第四話 未知導
テレビの画面からニュースが消えても、胸の奥に残った不安だけは消えてくれなかった。
映し出された少女の顔が、頭から離れない。
今朝、バス停で出会ったあの子と、どうしても重なってしまう。
見間違いだと思いたい。
でも――
あの子が最後に見せた笑顔が、何度も頭の中に浮かんでは消えていった。
───
その夜。
私はいつもより早く布団に入った。
だが、眠らなければと思うほど、目は冴えていく。
布団の中で何度も寝返りを打つ。
いくら、いい方向に考えようとしても、胸の奥に残った嫌な予感だけは、消えてはくれない。
部屋の中は静まり返り、時計の針が進む音だけが、やけに大きく聞こえてくる。
その音を聞いているうちに、少しずつ意識が遠のいていった。
そして――
私は、また海の底にいた。
いつもの夢。
そう思った。
けれど――何かが違っていた。
いつもなら、遠くまで見渡せるはずの海が、今日はひどく暗い。
どこまで続いているのかさえ分からないほど、深い闇が広がっていた。
私はゆっくりと周囲を見回した。
何もない。
声も、聞こえない。
静寂だった。
ただ、その静寂の中で――
遠くの暗闇に、ひとつ。
小さな黄色い光が浮かんでいた。
私は、その光を見つめていた。
黄色い光が、暗闇の中でゆらゆらと揺れている。
まるで、深い海の底で誰かが灯した、小さなちょうちんのように。
風もない。
波もない。
それなのに――
光だけが、静かに明滅していた。
私は、不思議と怖いとは思わなかった。
ただ、その光に惹かれるように、ゆっくりと近づいていった。
何かがいる。
そう思った瞬間――
暗闇の中から、丸く膨らんだ黒い塊が姿を現した。
けれど、それ以上は見えないし、私を襲ってきたりもしない。
ただ、頭の先で揺れる黄色い光だけが、私を誘うように揺れていた。
私は立ち止まり、じっとそれを見つめる。
すると――
「……おねえちゃん」
暗闇の中から、かすかな声が聞こえた。
私は思わず息を呑んだ。
今のは……私に向けられた声なのだろうか。
「おねえちゃん……」
もう一度。
今度は、はっきりと聞こえた。
幼い女の子の声だった。
私は辺りを見回した。
けれど、どこを見ても暗闇ばかりで、その姿を見つけることはできない。
私は何かを伝えようと、口を開いた。
けれど――
声は出なかった。
いつものように、私の口は固く結ばれたままだった。
それでも私は、その光から目を逸らすことができなかった。
すると――
少し離れたところで、また別の光がまた揺れた。
まるで、こちらへ来てほしいと言っているかのように。
光に誘われるように、私はゆっくりと暗闇を進んだ。
近づくにつれて、その光の下に何かの姿が浮かび上がってくる。
それは、暗闇の中でじっとこちらを待っているようだった。
そして私がさらに近づくと、その身体がゆっくりと暗闇の中から浮かび上がってきた。
そこには、私には見たことのない不思議な姿があった。
私がどこかの本で見たことのあるチョウチンアンコウとは、明らかに姿が違っていた。
丸々とした黒い頭。
その下には、銀色に輝く細長い胴体。
ひらひらと揺れるヒレが、まるで海の中を舞う薄い布のように、揺れている。
そして、頭の先には――
チョウチンアンコウと同じように、小さな灯火を宿した、一本の細い突起が伸びていた。
まるで、誰かを導くために灯された、小さな明かりのようだった。
けれど、それ以外は何もかもが違っていた。
私の知っている生き物ではない。
私が一度も見たことのない、未知の生物だった。
そして――
『たすけて』
私は確かに、そう聞こえた。
目の前にいるチョウチンアンコウが、私に話しかけているのだ。
『さむいよ…』
『こわいよ…』
『お母さん……』
その言葉を最後に、声が途切れる。
すると――
ふと、周囲の景色に違和感を覚えた。
さっきまで私を包んでいた、深い海の底。
揺らめいていた海水が、少しずつその姿を変えていく。
やがて、目の前の海がゆっくりと形を変え、一枚の大きなスクリーンのように広がっていった。
そこに映っていたのは――
人気のない、古びた施設だった。
建物の壁はところどころ剥がれ落ち、窓ガラスは割れている。
ひび割れた窓から差し込む光は弱く、長い年月の中で忘れ去られた場所のようだった。
人の気配はどこにもなく、そこにはどこか重苦しい静けさだけが漂っていた。
やがて、施設の奥から白い霧がゆっくりと流れ込んできた。
その霧は、まるで現実と夢の境目を覆い隠すように、静かに辺りを包んでいく。
白く霞んだその向こうに――
ひとつの人影が浮かんでいた。
輪郭はぼやけ、顔も、姿も、はっきりとは見えない。
ただそこに、「誰かがいる」ということだけが、不思議なほど鮮明に伝わってきた。
コツ……コツ……。
革靴の音だけが、静まり返った廊下に響いていた。
黒いレザージャケットを身にまとった人物が、片手にレジ袋をぶら下げ、ゆっくりと廊下を進んでいく。
袋の中では、何かがかすかに揺れていた。
その隙間から、いくつかの食べ物が覗いている。
まるで、誰かのために用意されたものを運んでいるようだった。
コツ……コツ……。
やがて、その人物は一つの扉の前で足を止めた。
扉には、鎖が幾重にも巻きつけられている。
そして――
ガシャ……ガシャガシャ……。
人物が鎖に手をかける。
その先で、南京錠が無機質な音を立てて揺れた。
ガシャ……。
その音だけが、静まり返った施設の中にいつまでも響いていた。
その人物は、重そうな鉄の扉に手をかけた。
そして――
ギィィ……。
軋む音を響かせながら、重い扉がゆっくりと開いていく。
けれど、その人物は何事もなかったかのように、片手で扉を開けていった。
やがて、その姿が扉の向こうへ消える。
ガシャん――。
重い扉が閉まった。
その瞬間。
私の目の前に映し出されていた景色も、海の中へ溶けるように消えていった。
気づけば、そこには再び、暗闇が広がっていた。
私は、辺りを見渡した。
けれど――
そこに、チョウチンアンコウの姿はなかった。
さっきまで確かにそこにいたはずなのに。
まるで、最初から何もいなかったかのように。
「……どこ?」
返事はなかった。
静まり返った海の底で、私はただ一人、行き場を失ったようにゆらゆらと漂っていた。
そのとき――
『お姉ちゃん……』
遠くの暗闇から、かすかな声が聞こえた。
私は、その声を追うようにゆっくりと辺りを見渡した。
けれど、そこには何もいない。
次第に、私の視界がゆっくりと霞んでいく。
海の色も、遠くの暗闇も、何もかもが滲んでいった。
そして――
プツン。
そこで、夢は途切れた。




