第三話 灯火の行方
午前七時二十分。
私は家を出た。
いつも歩いている道は、昨夜の雪ですっかり白く染まっていた。
昨日は、随分と雪が降ったらしい。
道端に並ぶ家々の屋根も、電線も、植木も。
見慣れているはずの景色が、雪に覆われるだけでどこか別の場所に見える。
「……寒い」
思わず小さく呟いて、私は首に巻いたマフラーに顔を埋めた。
足元に広がる雪を、革靴で踏みしめるたび、
きゅっ、きゅっ――
と、小さな音が鳴る。
吐いた息は白くなって、すぐに空へ溶けていった。
私はその白い息をぼんやりと眺めながら、いつもの道を歩き始めた。
今日は、いつもより少しだけ静かな朝だった。
雪が音を吸い込んでしまっているのか、車の走る音も、遠くから聞こえる人の声も、どこかぼやけて聞こえる。
そんな静けさの中を、私は一人、バス停へと向かった。
七時三十分。
私はいつものバス停へと辿り着いた。
バス停には、青色のベンチが置かれている。
けれど、ベンチには雪がうっすらと積もっていて、とても座れそうにはない。
私は時刻表のそばへ寄り、まるで時刻表と背比べをするように並んで立った。
時刻表に書かれた七時三十五分の文字を確認する。
いつもなら、あと五分もすればバスがやって来る。
けれど今日は、昨夜から降り続いた雪の影響なのか、予定の時間になってもバスは一向に姿を現さなかった。
そこへ、少し離れたところから子どもたちの声が聞こえてきた。
「おはようございます!」
「おはよう!」
ランドセルを背負った子どもたちが、列になって登校している。
その先には、黄色い旗を手にした大人たちが立っていた。
子どもたちは、その人たちに元気よく挨拶をしながら、雪の積もった道を歩いていく。
「おはようございます!」
「はい、おはよう。気をつけてね」
私はそんな光景を、バス停からぼんやりと眺めていた。
やがて、その列は少しずつ私のいるバス停へと近づいてきた。
「おはようございます」
私にも、子どもたちが元気よく挨拶をしてくる。
私は少し戸惑いながらも、聞こえるか聞こえないかくらいの声で
「……おはよう」と返した。
子どもたちはそのまま、私の前を通り過ぎていく。
そして、列の最後尾にいた一人の女の子が私の前を通り過ぎようとした、その瞬間――
ツルッ――。
「きゃっ……!」
女の子は、ランドセルの重さで上手く手をつけず、そのまま雪の上へ倒れ込んだ。
私は思わず、慌ててその子へ手を伸ばした。
「大丈夫?」
私は女の子に声をかけた。
女の子は雪の上に座り込んだまま、今にも泣き出しそうな顔で私を見上げている。
小学生くらいだろう。
私よりもずっと小さな身体に、少し大きそうなランドセルを背負っている。
雪の冷たさで赤くなった頬と、今にも涙がこぼれそうな大きな瞳が印象的だった。
よく見ると、女の子の膝小僧には擦り傷ができていた。
「……痛い?……よね」
私がそう尋ねると、女の子は小さく頷いた。
先を歩いていた子どもたちは、後ろで起きたことに気づいていないのか、そのまま通学路を進んでいく。
どうしよう。
子どもと話すことなんて、ほとんどなかった。
どう声をかければいいのかも分からない。
それでも、美咲は泣きそうな顔をしている女の子を、このままにしておくことはできなかった。
「……大丈夫だよ」
自分でも何を言っているのか分からないまま、私は女の子にそう声をかけた。
「すぐ……治るから」
なんの保証もない言葉を口にしながら、私は鞄の中を探した。
自分に、何かできることはないかと思っていると、指先に小さな感触が触れた。
取り出したのは、いつだったか買った、可愛らしいキャラクターが描かれた絆創膏だった。
「これ……貼ろうか?」
女の子は涙を浮かべたまま、こくんと頷いた。
私は少し戸惑いながら、女の子の膝小僧にそっと絆創膏を貼った。
「……これで大丈夫だと思う」
私はそう言って、貼り終えた絆創膏を見つめた。
女の子は膝を見つめたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「かわいい…これ……ありがとう、お姉ちゃん」
「ううん……」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
女の子は涙を拭い、小さく笑った。
「お姉ちゃんも学校?」
「……うん」
「そっか」
女の子はそう言って、先に行った子たちのほうを振り返った。
「じゃあ、行かなきゃ」
女の子は立ち上がり、ランドセルを背負い直した。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
そう言って、女の子は列を追いかけていった。
私は小さく息を吐いた。
子どもと話すのって、こんなに難しいんだ。
そんなことを考えていると――
遠くからバスの音が聞こえてきた。
───
やがて、バスは学校へと到着した。
私は降りる生徒たちの後ろについて、ゆっくりとバスを降りる。
校門へ向かう道には、昨夜降った雪がまだ残っていた。
足元に気をつけながら歩いていると、周りからは生徒たちの楽しそうな話し声が聞こえてきた。
「昨日さ――」
「それでね――」
そんな声を聞きながら、私は一人、黙って歩く。
校門をくぐり、昇降口へ向かう。
そこには、友達同士で話しながら靴を履き替える生徒たちがたくさんいた。
私はその間を通り抜け、自分の下駄箱へ向かった。
上履きに履き替え、廊下を歩く。
教室へ近づくにつれて、少しずつ人の声が大きくなっていった。
私は教室の前で、ほんの少しだけ足を止める。
そして、静かに扉を開けた。
教室に入ると、みんなそれぞれ友達と話していた。
私のことを気にする人は、誰もいない。
けれど、そんな中で一人だけ、こちらに手を振っている女の子がいた。
白石遥だ。
明るい茶色の髪に、少しだけ化粧をした顔。
制服のスカートも校則より少し短くしていて、クラスの中でもひときわ明るい雰囲気をまとっている。
茶色く染めた髪を揺らしながら、いつものように笑っている。
「美咲、おはよう!」
「おはよ」
「どした?美咲~今日元気ないじゃん!」
遥は、いつものように私の顔を覗き込んできた。
彼女は昔から、私の顔色をよく見ていた。
私が何も言わなくても、少し俯いていれば「何かあった?」と聞いてくるし、いつもより口数が少なければ、すぐに私の心境を当ててしまう。
まるで、私の顔がそのまま心の中を映しているみたいに。
「……そんなことないよ」
「うそ。元気ないときの美咲、分かりやすいもん」
そう言って、遥は笑った。
私とは正反対の性格。
明るくて、誰とでも仲良さそうに喋って、人の輪の中心にいるような彼女。
どうして私たちは仲良くなったのだろう。
今でも、それだけは少し不思議に思っている。
けれど――
その理由を知るのは、もう少し先の話になる。
「いやさ…また…あの夢見たの」
「あの夢?」
「うん。海の中にいる夢」
「また見たの?」
「うん。もう何回見たか分からないや」
そう答えながら、美咲はふと思い出していた。
――初めてあの夢の話を遥にした日のことを。
何度目だっただろう。
同じ夢を繰り返し見ることが、少しだけ奇妙に思えてきた頃だった。
誰かに話したところで信じてもらえるとは思わなかった。
それでも、なぜか遥になら話してもいいような気がした。
「最近さ、変な夢を見るんだよね」
そう言って、夢の内容を冗談半分に話した。
それが、私と遥が夢について話すようになった始まりだった。
「なにそれ。美咲、夢で海の中を泳いでんの?それも毎回のように?」
「そうなの。もしかしたら私、クラゲ…というか変な生き物?になってるのかもしれない」
「ふ~ん。それで、その生き物になって何かすんの?」
「いや、何かをするというか…何もできない」
「え?なにもできないの?それって、つまんなくない?」
「つまんないっていう感情とかはないかな。まあ、夢の中だしね」
「クラゲって…なにそれ、面白すぎるんだけど」
「もう…ここ最近、ずっと見るんだよね」
「やっぱりなんか、不思議な子だね。美咲って」
「……そうかな」
「うん。へぇ~……なんか、美咲らしい夢だね」
「私らしいってなにそれ」
「だって美咲、海とか好きそうじゃん」
「別に、そうでもないけど」
「えー、絶対好きでしょ。なんか水族館とか、一人で行ってそう」
「行かないよ」
「じゃあさ、今度一緒に行こーよ」
「……水族館?」
「うん!クラゲ見に行こうよ。夢に出てくるくらいなんだから。美咲だって、何でクラゲになるか気になるでしょ。」
「……それは、そうだね…。ちょっとは気になる。うん、見てみたいかも」
「でしょー?」
遥はそう言って、楽しそうに笑った。
その笑顔につられるように、私も小さく笑った。
このときはまだ、それがただの夢だと思っていた。
───
「それで、随分と困った顔してるけど」
遥が机に頬杖をつきながら、私の顔を覗き込んでくる。
「うん……実は……」
私は少し迷ったあと、昨日見た夢の出来事を細かく遥に話した。
話している間、遥は口を挟むことなく、時折小さく頷きながら私の話を聞いていた。
「なんか、急展開だね」
「そうなの……」
「その声は、どんな感じだった?」
遥が少しだけ首を傾げる。
「……うーん……男性でも女性でもないし……曖昧な声、だったかな」
「近くには、何かいたの?」
「ううん……私だけ」
私は膝の上で指を絡ませながら答えた。
「話したくても、しゃべれなかった」
「でも……『助けて』って聞こえたんでしょ?」
遥の声が、ほんの少しだけ真剣になる。
「うん。まあ、そう言っても夢だからね」
私は苦笑いを浮かべ、視線を窓の外へ逃がした。
「ごめんね、遥。朝からこんな話」
そう言うと、遥は少し驚いたように目を丸くした。
「いいんだよ、全然。美咲の夢の話、聞くの好きだし」
そう言って、遥はいつものように笑った。
「それに、美咲が元気ないとこ見てたら心配になるし」
「……」
私は何も言えず、ただ遥の顔を見つめた。
「なんか、また進展があったら夢の話、聞かせてよ」
遥はそう言って、私の肩を軽く叩いた。
時折見せる遥の優しい表情に、私はいつも胸を打たれそうになる。
「ありがとう、遥」
「ううん、全然」
そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
「……あ、やばっ。先生来る」
遥が慌てて時計を見る。
「美咲、また後で話そ」
「うん、わかった」
遥は自分の席へ戻っていく。
私はその背中を見送りながら、さっきまで胸の中にあった不安が、ほんの少しだけ軽くなっていることに気づいた。
それからの時間は、いつもと変わらない学校生活だった。
授業を受けて、休み時間には遥と他愛もない話をして。
気がつけば、窓の外はすっかり夕暮れに染まっていた。
終礼を告げるチャイムが、静かな教室に響く。
「……もうこんな時間か」
私は窓の外へ目を向けた。
朝から降り続いていた雪は、まだ止んでいない。
「美咲、帰ろー!」
遥の声に振り返る。
「うん。今行く」
私は鞄を手に取り、遥と一緒に教室を出た。
昇降口を抜け、校門まで並んで歩く。
校門の前まで来ると、私たちはいつものように足を止めた。
私たちの家は反対方向にある。
朝は同じバスで学校へ向かうけれど、帰りはそれぞれ別の道を通る。
「じゃあ、また明日ね!」
遥が笑顔で手を振る。
「うん。また明日」
私も小さく手を振り返した。
遥が反対方向へ歩いていくのを見送ってから、私は一人で歩き出した。
ふと空を見上げる。
雪雲が晴れた冬の空は、どこまでも澄んでいた。
傾きかけた太陽が、薄い雲を橙色に染めている。
白く残った雪もその光を受けて、淡く輝いていた。
朝とはまるで違う景色だった。
───
その後、私は家へ帰った。
「ただいま」
返事はない。
今日は、お父さんの帰りが遅くなる日だった。
静かな玄関に、自分の声だけが小さく響いた。
私は靴を脱ぎ、鞄を置いてから、誰もいないリビングへ向かった。
誰もいない部屋は、いつもより少し広く感じる。
ソファに腰を下ろし、何となくテレビのリモコンを手に取った。
電源を入れると、ちょうど夕方のニュースが流れていた。
『続いてのニュースです』
画面には、見慣れない町並みが映し出されていた。
『富山県内で相次いでいる、児童を狙った連続誘拐事件について、新たな情報が入りました』
「……誘拐?」
思わず、テレビへ目を向ける。
『警察によりますと、先月から複数の児童が行方不明となっており、現在も捜索が続けられています』
画面には、行方不明になった児童の情報が次々と映し出されていく。
私はしばらく画面を見つめていた。
けれど――
「……石川じゃないんだ」
そう呟いて、視線をテレビから外した。
私が住んでいるのは、石川県汐見市
隣の県で起きている事件。
近いようで、どこか遠い出来事に感じていた。
テレビの音を聞きながら、私はソファに身体を預けていた。
いつの間にか、瞼が重くなっていた。
少しだけ休もう。
そう思ったのを最後に、私は眠りに落ちていた。
――どれくらい眠っていたのだろう。
ふわりと漂ってきた、温かな匂いに目を覚ました。
「……ん」
ゆっくりと身体を起こす。
ぼんやりとした頭で辺りを見回すと、さっきまで誰もいなかったはずのリビングに明かりがついていた。
そして、キッチンからは夕食の匂いが漂っている。
「……お父さん?」
私はテーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取った。
画面に表示された時刻は、十九時を少し過ぎていた。
「……こんなに寝てたんだ」
どうやら、眠っている間にお父さんは帰ってきていたらしい。
キッチンのほうから、食器の触れ合う小さな音が聞こえてくる。
私は重たい身体を起こし、ゆっくりとキッチンへ向かった。
「美咲、起きたか」
キッチンから、お父さんの声が聞こえた。
「うん……」
まだ少し眠気の残る目を擦りながら、私は返事をする。
「もうご飯できるから、テーブルの上、片付けてくれるか?」
「うん」
私はテーブルの上に置いていたものを端へ寄せ、食事の準備を始めた。
キッチンから漂ってくる匂いに、少しだけお腹が空いてくる。
「今日はカレーにしたぞ」
「カレー?」
「うん」
お父さんは鍋の蓋を開け、カレーをよそっていく。
じゃがいもや人参、玉ねぎが入っている。
けれど、どれも大きさが少しずつ違っていた。
形も、なんとなく不揃いだ。
やがて二人分のカレーがテーブルに並んだ。
「いただきます」
「いただきます」
二人の声が重なった。
私はスプーンでカレーをすくい、口へ運ぶ。
「……おいしい」
思わず、そう呟いた。
「そうか」
お父さんはそれだけ言って、少しだけ目を細めた。
向かいでは、お父さんも黙々とカレーを食べている。
いつもと変わらない夕食。
いつもと変わらない、私たち二人の時間だった。
父と向かい合って食卓につき、私は箸を動かしていた。
テレビから流れるニュースを、特に気にすることもなく聞き流しながら。
そんな、どこにでもあるような夕食の時間だった。
――そのニュースが流れるまでは。
『続いてのニュースです』
テレビの中から、女性アナウンサーの落ち着いた声が聞こえてきた。
『石川県内で、小学生の女児が下校中に行方不明となる事案が発生し、警察が行方を捜しています』
その言葉に、私は箸を止めた。
何気なくテレビへ視線を向ける。
画面には、見慣れた県内の風景が映し出されていた。
女性アナウンサーは、淡々と事件の詳細を読み上げていく。
女児の年齢。
身長。
行方不明になった時間。
そして――当時、着ていた服装。
やがて画面には、行方不明になった女児の顔写真が映し出された。
私は、その写真から目を離せなかった。
胸の奥が、ざわついていく。
これって……。




