7.天使降臨③
カフェに入店した玻璃の葛藤。
白金玻璃の自宅マンション。
レミエルの召喚者は、上着に袖を通して出かける準備をした。
「私、もう一度カフェに行って様子を見てくる」
彼女は、とりあえず自分のパーカーと、黒いカラージーンズを着せた自分の天使に、履けそうなサンダルを出してやった。
「私は行く気はない。万が一あいつがいたらやだ」
天使は、腕を組んで拒否した。
「えー、『あいつ』って昨日話してた、悪魔の男の子でしょ? 何があったのか知らないけど、別にいいじゃん。心細いから一緒に来てよー。君が好きな物、何でも頼んでいいからさー。パウンドケーキとシフォンケーキが美味しいよ」
顔を背けたまま、返事はない。
「確か、パンケーキもあったはず……」
それを聞くと男の子は、玄関に腰を下ろして足を出した。「履かせろ」という合図である。
「……しょうがない……召喚者の保護も私の役目だからな」
マンションを出た二人は、手を繋いでしばらく歩いた。店が近づいてくると、レミエルは召喚者の手を強く握って立ち止まった。
「……あの喫茶店か」
「そうだよ」
彼は目を閉じた。千里眼で店内を確認しているようである。すぐに何かに気づいた天使は、眉をひそめて目を開け、握っていた手を離した。
「……やっぱり、私はここで待つ」
「えー、パンケーキいらないの」
「……じゃあ、お前が先に店に入って注文しろ。注文が到着して、店員が完全に離れた後、私も行く」
「しょうがないなあ」
カフェ・ベルメール店内。
お客が途切れた時間を利用して、マスターは切らした生クリームを買いに店を出ていた。現在店にいるのは、悪魔だけである。
「カイムさんが、生クリームを盛り付けすぎるからですよ」
「嫌がらせのつもりだったんだが……あいつ……全部食べるとはな。チャーハンのスープも、結局おかわりしてたしな」
「ハニエルさん、日傘忘れていきましたね」
「……じゃあ、あいつまた来るのかあ……」
「心配するこたあねえ。そんな傘、じいちゃんが今すぐ、土に返してきてやる」
「お客のものを、勝手に土に返したら、建水さんに怒られますよ……」
入口の扉を押した玻璃は、恐る恐るカウンターの内側に目をやった。それから、店全体を見渡した。マスターの姿はない。カウンター席に座っている数名の派手な客と、アルバイトらしき店員の男の子だけである。
胸に手を当てて一息つくと、店員の声がした。
「空いてる好きな席に座るといい」
一番カウンターから遠い窓際の席につくと同時に、目の前にお冷が置かれた。
「注文は何だ」
「……紅茶二つ、一つミルク入りで……あと本日のパウンドケーキとパンケーキ……」
しかし店員は、注文を聞いても、伝票にあてたペンを動かさずに、お客を見下ろした。
「……おい、紅茶を注文するのは、いい心がけだが、ここは専門店だ。そこにあるリストを見ろ。紅茶と言っても、主にインド、スリランカ産の定番のお茶から、収穫時期、さらには農園を限定した季節ごとのお茶まで、二十種類以上ある。またミルクティーも、鍋で牛乳を煮出すロイヤルミルクティーと普通のミルクティーがあり、普通のミルクティーの場合は、お茶っ葉も選ばなきゃならないんだ」
「……いつも紅茶って言うだけで、出てきたけど……」
「……数週間前、顔に傷がある鋭い目付きの見慣れない客が来たことがあった。その人は席につくなり『紅茶』と言ったきり黙った。マスターがメニューの説明をしようとすると、刺青の入った腕で競馬新聞を持ち、顔も上げずに『ああ?』と唸った。全てを察したマスターは、黙って一番安いオリジナルブレンドを出した。
……また、来店してから帰るまで目が合う度にずっと、自分のへそのごまが宇宙人に狙われていると訴え続ける客にも、やっぱり何も聞かずにオリジナルブレンドを出していた。
おまえは、彼らと同じ種類の客なのか?」
「……違うと思いたい……」
「とりあえず、注文はオリジナルブレンドとロイヤルミルクティーにしとくか」
「……今の話しを聞いて、自信なくなってきた……意識し出してから、半年に一回しか来られなくなったし、来たときもほとんど目を合わせらんないから、私のこと、毎回毎回、話が通じない一見客だと思ってるのかな……小さい頃は、家族でよくこの店に来てたんだけどな……」
「おまえ、建水に自分を違う風に見てほしいのか……」
「……うん……」
「それなら本人に直接言えばいいのに……私なんて、好きな人には、すぐ好きだって言うぞ……許される雰囲気の時だけだが……」
「……そうなんだ……」
「だいたい毎回、最初は嫌われるがな」
「……やだ、嫌われたくない……」
「諦めるな。一生かければ、友達ぐらいにはなれることもある」
「やだやだ、恋人になりたい……」
「それは三千年に一度の奇跡だ」
「……落ち込むなあ……でも、頑張る……とりあえず、この店で、い、一番高い紅茶を注文する……」
「……なるほど……好きな男を金で買う作戦か……」
「とりあえず、この店の最優良顧客を目指す!」
「現在一番高いのは、ハッピーマウンテン農園ダージリンファーストフラッシュの限定生産茶で千五百円だがそれでいいか」
「いいよ……」
「まあ、千五百円で好きな男が買えれば安いもんだなあ。ちなみに私を金で買いたければ、一晩ごとに最低……」
「いや、君は買わないから、その情報はいい……」
店員が去った後、玻璃はテーブルの木目を見つめながら、入り口の音に聞き耳を立てつつ待った。マスターがいつ帰ってくるのか気になったが、扉から入ってくる彼を直視する勇気がなかったからである。緊張で口が乾いたので、お冷を取ろうとすると横に誰か立った。恐る恐る見上げると、先ほどの店員である。ほっとすると同時に、少し苛立った声が出た。
「今度は何?」
「建水が戻ってくる前に、モノは相談なのだが、おまえが先ほど注文したパウンドケーキ、今からでもスコーンセットに変える気はないか」
「……いやだよ……嫌いじゃないけど、今の気分じゃない……スコーンて、口が乾くし……」
「……そうか……このままいくとまた売れ残って、その口が乾くスコーンをオーブンで焼いて、さらに水分を飛ばした、スコーンラスクが、またしても私のおやつになってしまう……口中の水分が全部持ってかれるんだ……」
「……知らないよ……」
「どうせこの店じゃ、他のケーキよりも注文数が少ないんだから、建水も作る量を減らせばいいのになあ。でも彼が言うには、紅茶専門店で、スコーンがメインじゃないなんてありえないそうだ。いつかわかってくれる客が現れるまで、推し続けるって言い張ってる。スコーンを頼む客は、建水にとって、特別なお客なんだろうなあ……」
「……分かった……頼むよ……スコーン頼む……」
「そうか、よく決心してくれた」
数分後。
「スコーンのジャムなんですけど、ストロベリーとアプリコットとマーマーレード、どれにしますか」
度々の質問にうんざりしていたお客は、テーブルに突っ伏して現実逃避したまま、思わず強い口調で答えた。
「うるさい、もう何でもいいから好きにしてよ」
「……すいません」
顔を上げるとこの一ヶ月、夢の中でしか会えていなかったマスターが立っていた。どうやら彼女が外界の情報を遮断している間に帰ってきたようである。
彼の後ろ姿を見送ってから、彼女は再び突っ伏した。
――あーあ、台無しだわ。千五百円のお茶なんか全て帳消しになるほどの失態だわ……今すぐこの場で、小一時間ほど、異次元空間に閉じこもりたい。
異次元空間に行くことが叶わないお客は、せめて空想の世界に逃避しようと、覚束ない足取りで本棚に向かい、よく確認もせず適当な本を取って席に戻った。
カウンター奥では、店員の悪魔が、腕を組んでお盆を頭に乗せ、そんな彼女を見守っていた。
「……あの女、紅茶を待ちながら『世界の拷問器具』を読み出した……どういうアピールの仕方なんだろうな……」
「アピールって何だよ。お前が買ったんだろ……なんでちょっと引いてるんだよ……」
玻璃は開いた本で顔を隠し、文字と写真に集中しようと努めた。しかし「中世の魔女裁判における『吊るし刑』の歴史と、拷問の最中に暴力の痕を残さず脱臼させる方法」の解説が、彼女の脳内に刺激を与えることは無かった。
結局、本には集中できなかった彼女の思考は、次第にずっと気になっていたことにうつった。
――……あの店員の男の子……悪魔だよなあ……カウンターに座ってるやつらも絶対あやしい……店員のあの子の左目……イエローダイヤモンドだな……カナリーイエローの最高品質。ラウンドブリリアントカットなら六カラットくらいの直径もある、高品質ダイヤをカボションカット(注2)にするなんて珍しい……悪魔的発想……あれがレミエルが言ってた悪魔なのかな……あのダイヤ、もうちょっと見たい……。
彼女がそっと本から目をのぞかせると、店員の目と合った。
「……あの女、やっぱり私を買いたくなったのかなあ。まあ、金次第では、考えてやってもいいが……あの調子だと、好きな男とそういう関係になるまで本当に三千年かかりそうだからなあ、なんでもいいから身代わりが欲しいんだろう……あとは事情を知った建水がどう思うかだな」
「……全部聞いてるよ。おい、絶対、この店のお客相手に、いかがわしい商売を始めるなよ……」
マスターは紅茶が並んでいる棚の一番端から、白い陶器製のキャニスターを取り、銀色の新芽がたくさん入った緑の若いフルリーフの葉をすくって量りに乗せた。
「それにしても、玻璃さんがオリジナルブレンド以外を注文するなんて、珍しいね。彼女が『紅茶』って言ったら、小さい頃からずっと、オリジナルブレンドだからね。あれは、安くても美味しいセイロンの中低地栽培のお茶(注3)を組み合わせて、レモンにもミルクにも合って、誰でも飲みやすいように、俺の父親が作ったレシピを引き継いでるやつだから、気に入ってもらえると嬉しいよね……ジャム、全種類少しずつ出してあげよ」
やがて、店員は調理台に並んだ注文品をお盆に乗せ、客のテーブルに運んだ。
玻璃の向かいの空席にパンケーキを並べた後、悪魔は最後に伝票を置いた。
「……注文は以上だな」
「うん」
悪魔は去る前に、黄と青の目を潤ませて、お客を見つめた。
「……おまえは無理せず、そのまま自分を信じて『紅茶』を注文し続けろ……」
「……はあ……」
注
2 カボションカット
カボションカットとは、上部を球面に仕上げる宝石のカットのことである。ダイヤモンドは通常、ラウンドブリリアントカットに代表されるような、多数の切子面を組み合わせたファセットカットに仕上げ、その高い光の屈折率や分散率からくる輝きを楽しむのが一般的である。
3 セイロンの中低地栽培のお茶
スリランカ産のお茶を意味するセイロンティーには、高地産、中地産、低地産がある。世界三代紅茶の一つのである、ウバに代表される高地産に比べ、低地産は生産量も多く、安価で入手できる。また、力強い味わいでミルクティーにも向いている。




