↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海月  作者: ふるかわゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/8

第六話 残されたもの

スマホに仕掛けてあるアラームが鳴る前に、私は目を覚ました。

いつもより、少しだけ早い。

まだ眠気の残る目を擦りながら、私はベッドからゆっくりと起き上がった。

ぼんやりとした頭で、窓の外へ目を向ける。

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の中を淡く照らしていた。


重たい身体をゆっくりと起こし、私は洗面所へ向かった。

蛇口から流れる冷たい水を両手ですくい、顔を洗う。

ひんやりとした感触が、眠気の残る頭を少しずつ覚ましていった。


いつも通りの朝だった。


制服に着替え、何も考えず、決められた手順をなぞるように鞄を持ってリビングへ降りる。


テーブルの上には、未開封の食パンの袋と、スクランブルエッグが盛られた皿が置かれていた。

その横には、少しだけレタスが添えられている。

スクランブルエッグは少し焦げ付いていて、ところどころ茶色くなっていた。

丁寧にラップもかけられていた。


その横には、一枚の書き置きが置かれていた。


――美咲へ


『今日も残業があるから遅くなる。いつもごめんな。お金置いておくから、これで何か食べてくれ。』


恒一の字だった。


これが初めてというわけではない。

こういうことは、もう慣れていた。

それに、今朝はいつもよりお腹が空いていた。

早く目が覚めたぶん、時間にもまだ余裕がある。


私は書き置きをそっとテーブルに戻し、食パンの袋を手に取った。

私は食パンをトースターに入れると、椅子に腰を下ろした。


焼き上がるまでの間、テレビのリモコンを手に取る。

いつものようにテレビをつけると、朝のニュースが流れていた。

ぼんやりと画面を眺めながら、私は椅子に座ってパンが焼けるのを待った。


ニュース番組の画面が切り替わる。


『続いてのニュースです』


聞き慣れた女性アナウンサーの声が、部屋に響いた。


『先日、石川県内で発生した少女の行方不明について、現在も少女の安否は分かっておらず、警察は事件と事故の両面から捜索を続けています』


私は、テレビの画面に目を向けた。


『警察は現在、およそ三百人態勢で――』


三百人も……。


そんなに大勢の人が探しているのに、それでもまだ見つかっていない。

胸の奥に、言いようのない不安が広がっていく。


――まだ、見つかってないんだ……。


すると、画面に少女の写真が映し出された。


『行方不明になっているのは、石田明里(いしだあかり)ちゃん、9歳です』


昨日、聞いた名前と年齢。


『身長は百三十二センチです』


そして、行方不明になった当日に着ていた服。


『当時、着ていた服装は、白いダウンジャケットの下に、水色の長袖トレーナー。白い花柄が入っており、紺色のズボンを履いていました。靴は白い運動靴です』


『学校からの下校中だったため、赤いランドセルを背負っていたということです』


テレビから流れてくる情報を、私は黙って聞いていた。


そして――最後に少女の顔が写し出された。


喉の奥まで込み上げてきた唾を、私は飲み込んだ。


間違いなかった。


名前も。

年齢も。

身長も。

服装も。


そのどれもが、昨日の夢で見た少女と重なっていく。


また、画面が切り替わった。



そこに映し出されたのは、少女の母親だった。

顔は映っていない。

それでも、画面越しに伝わってくるものがあった。


俯いたまま、足元を見つめている。

肩は小さく震え、その姿からは、娘を失った悲しみが滲み出ていた。


そして――


「……どうか、娘を……見つけてください」


震える声が、テレビのスピーカーから聞こえてくる。

その声を聞いているだけで、胸の奥が締めつけられるようだった。

それは、ただのお願いではなかった。


娘の無事を、必死に願う母親の懇願だった。


私は、ただ画面を見つめていた。


「私が……いけないんです……」


母親は俯いたまま、震える声で続けた。


「警察の方や、ボランティアの方には……本当に遅くまで探していただいています」


「それに、SNSなどでも……明里のことを拡散してくださっている方がたくさんいて……」


一度、言葉を詰まらせる。


「本当に……感謝しています」


それでも、顔を上げることはなかった。


「私が……あの日迎えに行っていれば……」


声が、かすかに震える。

画面には映っていないが、強く握りしめられた拳が、わずかに震えているのが分かった。


「……明里……」


小さく名前を呟いたあと、母親は何度も繰り返した。


「明里……明里……どこに行ったの……」


その声を聞いているだけで、胸の奥が締めつけられるようだった。


そして――


『一日でも早く……娘が帰ってくることを祈っています』



最後に流れたその言葉が、私の中に深く残った。


私は、何も言えなかった。

私も悔しくてたまらない。

あんな小さな子がいなくなるなんてたまらなく辛い。

ただ、膝の上に置いた手を見つめる。


そのとき、トースターから音が鳴った。

私は立ち上がり、焼き上がったパンを取り出す。


無言のまま、焼けたパンにいちごジャムを塗った。

赤いジャムが、白いパンの上にゆっくりと染み込んでいく。


そして私は、何も考えないようにして、それを口へ運んだ。


───


朝食を終えると、私は身支度を整え、鞄を手に家を出た。

外は相変わらず寒かった。

頬に触れる冷たい空気に、私はマフラーを少し引き上げる。


雪の残る道を歩き、バス停へ向かった。

バス停に着くと、すでに何人かの学生が待っていた。

私はその中に混じり、やがて来たバスに乗り込んだ。


窓の外を流れていく雪景色を、バスに揺られながらぼんやりと眺める。

今朝、テレビから流れていたニュースが、頭から離れなかった。


行方不明になった女の子。

あかりちゃん。


朝から聞くには、あまりにも重いニュースだった。


私は小さく息を吐く。


胸の奥に、重たいものが残っているような気がした。


窓の外へ視線を戻す。


やがてバスは、学校の近くにある停留所へ到着した。


私は他の生徒たちと一緒にバスを降り、校門をくぐる。

いつもと変わらない朝。

廊下を歩き、教室へ入った。


「美咲、おはよー!」


聞き慣れた明るい声が、すぐに飛んできた。


「……おはよう、遥」


振り返ると、遥がいつもの笑顔でこちらを見ていた。


「ん?」


遥は私の顔を覗き込む。


「どうした? なんか元気なくない?」


「……そう?」


「うん。いつもより暗い」


遥は少しだけ首を傾げた。


「まあ、無理に言わなくても大丈夫」


「……うん」


私は小さく頷いた。


「あ、ところでさ。朝のニュース見た?」


遥は何かを思い出したように、突然口を開いた。


「女の子が行方不明になったやつ?」


何のニュースなのかは分かっていた。

それでも、私はあえて聞き返した。


「そう。明里ちゃんって子」


「……うん」


「怖いよね……。こんな近くで、女の子が行方不明になるなんて」


「しかも小学生でしょ、あの子」


「そう……」


「まだ見つかってないんだってね」


遥の表情から、さっきまでの笑顔が少し消えた。


「怖いよね……。しかも、近くなんでしょ?」


遥は声を少し落としながら、私の顔を見る。


「……うん。石川県内だって」


答えながら、私は視線を落とした。


「そうなんだよね。こんな近くであんなことが起きるなんて……」


遥はそう呟くと、窓の外へ目を向けた。


雪の残る校庭を眺めながら、しばらく黙り込む。


「早く見つかるといいのにね」


遥の言葉に、私は小さく頷いた。


「……うん」


胸の奥に、また重たいものが沈んでいくような気がした。


――早く、見つけなきゃ。


その思いが、頭から離れなかった。


───


放課後。


私は教室を出ると、鞄を肩に掛けた。

今日は帰る前に、ノートを買っておきたかった。

最近使い始めたノートも、残りわずかだ。

このままでは、明日には使い切ってしまいそうだった。


遥は「今日は用事があるから」と言って、いつもより早く教室を出ていった。


「じゃあね、美咲。また明日!」


「うん。また明日」


遥の姿が廊下の向こうへ消えていく。

私は鞄を肩に掛け直し、教室を出た。

放課後の校舎には、帰り支度を終えた生徒たちの声が響いていた。


私はそのままバス停へ向かった。


しばらくしてやってきたバスに乗り込み、窓際の席に座る。

学校のある町を離れ、バスはゆっくりと隣町へ向かって走り始めた。

私は窓の外をぼんやりと眺めながら、朝のことを思い出していた。

ニュースで見た、あの女の子。

そして、遥と話したこと。

早く見つかればいいのに。

そんなことを考えているうちに、見慣れない景色が少しずつ増えていく。


窓の外を流れていく店や住宅を眺めていると、やがてバスがゆっくりと速度を落とした。


目的の停留所に到着したらしい。

私は席を立ち、バスを降りた。

冷たい空気が頬に触れる。

停留所から少し歩いたところにある文房具店へ向かって、私は歩き始めた。


店内に入ると、色とりどりの文房具が並んでいた。

私はノートが並ぶ棚へ向かい、何冊か手に取って眺める。

その中から、いつも使っているものと同じノートを見つけた。

手に取って、表紙を指先でそっとなぞる。

これなら、しばらくは大丈夫かな。

そんなことを考えながら、私はノートをレジへ持っていった。


会計を済ませ、店を出る。


少し離れた場所から、何人もの人が歩いているのが見えた。

雪の残る田んぼの中。

その先にある山へ向かって、何人もの警察官が散らばっている。


そのときだった。


私の横を、サイレンを鳴らしていないパトカーが一台、ゆっくりと走り抜けていった。

続いて、もう一台。

さらにその後ろからも、何台かのパトカーが山の方へ向かっていく。


私は足を止めた。


――毎日、探しているんだ。


そう思った。


テレビの中で見ていた光景が、今は自分の目の前にある。


そのとき、少し離れたところに、一人の女性が立っているのが見えた。


警察官と何かを話している。


はっきりと顔が見えるほど近くはない。

それでも、その女性の表情がひどく疲れていることは分かった。


私は、じっとその顔を見つめた。


そして――


はっとした。

テレビで見た、あの顔。

石田明里の母親だった。


昨日、テレビに映っていた顔が頭に浮かんだ。


――あかりちゃんのお母さん。


私は、思わず息を止めた。


その女性から、目を離せなかった。

そう思った瞬間、胸の奥が苦しくなった。

女性は、何枚ものビラを手にしていた。

何度も周囲を見渡している。


田んぼの向こう。

道路脇。

雪の残る山の方。


まるで、どこかに娘の姿がないか、一つひとつ確かめるように。


遠くから見ているだけでも、娘を必死に探しているのだと、ひしひしと伝わってきた。


私は、母親の姿を見ているうちに、いてもたってもいられなくなった。

気づけば、母親のもとへ向かって駆け出していた。



「……あの」


息を切らしながら、私は声をかけた。

気づけば、母親のもとまで駆けてきていた。

女性が振り返る。


「……はい?」


初めて間近で見る顔は、テレビで見たときよりもずっと疲れていた。

頬はやつれ、顔色も悪い。

何日も、ろくに食事も喉を通っていないのではないか。

そう思ってしまうほどだった。


表情には、隠しきれない憔悴が滲んでいた。


「あの……石田明里ちゃんのお母さん、ですよね?」


女性の表情が、わずかに変わった。


「……そうです」


その声は、とても小さかった。

私は、次に何を言えばいいのか分からなかった。

聞きたいことはあるのに、言葉がうまく出てこない。

それでも、少しだけ間を置いてから、恐る恐る口を開いた。


「あの……娘さん……その……まだ、見つかってないんですよね……?」


「……はい」


女性は俯いた。


手にしていたビラが、ぎゅっと握りしめられる。

紙が、くしゃりと音を立てた。


「でも……明里はきっと、どこかにいるんです」


そのときだった。


近くにいた警察官が、私たちのもとへ駆け寄ってきた。


「お母さん、少し休まれた方が……」


「大丈夫です」


母親はすぐに答えた。


「私は……まだ探せます、探さないと…」


警察官は困ったように母親を見つめた。


すると、少し離れた場所から、私達三人のもとへ男が歩いてきた。


制服ではない。

濃い色のコートを着ている。

近づいたとき、ふと、微かな煙草の匂いがした。


「君、どうしたの?」


「……いや…」


うまく言葉が出てこなかった。


「ここは危ないから、あまり近づかない方がいいよ」


そう言いながら、男は私の顔をじっと見た。

一瞬、何かを確かめるような目だった。

その視線に、私は少し居心地の悪さを感じた。


「……すみません」


小さく頭を下げる。

男はしばらく私を見ていたが、やがて視線を外した。


「君、この辺の子?」


「……はい」


「そうか」


短く答えると、男は視線を母親へ戻した。


けれど――


もう一度だけ、私の顔を見た。


その表情が、ほんの少しだけ変わったような気がした。


「……いや」


男は、小さく呟いた。


何のことなのか、私には分からなかった。


けれど、その目だけが、なぜか気になった。


「なんでもない」


男はそう言うと、少しだけ間を置いた。


「名前、聞いてもいいかな?」


「……冬月、美咲です」


その名前を聞いた瞬間だった。


男の表情が、わずかに固まった。


「……そうか……」


男は小さく呟いた。


その表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「君は、どうしてここに?」


「近くの文房具屋にノートを買いに来て……それで、警察の人たちがいたから……」


「そうか」


「……俺は佐伯。刑事をしてる」


そう言って、男はコートのポケットからメモ用紙を取り出した。

何かを書き込むと、一枚をちぎって私に差し出した。


「もし、明里ちゃんのことで何か思い出したことがあったら、ここに連絡して」


私は、渡されたメモに目を落とした。


そこには、電話番号が書かれていた。


「どんな小さなことでもいい。何か分かったら、いつでも連絡してくれ」


「……はい」


私は小さく頷いた。


「じゃあ、気をつけて帰って」


そう言って、佐伯はその場を離れていった。

私はその背中を少しだけ見つめた。

それから、手の中にある小さなメモに目を落とした。


私はメモを鞄の中へしまった。


もう一度、あかりちゃんのお母さんを見る。

今も、何枚ものビラを手にして、近くにいる人へ声をかけている。

その姿を見ていると、胸の奥が少し苦しくなった。


――あかりちゃんは、まだ見つかっていない。


そう思うと、夢の中で聞いた声が頭をよぎった。


『さむいよ……』


私は小さく息を吐いた。


そして、母親に向かって一度だけ頭を下げると、その場を離れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。