第2話:『風化のぬくもり』
渓谷での激戦から数日が過ぎていた。
傭兵団の行軍は、それまでとはどこか雰囲気を変えていた。団員たちの視線が、時折、ガルドの背後を小さくついて歩く少年へと向けられる。恐怖、好奇、あるいは警戒。あの日、空を切り裂いて現れた「漆黒の翼」の衝撃は、死と隣り合わせの傭兵たちの心にも色濃い影を落としていた。
副団長のバレスは、少年に冷ややかな視線を投げかけながらガルドに囁いた。
「あのガキの持っている力……ただの魔法じゃねえ。下手に町や城に連れ込めば、領主や教会からどんな目を向けられるか分からんぞ」
「……分かっている。余計な口を叩くな」
ガルドは短く答えるだけに留めたが、その手はしっかりと少年の小さな肩を抱いていた。
少年は、ガルドの外套の端を握りしめながら、時折足を止めて周囲の景色を見上げていた。やがて、切り立った岩山が途切れ、青々とした山あいの谷間が開けたとき、少年の唇がかすかに動いた。
「……川……大きな、丸い石……」
「ん? 何か言ったか、小僧」
「……あっち。煙……お家がある」
途切れ途切れの記憶。少年が絞り出した言葉を頼りに、ガルドは傭兵団の進路を少しだけ迂回させた。木々の隙間を抜けると、そこには風に揺れる小麦畑と、穏やかな煙突の煙が立ちのぼる小さな村が広がっていた。
* * *
村の外れ、小さな木造の家の前で、一人の老婦人が薪を抱えて立っていた。
深まるシワと白い髪。その老婦人は、傭兵たちの群れを目にして一瞬怯えたように身をすくめたが、ガルドの脇から顔を出した少年の姿を見た瞬間、抱えていた薪を地面に落とした。
「……まさか……あの子……?」
「おばあ……ちゃん……」
久しく口にしていなかった言葉が、少年の口から自然と溢れ出た。
老婦人は駆け寄ると、泥と煤で汚れた少年を強く、強く抱きしめた。
「生きていてくれたのかい……! ああ、神様、生き残っていてくれたなんて……!」
老婦人の涙が少年の頬を濡らす。少年は最初、硬直していたが、背中に回された温かい手のぬくもりを感じるうちに、ゆっくりとその肩の力を抜いていった。
祖母の名はエルナといった。
少年の故郷が戦火に包まれた際、離れて暮らしていたエルナは家族の全滅を覚悟していたという。奇跡的に生き延び、傭兵団に保護されていた孫との再会に、老婦人は何度も感謝の言葉を繰り返した。
「傭兵の旦那さん、本当に……本当にこの子を助けてくださって、ありがとうございます」
「礼には及ばん。たまたま拾っただけだ」
ガルドは照れくさそうに大きな顔を背けると、団員たちに村の外での野営を指示した。村人に余計な恐怖を与えないための配慮だった。
その夜、少年は久しぶりに血と火の臭いのしない場所で夜を迎えた。
木造の温かい部屋。かまどで煮込まれた野菜スープのやさしい湯気。ふかふかの干し草が敷かれたベッド。
戦場では冷えたパンを喉に押し込むだけだった食事が、ここでは温かく、驚くほど甘かった。
「お召し上がり、たくさんお食べ」
祖母が笑いかけ、やさしく少年の頭を撫でる。
少年はスープを飲み干すと、ふうと小さな吐息をついた。胸の奥に詰まっていた冷たい塊が、スープの温もりと共に少しずつ溶けていくようだった。
「ガルドさんたちは、明日には行ってしまうの?」
少年が小さな声で尋ねると、祖母は悲しげに目を細めた。
「あの人たちは傭兵だからね。戦いのある場所へ行かなきゃならない。……でもね、お前はもうどこへも行かなくていいんだよ。ここで、私と一緒に暮らそう」
祖母の言葉に、少年は胸を突かれた。
ここで過ごす穏やかな時間。毎朝、鳥のさえずりで目覚め、あたたかい飯を食べ、温かい布団で眠る。それは、少年がとっくに諦めていた「日常」そのものだった。
* * *
夜が更け、村が静まり返った頃、祖母は納屋の奥から古い木箱を持ち出してきた。
埃を払い、鍵を開けると、中から出てきたのは布に包まれた数枚の「板」だった。
それは、少年が懐に抱いていたものとよく似た、薄く硬い無地のカード群だった。
「これはね……うちの家系にずっと伝わってきた『絵板』だよ」
祖母は愛おしそうにカードの表面を撫でた。
「ひいひいおじいちゃんの代……もう百以上も前の話さ。その頃は、この板を使って恐ろしい魔法や兵器を呼び出す『具現化』という力を持つ人がいたらしい。うちの先祖も、その力を持っていたそうだ」
「具現化……」
「ええ。でもね、その力が原因で大きな争いが起きて、能力を持つ人たちは徹底的に追い詰められ、狩られてしまったのさ。……人々は恐怖したんだよ。世界を滅ぼしかねない力だってね」
祖母は溜息をつき、静かに首を振った。
「だけど、月日が流れて、いつしかそんな力を持つ人もいなくなった。今じゃこの板も、ただの古いお守り。何の絵も浮かび上がらない、ただの木と石の板さ。おとぎ話としてしか誰も覚えていない」
祖母はカードの束を、少年の小さな手の上に重ねた。
「でも、あの傭兵の旦那さんから聞いたよ。お前がこの板から光を呼び出したって。……先祖の血が、お前に宿っていたんだね。能力を持たない私や息子には、渡すことすらできなかった代物だ。……これは、お前が持っていなさい」
少年の手の中で、カードは静かに冷たい感触を伝えていた。
5世代という長い年月の中で風化し、人々から忘れ去られた恐怖の遺物。しかし、自分の手の中にあると、どこかかすかな鼓動のようなものを感じる。
「この力は、危険なものなのかもしれない……。でもね、お前が誰かを守るために使ったのなら、それは呪いなんかじゃないよ」
祖母はやさしく少年の手を包み込んだ。
* * *
翌朝。朝靄が漂う村の入口で、傭兵団が出発の準備を整えていた。
荷車を確かめるバレスや団員たちの向こうで、ガルドが大剣を背負い直している。そこへ、祖母に手を引かれた少年が歩み寄った。
ガルドは少年の前に片膝をつき、目線をあわせた。
「小僧。ここに残るなら、引き止めはせんぞ」
ガルドの声はいつも通り不器用で、低かった。
「おばあさんと一緒にいれば、お腹をすかせることも、剣を振り回す野郎どもに怯えることもない。それが、お前にとっちゃ一番の幸せだ」
少年の胸が激しく波打った。
ガルドの言う通りだ。ここにいれば安全で、温かい。血の臭いも、死の恐怖もない。
だが——少年は、ガルドのゴツゴツとした大きな手を見た。
あの日、冷たい泥の中で自分を救い上げてくれた手。冷えたパンを分けてくれた手。不器用だが、温かい手。
もし自分がここに残れば、ガルドたちはまた殺伐とした戦場へ戻っていく。自分に居場所をくれた人たちと、もう会えなくなるかもしれない。
「……ぼく……」
少年の唇が震える。
祖母の優しい手と、ガルドの不器用な手。
戦場しか知らなかった少年が初めて手に入れた「ぬくもり」と、自分を救ってくれた人への「絆」。
二つの道の間で、少年の小さな心は、大きく揺れ動いていた。
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