7.天使降臨④
天使降臨の最終話。
玻璃が、黄緑色の優しい水色のお茶に口をつけた頃、入り口が勢いよく開いた。女性もののパーカーを着た左右の目の色の違う黒髪の男の子である。彼はマスターを見るなり、真っ白な顔でその場に膝をついた。
「……おまえ……なぜここに……私が分かるか……」
店の入り口で完全に脱力してしまった男の子を見て、マスターは慌ててカウンターを出た。
「……君、どうしたの……具合悪いのかな……」
建水は、彼に手を貸して立たせてあげた。黒髪の男の子は、マスターの自分への反応を見て、顔を逸らすと震えながら歯を食いしばった。本日二人目の天使に気づいた店員の悪魔は、少し驚いて声をかけながら彼に近づいた。
「おい、レミエルじゃないか……久しぶりだなあ。彼は私の召喚者だ……驚いただろう。おまえの前回の召喚者にそっくりだよなあ……」
どうにか立ち上がった天使は、悪魔を睨むと、一瞬の内にどこからともなく弓と矢を出現させ、悪魔に向かって射た。悪魔は、素早く胸ポケットの懐中時計を日本刀に変え、鞘で矢を叩き落とした。天使は、無表情のまま、躊躇することなく矢を何十本も連射した。悪魔は余裕そうに鞘を放って、片手で握った日本刀で矢を半分叩き落とした。しかし、四分の一は後ろのトイレのドアに刺さり、残り四分の一は自分に刺さった。
「……大丈夫?」
マスターは店内で的になったアルバイトにつぶやいた。クロセルは、それに応じてささやいた。
「大丈夫です。悪魔は基本不死身ですし、あれくらいの傷なら数分で塞がります」
「でもあいつ……十本は刺さってるよ」
その時、入り口で声がした。
「レミエルやめなさい」
日傘を取りに戻った、ハニエルである。彼女の声に驚いた喧嘩中の二人は、手を止めた。
「人間の世界で、悪魔に手を出すのはご法度です。言葉責めだけにしなさい。これからは人間に危害がないように、私がこのカフェにちょくちょく来店して、見張りますからね」
クロセルは、ハニエルの言葉で憩いの場が危機に直面していることを察し、恐る恐る抵抗した。
「……お気遣い頂かなくても、こちらはこちらで何とかするので、わざわざいらっしゃらなくても大丈夫ですよ」
「うるさい。全然何とかなってないじゃないのよ」
ハニエルは、身体中に矢が刺さった悪魔を指した。
「あ、義姉さん」
ことの成り行きを呆然と見守っていた玻璃は、急に現れた顔見知りに、思わず呼びかけた。
「まあ、玻璃さん……ひょっとしてあなたがレミエルの召喚者?」
「はあ……」
「天使を呼び出すなんて、さすが腐っても白金家の一族だわ」
「……腐っても……」
「レミエルをよろしくね」
「はあ」
ハニエルが帰り、店に落ち着きが戻ると男の子の天使は、自分の召喚者の向かいに腰を下ろし、泣きながらパンケーキを口に詰めた。
「……美味しい?」
天使は呻き声を発しながら、頷いた。
カイムは、そんな彼のところに行って何か話しかけようとしたが、やめて静かにカウンターの奥に引っ込んだ。そしてマスターの横に立った。
「……洗い物……まだあるか……」
「いいから、おまえは身体に刺さったままの矢をどうにかしろ……全部の刺さってる所から血が出てるぞ……」
常連客と男の子が帰った後、フォルカスはトイレの扉に刺さった矢を抜き、残ってしまった穴を、入れ歯安定剤(注4)で埋めようとした。建水はそんな彼を諌めつつ、昨日、作り置いたスコーンラスクが入ったガラスの瓶と、アルバイトのおやつ皿を棚から出した。
「ねえ、あのレミエルって子、なんでお前に、あんなに怒ってるの?」
マスターは自分の横にしゃがんで、抜き終わった矢(注5)を矢尻と木製のシャフトに分解して、金属と燃えるゴミに分別しているアルバイトに声をかけた。
「いや、それが全然分からない……百年前に会った時なんて、どちらかと言ったら私が面倒見てやってたんだがなあ……あの頃、あいつは召喚者と、仲良さそうで羨ましかったなあ……だが今は、私にはおまえがいるからな」
少年の悪魔が優しい笑顔を見せたので、召喚者は感情のやり場に困って、静かにため息をついた。
クロセルはいつの間にか、コンロに置いてあったカイムの小鍋から、チャーハンのスープを自分のカップに注いでいた。
「……これ、すごい美味しいんですけど」
「よし、しばらく紅茶を頼んだお客にサービスとして出そう」
「ややこしいことすんな……」
マスターは賄い用のお茶を用意しつつ、付け加えた。
「……でも……まあ……今日の夕飯はチャーハンな……」
「……建水さんも、スープの香りに釣られてるじゃないですか」
「おい、その鍋の蓋を開けっ放しにするな。においが店に充満するだろ。この店で紅茶の香りを殺していいのは、ランチメニューのカレーだけだ。おまえらの朝の表にも書いとけ」
注
4 入れ歯安定剤
入れ歯安定剤とは、口内に入れ歯を固定するための薬剤である。主に、クリームタイプ、パウダータイプ、シートタイプ、クッションタイプの四種類がある。
5 抜き終わった矢
クロセルのセリフからもわかるように、カイムの傷口はこの時すでにほぼ塞がっている。
基本的に不死身な悪魔たちは、四肢が切断されても、首を切られても死なない。
身体が分断された場合は、切断面をくっつけて自然と接着するのを待つのが、一般的な治療法である。しかし手足の紛失などで接着できない場合は、丸六日後に紛失した手足が、その場で風化し無くなり、新しい手足が胴体に構成される。
切断されたのが首だった場合も同様である。その場合、自意識としては「首だけになった」あと、身体が見つからずに六日間過ぎると、急に眠くなって意識を失い、身体がある場所で目が覚めるといった具合になっている。
手足とは違い、首の場合には以下の疑問が起こる。それは、何かの間違いで、身体に新しい首が出現したにも関わらず、切られた首が風化せずに残ったらどうなるのかという疑問である。
本作は基本的に、自己同一性については「それぞれが信じたいように信じるしかない」という立場を取っている。
つまりこの場合には、切られた首と新しく出現した首との間で、一つの悪魔の名を巡って骨肉の争いが繰り広げられるであろうが、それはそれで仕方がないという立場である。
将来、自分の呼び出した悪魔が、二つの首になってしまい、「どちらが本物かあなたが決めてほしい」などと言われた時のために、備えておきたい皆様の中には「どちらが元と同じ魂を有する、私の悪魔なのかを判断するための印は、どこかにないのか」などとおっしゃる方がいらっしゃるかもしれない。しかし残念ながら、魂の同一性のようなものを証明する術はどこにもない。
例えば「本物の魂を持つ首には、印として頬に独特の痣が浮かび上がる」としよう。しかし、そもそも肉体とは別物であるはずの魂が、根拠無く、身体的特徴を拠り所として、区別されるというのはおかしな話である。
また「◯◯の記憶がある首こそが、本物の魂を持つ」としよう。しかし、記憶の有無が魂の同一性の証拠になるとすれば、忘れっぽくなっただけで、魂も入れ替わることになる。
つまり二つの首の、身体の差も記憶の差も、魂の同一性の決定的な証拠にはなり得ない。自分が本物だと主張する二つの首は、どちらかが嘘をついているわけでも間違っているわけでもないのである。
あなたは確固たる意志で、自分が信じたい方の首を「あなたが私の悪魔だ」と断言すればよい。そうすれば、選ばれた首は、あなたとのこれまでの物語の続きを、何の問題もなく紡ぎ始めるだろう。おそらくその瞬間、選ばれなかった首とあなたとの間に新しい物語が発生するだろうが、それはそれである。
しかし、そもそも悪魔の数万年を超える歴史において、切られた首と新しい首が同時に出現した例は一度もないので、安心されたい。




