8.禁足地(及び悪魔が「宇宙の理」と呼ぶものについて)②
カフェ・ベルメールでは、常連客が悪魔どもを相手に怪談を語っていた。
怖がる悪魔ども。
銀行での両替を頼まれたカイムは、怯えながら店を出る。
(あら、①はシリアスな感じだったのに、冒頭からなんなのこれ……間違ってエピソードを開いたのかしら……)
奥様、大丈夫! 合ってます!
二千☓☓年。カフェ・ベルメール。
午後一時半、現在店内のお客は、「葉子さん」と店主が呼ぶ、六十代くらいの常連の女性だけである。最近の彼女の店での楽しみは、アルバイトをしている変な男の子と、突然店に居着くようになった正体不明の新しい常連に、自分が知っている怪談だの、伝承だのを語ることだった。
今日も彼女はカウンター席に座り、両隣の客と正面に立つアルバイト店員に、近所に伝わる怪談を語っていた。
「……あんたたち、このお店を出てすぐのところにある『帰らずの林』って分かるでしょ」
聞き手どもがうなずいたので、彼女は続けた。
「あそこの鳥居の前あたりの道に、悪霊だか霊だかが出るって知ってる? 他に誰もいない時を見計らって、そこを一人で通りすぎると、霊だか悪霊だかに背中をたたかれることがあるんだって。『おい』という声が聞こえることもあるわ。でもね、振り返っても誰もいないの。一度目と二度目は、呼ばれて振り返ってもいいけれど、三度目はだめよ。もし、三度目も振り返ったら、そこには悪霊だか霊だかの恐ろしい姿が……」
「えーこわいーやめてー」
たまりかねたゴモリーは叫んで横に身を乗り出し、自分の隣に座っていた語り手の口を手で塞いだ。
「もう、そんな話されたら、あの鳥居の前を通れなくなっちゃうじゃないですか」
葉子のもう片方の隣に座っていたクロセルも同調した。
一方、カウンターの向こう側に立っていたアルバイトのカイムは、腕を組んでしばらく考えた後、質問をした。
「……しかし……おまえがいう『悪霊だか霊だか』って一体なんだ……そいつらを言い換えると何になる……」
葉子は、ゴモリーの手をどけつつ、答えを考えた。
「……そおねえ……悪霊っていうのは……まあ、悪魔のことじゃないの」
「え……悪魔……?」
ゴモリーは理解しかねるようにつぶやいた。
「やはりな」
「それはつまり……私たちのことですね……」
クロセルはゴモリーに言い聞かせるように確認した。
カイムは力強く目を見開いた。
「なら……怖くないな!」
「うん、こわくなくなった」
「はい、怖くないですね」
クロセルとゴモリーは、同時にティーカップを手に取ってお茶をすすった。
「……そうなのかい?」
葉子は、急に落ち着いた聞き手どもを見回した後、続けた。
「……それでね、その、悪霊だか霊だかの恐ろしい姿を一度でも見た者は……」
他の二人が黙ってうなずく中、何かを思い出したカイムが声を上げた。
「待て待て! まだ解決していないじゃないか! おまえが言う『悪霊だか霊だか』の『霊』の方は一体なんだ! 言い換えると何になるんだ!」
葉子はまた少し考えた。
「そおねえ……霊っていうのは……まあ、死んだ人間が化けたものじゃない」
聞き手の三名は、一斉に顔を見合わせた。
「じゃあ、怖いじゃないか!」
「うん、こわい!」
「そうだそうだ、怖いですよ!」
「そうなのかい?」
葉子は気にせず続けた。
「とにかくあの鳥居には、悪霊だか霊だかが取り憑いていて……」
「おい、悪霊なのか、霊なのかはっきりしてくれ!」
「そうだ、そうだ、悪霊なのか霊なのかはっきりしてほしい!」
「一番重要なところじゃないですか」
人間の女性は、両隣の聞き手の背中に手を当て、なだめた。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。あんたたちがいい子なら、悪霊だか霊だかだって……」
「いいから悪霊なのか、霊なのかはっきりしてくれ……」
一人だけ、直接触ってなだめてもらえなかったカイムは、声を上げた。他の二人も続いた。
「そうだ、そうだ、悪霊なのか、霊なのかはっきりしてほしい」
「それがはっきりするまでは、一歩も話を進めさせませんよ!」
こうして盛り上がる話の途中、店長の水屋建水がアルバイトに声をかけた。
「ねえ、カイム、ちょっと銀行に行って両替してきてくれない?」
「なんだって!」
カイムはまた、大きな声を出した。
「銀行に行くには『帰らずの林』の鳥居の前を通らなくてはならないじゃないか!」
「怖いなら、光速移動で通りすぎればいいでしょ」
「霊とやらが光速で追いかけてきたらどうするんだ!」
葉子は、左手でなだめるような手招きの仕草をしつつ、アルバイトに声をかけた。
「大丈夫、大丈夫。あんたがいい子なら『帰らずの林』に住んでいる神様が守ってくれるからね」
「神様! よりによって、我々が一番当てにできない上に、なんならより強敵まで登場してるじゃないか!」
*
あいつが亡くなって数千年だか、数百年だか経った。現在も、俺の状況はほとんど変わっていない。一方、人間の俺に対する態度は、少しずつ変化していった。何度か、役人らしき人間どもがここを訪れ、この御堂を壊し、土地の開発を進める話をした。俺にとっては、封印を解いてもらえる、またとない機会だったので、最初の内は、身を潜めてうかがっていた。
しかし、開発の話が出る度に、反対運動が持ち上がった。反対運動の旗手は、あいつの曾孫か玄孫かその次かだった。彼は、昔から伝わる俺に関する伝説と、地元の人間の俺への恐れ、やがてその恐れが信仰へと変化していった経緯を主張した。そして自分の曾祖母だか、高祖母だか、その上だかがいかにお参りしていたかを語った。
あいつの名を出されて、俺は反対派に汲みするしかなくなった。それ以降、俺は開発推進側の人間が視察に来る度に、一人を残して、全員呪い殺した。やがて、この地を開発する話は、全くなくなった。どうやらあえて生かしたまま帰した人間が、この御堂の「祟り」について、まんまと噂を広めてくれたらしかった。
現在、俺はわだかまりを残さず封印を解く方法を探りつつ、数名の定期参拝者を抱えながら、比較的心安らかに生きている。
この間に発見もあった。内側の壁の隅に二つの印章を見つけたのである。ナベリウスとマルファスのものだった。共同制作者として銘を刻んだらしかった。長い間、悪魔をこんなに完璧に封印できる建物を、どうやって人間が作ったのか謎だった。悪魔自身が作ったものだったのなら、納得できる。それが人間の手に渡った経緯は、疑問として残るが……。
悪魔といえば、ここのところオルロフの連中が、鳥居の前の道をよく通り過ぎるようになった。近所にソロモンの指輪の持ち主でも現れたのだろうか。これは俺にとって助けを呼ぶまたとないチャンスだ。俺が閉じ込められて以来、悪魔が俺の見える範囲を通り過ぎるのは、俺の体感では数百年に一回。来る度に、俺は助けを求めて叫んだり、呪いで背中に物を投げたりしたが、全く気づいてもらえなかった。それが今、あいつらは数日おきに通り過ぎる。チャンスがそれだけ多くなるってわけだ。
あっ、今日もさっそくカイムが来た……なんであいつ、あんなにびくつきながら歩いてるんだ……声を上げてみよう。
「おい、カイム!」
……お、立ち止まった……気づいたのか……あれ、動かないな……なんか白目むいてる……また歩き出した……気づいていないのか……今度は足元にカエルの死骸でも投げてみるか……ほれ……お、見てる、見てる……だからなんで白目むくんだよ。道端で現実逃避してるんじゃないよ。
俺が背中に小石をぶん投げると、やつは痙攣を起こしたように、自分の身長よりも高く飛び上がり、光速で去った。クソが!
*
カフェ・ベルメール。
「おかえり」
「はあ……はあ……」
カイムは小銭が入った巾着をマスターに渡すと、息を切らせながら空いている客席に倒れるように座った。
「そんなに、急がなくてもよかったのに」
「……霊に……背後から攻撃された……」
カウンターにいたクロセルが口をはさんだ。
「そんなことより私が頼んだ、たこ焼き買ってきてくれましたか」
カイムは黙って、テーブルの上の買い物袋を指した。
「ちょっと、ニオイのあるものを店内で食べないでよ。二階で食べるか、公園かどこかに行くかしてよ」
「お客はもういないんだから、いいじゃないですか」
クロセルはたこ焼きを袋から出すと、一つを爪楊枝に差して空中にかざした。すると、ちょうどその場所にフォルカスが姿を現し、一口で丸ごと口に入れた。彼は、たこ焼きのあまりの熱さに、うめき声を上げた。
「アッチャー」
その様子を確認したクロセルは、マスターを振り返った。
「そういうわけで建水さん、アイスティーをください」
建水は、のたうち回る老人の姿の悪魔を見た。
「フォルカスさん、あなた、たこ焼きのためだけにわざわざ地獄から来たんですか……」
一方、ようやく落ち着いたカイムは店内を見回した。
「あの常連客は、私達を怖がらせるだけ怖がらせて、もう帰ったのか」
建水は冷蔵庫を開けながら、答えた。
「葉子さんでしょ。もう帰ったよ。頭痛がするっていうから、ゴモリーさんが送ってった」




