眠たそうに頷いた。


「じゃあ、お母さん先に朝ごはん用意してるからね」


「うん……」


母親の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。

明里はしばらく布団の中でじっとしていた。

けれど、もう一度眠るには、少しだけ目が覚めてしまったらしい。


「……さむい」


しばらくして、ようやく目が覚めた明里は、ベッドの上でゆっくりと身体を起こした。

まだ眠気の残る目をこすりながら、布団から足を出す。

ベッドを降りると、明里は小さく欠伸をした。

部屋を出て、階段を一段ずつ下りていく。

洗面所に入ると、鏡の中に自分の顔が映った。


寝癖で、肩まで伸びた黒髪があちこちに跳ねている。

まだ幼さの残る丸い顔に、少し垂れた大きな目。

頰には、寝起きの赤みが残っていた。


明里は鏡を見ながら、少しだけ顔をしかめた。

蛇口をひねり、両手ですくった水を顔にかける。


「つめたっ」


思わず肩をすくめた。

それでも何度か顔を洗うと、タオルで頬を拭いた。


自分で歯を磨き、口をゆすぐ。

鏡に映った自分をもう一度だけ確認すると、明里は洗面所を出た。

リビングに入ると、朝ごはんの匂いが漂っていた。


「お母さん、おはよう」


明里が声をかけると、キッチンに立っていた母親――石田美幸(いしだみゆき)が振り返った。


「明里、おはよう」


「もう、お母さん。明里、起きてこないかと思ってた」


「ちゃんと起きれるもん」


明里が少しだけ頬を膨らませる。

美幸はそんな明里を見て、にこやかに笑った。


「はいはい。ちゃんと起きられてえらいね」


「子どもじゃないもん」


「ふふ、そうだったね」


美幸は笑いながら、テーブルの上に朝ごはんを並べていく。

焼いたトーストと目玉焼きが置かれた。


明里は椅子に腰を下ろした。


「いただきます」


手を合わせてから、明里はトーストに手を伸ばした。

ひと口、またひと口と、明里はゆっくりトーストを食べていた。

そんな娘の様子を見ながら、美幸がふと思い出したように声をかける。


「明里、ランドセルに教科書ちゃんと入れた?」


「うん?」


「忘れ物ない? 大丈夫?」


明里は口の中のものを飲み込んでから、こくりと頷いた。


「うん、大丈夫だよ」


「明里ったら、いつも忘れ物するから」


「もう、お母さんたら。そんなに私は子供じゃないよ」


明里は口をきゅっと結び、頬を膨らませた。

その様子を見て、美幸は思わず小さく笑った。


「そうね。もう三年生だもんね」


「そうだよ」


「今日は何時くらいに帰ってくるの?」


「いつもと同じだよ」


「そっか。今日も友達と一緒に帰ってくるんだね。わかった」


「友達と帰るなら大丈夫だと思うけど、気をつけてよ。最近、物騒だからね」


「お母さん、心配しすぎだって」


「もう。お母さん、明里のことが心配で言ってるんだから」


「はいはい。大丈夫だよ。ありがと」


「あ、もうこんな時間。みんな来ちゃう!」


明里が時計を見て、慌てて椅子から立ち上がった。


「あら、もうそんな時間?」


美幸も時計を確認すると、明里を急かすように声をかけた。


「ほら、明里。ランドセル!」


「分かってるって!」


明里は急いでランドセルを背負うと、玄関へ向かった。

靴を履き、立ち上がる。


「じゃあ、行ってきます!」


「待って、明里」


美幸が呼び止める。


「今日はお母さん、仕事から早く帰れそうだから、明里の好きなカレー作って待ってるね」


「えっ、カレー?」


明里の顔がぱっと明るくなる。


「やった! カレーだ!」


「ふふ。そんなに嬉しい?」


「うん! だってお母さんのカレー好きだもん」


「じゃあ、早く帰っておいで」


「うん!」


嬉しそうに笑う明里を見て、美幸も笑った。


「ほら、マフラー巻いて」


首元が寒くないように、ずれたマフラーをそっと整える。


「これで大丈夫」


「ありがと、お母さん」


「うん。気をつけてね」


「いってきます!」


「いってらっしゃい、明里」


家を出ると、少し先の道路に、ランドセルを背負った子供たちの姿が見えた。

近所の小学生たちが、登校班の列を作って歩いてくるところだった。

先頭には上級生らしい男の子がいて、その後ろに何人かの子供たちが続いている。


「おはよう!」


明里が声をかけると、列の中にいた女の子が振り返った。


「明里ちゃん、おはよう」


「おはよう」


明里は小さく笑って、みんなのいるところへ駆け寄った。


「今日も寒いね」


「だね。わたし、朝なんて布団から出たくなかったもん」


「私も」


明里はそう言って、自分のランドセルの肩紐を握り直した。


「早く行かないと、また先生に怒られるよ」


「えー、まだ大丈夫だよ」


「早く、行くよー」


先頭の男の子がそう言うと、登校班は再び歩き始めた。

しばらくすると、道の先にいつものバス停が見えてきた。

明里は前を歩く友達の背中を追いながら、少しだけ歩く速度を上げた。


バス停が近づいてきた。


ベンチの横には、時刻表の隣にお姉ちゃんが立っていた。


明里はその横を通り過ぎようとした。


そのときだった。


靴の先が雪に引っかかった。


「きゃっ……!」


身体が前のめりになり、明里は咄嗟に手をつけなかった。

膝が雪の下の硬い地面に擦れ、そのまま倒れ込んだ。


「いたぁ……」


明里は痛みに顔をしかめた。

ズボンについた雪を払う。

膝のあたりが、じんじんと痛む。

なかなか起き上がることができず、明里はその場に座り込んだまま、顔を上げた。


すると、すぐ目の前に、さっきのお姉ちゃんが立っていた。


「大丈夫?」

 

明里は痛みに思わず眉を寄せた。

目の奥がじわりと熱くなる。

でも、泣かなかった。

もう三年生だもん。

これくらいで泣いちゃいけない。

そう思って、明里はぎゅっと唇を結んだ。


すると、お姉ちゃんが少し困ったような顔をした。


「……大丈夫だよ」


何かを考えるように、少し間を置いてから言う。


「すぐ……治るから」


その声は、少しだけ頼りなかった。

でも、明里には優しく聞こえた。

お姉ちゃんはそう言うと、持っていた鞄を開けて、中を探し始めた。


「これ……貼ろうか?」


取り出したのは、可愛らしいキャラクターが描かれた絆創膏だった。

明里は、絆創膏とお姉ちゃんの顔を交互に見た。


そして、小さく頷いた。


「うん」


お姉ちゃんは少し戸惑いながら、明里の膝にそっと絆創膏を貼ってくれた。


「……これで大丈夫だと思う」


明里は自分の膝を見つめた。

痛みはまだ残っていたけれど、不思議と少しだけ安心した。

ゆっくり顔を上げる。

目の前のお姉ちゃんと、目が合った。


「お姉ちゃん、ありがとう」


それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。

お姉ちゃんは、少し困ったように黙っている。

明里は涙を拭い、小さく笑った。


「お姉ちゃんも学校?」


「……うん」


「そっか」


明里はそう言って、先に行った子たちのほうを振り返った。

みんなの姿が、少し遠くなっている。


「じゃあ、行かなきゃ」


明里は立ち上がり、ランドセルを背負い直した。


少し走ってから、明里は一度だけ振り返った。


お姉ちゃんは、まだそこに立っていた。

朝の光が雪に反射して、その姿が少しだけ眩しく見えた。

黒い髪が風に揺れている。

明里は、なんとなくその姿を見つめた。

優しいお姉ちゃんだった。

それだけ思って、明里はまた前を向いた。


「待ってー!」


先を行くみんなを追いかけるように、明里は走っていった。


───


それからしばらくして学校に着いた。

外は相変わらず寒く、校庭の隅には雪が積もっていた。

友達と一緒に校舎へ入り、廊下を歩いていく。

教室に着くと、すでに何人かのクラスメイトが集まっていた。


「明里ちゃん、おはよう!」


「おはよう!」


明里は自分の席にランドセルを置くと、近くにいた友達のところへ駆け寄った。


「ねえ、聞いて!」


「なあに?」


「今日ね、学校に来る途中で転んじゃったの」


明里はそう言いながら、ズボンの裾を捲った。


「ほら、見て!」


膝に貼られた絆創膏を指さす。


「えっ、大丈夫? 痛くなかった?」


「うん……ちょっと痛かったけど、泣かなかったよ!」


明里はそう言って、少し誇らしそうに笑った。


「すごいね!」


「でしょ?」


そう言って笑うと、明里は絆創膏をそっと撫でた。

朝、優しくしてくれたお姉ちゃんの顔が頭に浮かぶ。


――お姉ちゃん、優しかったな。


ふと思い出して、明里はひとりで小さく笑った。


「明里ちゃん、どうしたの?」


「ううん、なんでもない!」


慌てて首を振ると、明里は自分の席に戻った。

やがて、朝のチャイムが鳴った。

一時間目の授業が始まると、教室は静かになった。

明里は先生の話を聞きながら、黒板に書かれた文字をノートに写していく。

けれど、少しすると、隣の席から小さな声が聞こえてきた。


「明里ちゃん」


明里が顔を向ける。


「なに?」


「休み時間、外行こうよ」


窓の外を見ると、校庭にはまだ雪が残っている。


「寒いよ?」


「大丈夫!ちょっとだけだから」


友達が笑う。

明里もつられて笑った。


「じゃあ、ちょっとだけね」


やがてチャイムが鳴り、一時間目が終わった。


「やっと終わったー!」


明里も椅子から立ち上がり、友達と一緒に教室を出た。


廊下には、休み時間になった子供たちの声が響いていた。


───


それから、いくつかの授業を終え、時間はあっという間に過ぎていった。

昼休みには友達と話したり、給食を食べたりして過ごした。

特別なことは何もない、いつもと変わらない一日だった。

やがて最後の授業が終わり、放課後を告げるチャイムが鳴った。

教室のあちこちから声が上がる。

明里も教科書やノートをランドセルにしまい、帰る準備を始めた。


「明里ちゃん、一緒に帰ろう!」


「うん!」


明里は友達と笑いながら、教室を出た。

教室を出ると、廊下には帰る子どもたちの声が響いていた。


明里は友達と一緒に昇降口へ向かい、靴を履き替える。


「今日、帰ったら何する?」


友達が聞いてくる。


「宿題して、それから……」


明里は少し考える。


「お母さん、今日は早く帰ってくるんだって!」


「ほんと?いいなぁ」


「うん!カレー作ってくれるの!」


明里は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、早く帰らないとね」


「うん!」


二人は並んで歩きながら、学校をあとにした。

いつもの帰り道。

今日も何も変わらない。

そう思っていた。


しばらく歩くと、友達の家へ向かう道が近づいてきた。


「じゃあ、また明日ね!」


「うん。また明日!」


手を振って、友達が別の道へ入っていく。


明里も手を振り返した。


「また明日ー!」


友達の姿が見えなくなるまで見送ると、明里は一人で歩き始めた。

ランドセルを背負い直し、家までのいつもの道を歩いていく。

しばらく歩いたところで、明里はふと違和感に気づいた。


「あれ?」


首元が、なんだか寒い。


「あっ……」


明里は首に手をやった。

巻いていたはずのマフラーがない。


「どうしよう……」


慌てて辺りを見回す。

道の端や、さっきまで歩いてきた道を振り返ってみる。

どこにも見当たらない。

明里はもう一度、来た道を振り返った。


すると、遠くから一人の男の人が歩いてくるのが見えた。

厚手のコートを着ていて、片手には大きな旅行用のバッグを持っている。

どこか遠くから来た人なのかな。

そう思っていると、男が明里の前まで歩いてきた。


「これ、君の?」


男が手にしていたのは、明里のマフラーだった。


「あっ!」


明里は思わず声を上げた。


「それ、私の!」


「やっぱり。さっき道に落ちてたよ」


男はマフラーを手にしたまま、端についている小さな名前タグに目を向けた。


「あかり……?」


「うん!」


「そっか。あかりちゃんか」


男はそう言って、マフラーを明里に差し出した。


「ありがとう!」


明里はマフラーを受け取ると、すぐに首へ巻き直した。


「よかった……」


その様子を見て、男は少し笑った。


「ねえ、あかりちゃん。この近くにひかり公園ってあるかな?」


「ひかり公園?」


「うん。初めて来たから、道がよく分からなくて」


明里は少し考えた。


「知ってるよ」


「本当?」


「うん。こっちの道から行けるよ」


明里はそう言って、いつもの帰り道から少し外れた道を指差した。


「おじさん、道がわからないから案内してくれない?」


「あ、ならわたしが案内してあげるよ」


明里はそう言って、男に笑いかけた。


「本当?」


「うん。わたしに任せて」


「ありがとう。助かるよ」


「こっちのほうが近いんだよ」


明里はそう言って、先に歩き始めた。


男も、その後ろをついてくる。


「こんな近道があるんだね」


「うん。わたし、何回も通ったことあるよ」


明里は少し得意そうに答えた。


そのまま二人は、いつもの道から外れた細い道へ入っていった。

少し歩くと、通りの音が遠くなっていく。

さっきまで見えていた人の姿も、いつの間にかなくなっていた。


「明里ちゃんは優しいんだね」


男が後ろから声をかける。


「困ってる人を助けるなんて」


「うん。お母さんにいつも言われてるからね」


明里は前を見たまま答えた。


「そうか。それはお母さんも嬉しいだろうね」


「うん!」


明里は小さく笑った。

そして、少し先を指差す。


「あ、おじさん。もう公園見えてくる頃だよ」


その瞬間だった。


「――え?」


後ろから突然、腕を掴まれた。

振り向くより早く、何かが口元に押し当てられる。


「んっ……!」


突然のことに、明里は何が起きたのか分からなかった。

必死に手を振りほどこうとする。

けれど、身体がうまく動かない。


「んんっ……!」


声を出そうとしても、口元を塞がれていて声にならない。

怖い。

何が起きているのか分からない。


「んんっ……!」


必死に抵抗する。

けれど、だんだん身体に力が入らなくなっていく。


「……や……」


力が抜けていく。


必死に伸ばした手が、宙を掴む。


そのまま明里の意識は、暗闇の中へ落ちていった。

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