7.天使降臨②
責任を感じた玻璃は、自ら悪魔召喚を行う。しかし出てきたのは天使だった。
一方、カフェにも別の天使が現れる。
自称家業手伝いの宝石店の娘、白金玻璃が実家の会社が仕入れたペアデザインと思われるアンティークリングを二つ手に入れたのは、ちょうど三ヶ月前である。彼女はその片方に、古くからの知り合いである水屋建水の名前を彫ってプレゼントする計画をたてたのだった。しかし、いざ指輪を持ってカフェに行ったものの、結局渡す勇気が出ず、店の紙ナフキン入れの中に落とし、帰宅した。そのまま、成り行きに任せることにしたのだ。それが一ヶ月前のこと。
そして今日まで、その後どうなったかの確認を怠ってきた。
――捨てられちゃったかもとか、警察に届けられちゃったかもとは考えた……しかし……悪魔召喚……そうですか……
リビングの壁一面を埋めている、アンティーク風の棚の引き出しを開ける。もはや何のためのものか分からないコード類や、期限の分からないクーポン券などに埋もれて、赤い指輪ケースが見える。持ち主は蓋を開けると、指輪を取り、あらためてそれを眺めた。金でできた年代物の指輪で、五芒星の彫刻を押すと、ひっくり返って青色の宝石が現れる仕掛けがついている。裏側には、自ら注文して刻んだ自分の名。彼女は、先ほどカフェ・ベルメールで出会った悪魔が語っていた、指輪を使った悪魔の召喚方法を心の中で復唱した。
――建水さんに悪魔が取り憑いたのは、私の責任だ……彼だけに不幸を背負わせるわけにはいかない……
震える手で左薬指に刺す。間髪を入れずに、後ろで声がした。
「喜ぶがいい。いるだけで尊い私がここに現れたからには、おまえの人生は幸福が約束されたも同然だ。私の名はレミエル。天使の一人だ。今後おまえは、私を敬い奉ることだけを考えて生きていけばよい。簡単なことだ」
振り返ると男の子である。黒髪で、白い平安貴族のような着物を着ており、左目は黄色で右目は青。左耳に真珠の指輪を、ピアスがわりにつけていた。召喚者は呆然と、男の子を見た。
「……悪魔じゃないの……」
「失礼にもほどがあるな、どこをどう見たって天使だろう。ところで私はおまえが死ぬまで帰れない。衣食住の面倒は頼むぞ」
玻璃は、天使をあらためて眺めた。
「それは別にいいけど……可愛いのが出てきた……」
「……いやにあっさり承諾したな」
「……うん、お兄ちゃんも似たようなの飼ってるから……」
「どういうことだ」
「……お兄ちゃんが一人暮らし始めた頃から、いつも後ろに女の子を従えて歩くようになったの。君みたいに、背中の白い羽を出したり引っ込めたりする子……お兄ちゃんが飼ってるあの子も、確か自分で天使って言ってた気がする……私も飼っても、両親に怒られないと思う」
「……『飼う』っていう表現はやめろ。なんていう名前だ」
「ハニエル?」
「……ハニエルかあ……」
天使は、しばらく遠い目をした。そして、つい最近まで箸も満足に持てなかったくせに、召喚先の影響によって、ここ十年足らずで急に作法にうるさくなり、上品な趣味を主張し始めた同僚に思いを馳せた。それから、気を取り直して続けた。
「……まあ、それなら理解が早くていい……当然知ってるだろうが、私はおまえが、面倒を見てくれる代わりに、おまえが人生をかけて成し遂げたいことを、一緒に手伝ってやるためにここへ来た。さて、おまえは生を何に捧げるつもりだ」
急な質問に、召喚者はしばらく口を開けて相手を見ていたが、ようやく答えた。
「……ツナかな……」
「……まあ、いい。ところでおまえはいったいなぜ、この私を召喚したんだ。指輪で召喚したということは、ムイシキに願ったのではなく、自分の意志で私を呼び出しんたんだろう」
玻璃は、しばらくためらった後、ソファに腰を下ろして、自分の膝を見つめつつ事情を説明した。天使は仁王立ちで腕を組み、召喚者の告白を聞いた。
「……つまりおまえは、好きな男に悪魔を呼び出す指輪をあげてしまったというわけか……」
「……そうなの……今更、謝るに謝れないから、責任取って、私も悪魔に取り憑かれるか、切腹するかどっちかしかないと思った……そしたら天使が出てきた……もう切腹しかないのかな……」
「早まる前に、他の責任の取り方を考えろ……何かないのか……」
天使の召喚者は、急に顔を赤くした。
「……それが……一個思いついたのよ……」
「なんだ」
「いや、でも恥ずかしいな……」
「さっさと言え」
玻璃は下を向いて、両手の人差し指を合わせた。
「……私も一緒に、建水さんの悪魔に取り憑かれれば責任取ったことになるかなって……つまり……結婚して一緒に生活すれば……」
天使はため息をついた。
「……確かに、私がついていれば悪魔を従わせることぐらい容易いが……ところでおまえがその喫茶店においてきた、指輪にはどんな色の石が入っていた」
「デマントイドガーネット(注1)だよ。ツァボライトじゃない。ホーステイルインクルージョンがあったから間違いない」
「さっさと何色か答えろ」
「グリーンガーネットなんだから、緑に決まってるじゃん」
「何だって……」
天使は急に顔を白くして、落ちるように腰を落とした。そして、耳に手をやって真珠の指輪を触り激しく呼吸しながら、ようやく言葉を続けた。
「……最悪だ……その男は、最悪の悪魔に取り憑かれている……私としては、そんな死ぬまで救われない男は、諦めて欲しいと言いたい……だが、おまえの生きる道が、その男と結ばれて家庭を築くことなら、私はそれを手伝わなくてはならない……タダでさえこれから、ハニエルと親戚付き合いしなきゃならないのに……」
翌日、カフェベルメール、開店直後。
「もう、情報が錯綜してて、何が何だか分からなくなってるんですけど。結局ペットショップに売ってる魚類は、活き造りにしても問題ないんでしたっけ?」
カウンターに座ったクロセルは、首を突き出してノートパソコンをのぞきながらキーボードをたたいた。
カイムは、コンロにかけた自分の小さい鍋に入った茶色い液体を混ぜながら、遠い目をした。
「……もう、最低限守ってればあとは各自の判断でいいんじゃないか……」
「何、理解を諦めてるんだよ。迷ったら俺に相談しろ」
その横でカレーの寸胴鍋を混ぜているゴモリーを、腕を組んで監督しているマスターが口を挟んだ。女性悪魔はおたまを持っていない方の手で、胸元から小瓶を二つ出した。
「建水さん、カレーにお家から持ってきた何だかよくわからない秘薬を混ぜてもいいですか」
「ダメです」
「じゃあ、ただの甲子園の砂ならいいですか」
「ダメです……どこから持ってきたんですか」
クロセルの横に座っていたフォルカスは、仮で作った表を印刷したものを、顔に近づけたり遠ざけたりして眺めていた。
「何だかややこしいのう……こんなに覚えられたら、この国の司法試験だって受かりそうじゃ……」
「いや、受かるわけないでしょ。どんだけ日本社会をナメてるんですか」
「建水さん、私、カレーに飽きたから、帰っていいですか。朝ごはん食べたし」
「別にいいですけど……ゴモリーさん、スパイスラックにこっそり謎の秘薬と甲子園の砂を置いてかないでください……そういえば、あの黒豹どこ行った」
「オセならさっき、散歩に出かけましたよ。今朝、幻覚作用のあるフェロモン的なやつを抑える薬を飲ませたから、前みたいな問題は起こさないと思います。一日中、人の姿のまま、塀の隙間とか縁の下とか狭いところをうろうろし続けてるんじゃないでしょうか」
「……それはそれで不審者じゃん……」
ゴモリーが帰り、しばらくしてドアベルの揺れる音がした。
「こんにちは、お届け物です」
マスターが配達員から受け取って開封すると、梱包材に包まれた本が二冊入っていた。
「……カイム、俺はカフェの本棚に置くための本を、注文しろと言ったよなあ」
「ああ、記憶している」
少年の悪魔は、茶色の液体を味見しながら答えた。
「それで『美しい宝石図鑑』は、まあわかるよ。なんだよ『世界の拷問器具』って。お茶飲みながら読みたいもんじゃないだろ」
再びドアベルが揺れる音。振り返ると、白いワンピースを着て、日傘を持った金髪の少女である。
「いらっしゃーい。お久しぶりですね」
マスターは、新しい本を棚に入れていた手を止めて、振り返った。
銀のお盆を手に、素早く入り口に立ったカイムは、少女を見た途端、しばらく硬直したあと、踵を返した。
「ちょっと、私はトイレ行って来る」
「えー、ウォシュレットでお尻洗うの、一時間に一回までって言ったじゃん」
「……そこの悪魔、待ちなさい」
新客は、胸を反らして従業員を見下した。
店員姿の悪魔は、後ろを向いたまま舌打ちした。
「え、知り合いなの?」
「建水さん、私、天使なの。あなたが店員として使役し始めた、そこの小鳥の数億倍有能な存在なの。急な告白で驚かせたら、ごめんなさい。私が見るからに神々しいから、薄々気づいてたかしら」
「ああ、そうだったんですか……ハニエルさん……そういえば十年以上、あんまり成長なさってないですもんね……」
マスターは、あらためて顔見知りの客を見た。
「……今さら、誰が何でも驚かないです……」
少女は日傘を傘立てに置くと、真ん中のテーブル席に座って、腕と脚を組んだ。
「あんたが喫茶店の下僕になってたとは知らなかったわ。そこの小鳥、さっさと私にこの店で出せる一番高い紅茶を一番高級なカップに注いで、生クリームたっぷりのシフォンケーキと一緒に持ってきてちょうだい」
カイムは、客と目を合わせないように黙ってテーブルにお冷を置くと、光速移動でカウンター奥に引っ込んだ。
「言っておくけど、私が店に来てから存在感消そうと頑張ってるけど、カウンターに座ってるあんたたちにも気づいてるんだからね」
天使に睨まれたカウンターの悪魔たちは、この挑発には乗らず背を向けたまま「自分は岩である」という自己暗示を続けた。
しばらくしてから喫茶店の下僕は、山盛りになった生クリームに完全に埋もれたシフォンケーキと、ティーカップを客のテーブルに置いた。
天使は姿勢を正して、カップの持ち手を三本の指でつまむと、茶色に輝く水色を確かめ、香りを楽しんでから口をつけた。
「このコクと、動物的で強烈な香り……どこの農園の茶葉かしら」
「それは紅茶じゃない。チャーハンのスープだ」
悪魔のつぶやきが聞こえたので、天使は、音を立ててカップを置いた。
「作ったのは私だ……味の決め手は、市販の鶏ガラスープの素と化学調味料を惜しまず入れることだ」
カウンターのクロセルは自己暗示を解き、一部始終をカウンター越しに見守っていたマスターに耳打ちした。
「天使って、バカなんです」
「……そうなんだ……」
注
1 デマントイドガーネット
デマントイドガーネットは、ロシアのウラル山脈で発見された宝石である。高い光の分散率を持ち、輝きがダイヤモンドに似ていることからその名がついた。後にケニアで発見されたツァボライトとともに、グリーンガーネットの一種であるが、鉱物学上、二つは明確に区別される。デマントイドガーネットは、ホーステールインクルージョンと呼ばれる、繊維状の細かい結晶が内部に見られるのが特徴である。




