7 入り江
ヨットを係留してあるのは、わずかに岩が三日月のように入り込んだ岩陰。
そこから白い石で作られた石段を半円を描くように上ってゆくと、島で一番高い場所に建っている白い灯台の前に出る。落ち着いた青色の半球屋根。同じ色のラインが白い灯台に引かれている。
白い柱に青色の半球をした灯台は、いかにも灯台らしくて良い。
満潮になっても海面は無人島のかなり下だ。
子供の頃、何度か夏休みに灯台へ遊びに来たことがある。その時は祖父がいたから、嵐が来ても恐くはなかった。
その祖父にヨットの扱いを教えてもらったのだ。
難しくて嫌だと言ったら、ヨットの操縦を覚えておけば、竜を見つけた時にヨットで追いかけることができるぞ、と祖父は笑いながら言った。
え? 竜がいるの? と驚いて聞き返したら、祖父は大昔この辺りには竜が人と暮らしていたという伝説があると教えてくれた。
騒がしくなって竜は海の彼方へ行ってしまったが、それでも時折、早朝に竜の姿を見たものがいると村の古老が言っていたぞ。
国中の人の大半が気に掛けることもない田舎。住んでいる人々以外は名前すら知らない古くからある海辺の村。そんな村人からも存在を忘れられた灯台。もうここには船が来ることもない。
ずっと存在している。静かにずっとたたずんでいる。それなのに国の大半の人々には知られていない場所。この先も、わざわざ来ようと思いつく者は、皆無だろう。
そう言われると、ほとんど人が住んでいないこの地方になら、まだ不思議な生き物がいるような気がしてきた。
まだ竜が飛んでくるのではないかと期待して、毎朝灯台の小さな窓から一生懸命水平線の彼方まで眺めていた日々。
懐かしい時代。
心弾むわくわくとした感情は、どこへ行ってしまったのだろう。
何が不満というわけでもなく、ただこのまま生き続けていくのがつらく感じてしかたがない。
贅沢だとわかっている。戦争や事故、事件に巻き込まれたわけでもない。手足を失ったわけでも、子供や家族を失ったわけでもない。
それでも……。
やらなければならないと押しつけられることが多過ぎて、ただ気楽に生きるのが難しい。
未知のこと……したくないこと……苦手なこと……嫌なこと……つらいこと……。
この世の中は、理不尽なことが突然降りかかってくる。なぜ自分がこんな災難に遭わなければならないのか。納得できないことが多過ぎる。
多くの不安を震えながら耐えて、何事もなかったかのようなふりをして過ごしていく日々が……嫌になってしまった。
寺にある大きな鐘を鳴らした時に、耳の奥にしばらく余韻が残り続けているように、傷つけられた心にも、傷の余韻が残り続けている。ひとつひとつは小さなことだけれど、完全に消え去ることがなく心の奥底にどんよりと留まり続けているのだ。
すべてを諦めて淡々と生きていくしかないのか。
祖父は……祖母は母は父は……こんな思いを抱いたことがあるのだろうか。どうやって耐えて生きていたのか。
それともこんなことを感じたりしない、生きていくことに適応した強く常に前向きな人だったのだろうか。
祖父母は泣き言など言わず、毎日を過ごしていた。わたしが訪ねていくと、いつもうれしそうに笑顔で迎えてくれた。
長く生きてつらいことはなかったですか? 毎日は楽しかったですか? わたしが邪魔ではなかったですか? わたしは良い孫でしたか?
もう問えない相手への質問ばかりが思い浮かぶ。
生きることは……楽しかったですか?
答えを待ち続けても、海が波の音を返してくれるのみだ。
目の前の海は穏やかな波で、この島を撫で続けている。繰り返される波の音。
たとえつらさを耐えていたのだとしても、二人とも今はもうやすらかに眠っている。どんな思いを抱えていたとしても、人は寿命が来ればこの世から消えてしまう。生前関わりのあった人々を少しだけ悲しくさせて、本人は永遠に消滅してしまった。
もう二度と会うことも、問いかけることもできない。
今もどこかにいる気がしているのに、いくら探しても、どこにもいない。
何気なく、白くそびえる灯台を見上げた。
子供の頃に見たのと変わらぬ姿で、灯台は立ち続けている。人よりも少しばかり寿命が長い。
けれど、この古びた灯台もいつかは崩れてしまうだろう。
しかし灯台は感情を持っていないから、苦しむことも悲しむこともないのかもしれない。悲しいと思うのは灯台を見る人だけで……。
いや、その人すらも、もはや自分以外の人は、この灯台の存在すら忘れ去っている。
誰にも知られることなく、少しずつ灯台は滅びてゆく……人と同じように。
人もまた気づかぬほど少しずつ死へと向かう。永遠の安らぎへと。
悩み続けている今から、永遠の安らぎが待つその日へ。
そう考えたら、ほんの少しだけ心の奥が軽く感じた。目に見えないほど少しずつ、わたしはつらさから遠ざかっているのだと。




