5.No demon,no life.(Because,he gives you death.)⑥
主人公と悪魔の再会。
喫茶店に入ると、銀髪の男の子はすでに来ていました。ソファ席に座り、砂糖壺を開けて中をのぞいてます。僕が宙を歩く気持ちで近寄り、息を詰まらせながら「あの……」と声を絞りだすと、彼は少し驚いてこちらを振り向きました。
「おまえがレミエルの召喚者か」
間違いない。この子だ。彼の顔を見て思いました。謎の分散光が人を拒絶するように鋭く光る黄色の左目と、遠くを見ているような少しうるんだ青色の右目。同じ色なのに、ただひたすら真っ直ぐで透き通っている、レミエルの目と全く違う。きれいな鼻筋。口を開けるとのぞく尖った犬歯。左耳にぶら下がっているクジャクの羽と、青い宝石、二つの耳飾り。この子が十年ほど前の地獄の元凶でありながら、僕の生のあり方を決定する一筋の光を与えてくれた張本人です。
あの時は気づきませんでしたが、右耳には、宝石でできた小さい耳飾りがぎっしりついていました。
僕がどうにかうなずくと、彼は立ち上がって手を差し出しました。
「私の名はカイムだ」
僕はどうしていいかわからずいつの間にか、青白い子供の手を無視して彼の向かいのソファに腰を下ろしてしまいました。
男の子は気まずそうな寂しそうな顔をしましたが、すぐに気を取り直して自分も座り、落ち着いてからまた口を開きました。
「あいつから紹介があったと思うが、私は悪魔だ。だが身構える必要はないぞ。論文を添削した見返りだといって、私はおまえの魂……そんなものがこの世に存在すればだが……も取らないし、寿命も縮めないし、地獄に導いたりもしないからな……そのかわり……」
そしてちょっと考えたあと、そっと僕の顔色を伺うように見上げました。目が合った瞬間に訪れた緊張。しかし彼はすぐに、恥ずかしそうにゆっくり逸らしてささやきました。
「そのかわり、おまえにここの支払いをしてもらう、というのはどうだろう」
急な脱力感が、僕を襲いました。
「……もちろんいいですけれど……」
ひょっとしたら彼は僕のことを覚えているかもしれない、という期待と懸念は完全に払拭されてしまいました。
悪魔は安心したように、一息ついて姿勢を正しました。それから、また僕の顔色をうかがいました。
「……私はホットケーキが食べたいのだが……」
天使や悪魔は、みんな甘党なんでしょうか。
「どうぞ、好きなものを注文してください」
こうしてあらためてみると彼は、レミエルとそんなに変わらないように見えます。妙な艶っぽさはあるものの、再び砂糖壺を開けて、真っ白くきらきらしている砂糖の様子に見とれている姿は、天使よりもむしろ繊細で優しげでした。
彼が僕に返却してきた論文には、赤字でびっしりと書き込みがしてありました。疑問点や、アドバイスだけでなく、誤字脱字まで直してあります。
「読み物として、とても面白かった。しかしこれだけでは、証明は完璧とは言い難いし、意地悪な読者に簡単に隙をつかれてしまうだろう。おまえは、論文の中の仮想論敵に対して、都合が悪くなるとすぐに、この世界は夢だ、夢の中の理性などあてにならないということを持ちだして封じ込めようとするが、これは当然おまえ自身にも当てはまることではないのか。だがおまえは、自分だけはいつも、夢の中にいながら、覚めている世界にいる恋人と繋がっているかのようだ。そいつは、おまえにだけ本当のことを教えてくれるらしい。
これはおまえの信仰でしかない。これをほかの人に納得させるには、おまえの秘密を全部暴露して、読者をおまえの信仰に引き込むという力技しかあるまいな。そうじゃなかったら、その恋人と縁を切るか……」
それから彼は、楽しそうに、自分が読んできた本などと僕の論文を絡めて論じはじめました。僕はだんだん、大学の老先生の長話につきあっているような気分になってきました。
「……ところで、おまえはデカルトの『省察』は読んだことはあるか」
彼はきちんとした作法で、ホットケーキにナイフを入れました。
「英訳で一度だけ……」
「なら是非、もう一度ちゃんと読み直してみろ。できたらラテン語でな」
そして貴重品を持つ手つきで、コーヒーカップを持ち上げました。
「はあ……」
『省察』には絶大な力で人を騙す悪しき霊、つまり悪魔が登場します。
「覚醒と睡眠の区別の仕方について書いているのは、第六省察だが、おまえの興味を引くのは、やっぱり第一省察と第二省察だろうな」
「そうですか……」
「私は、第一省察の終わりから第二省察の『我思う、ゆえに我あり』が出てくるまでが、一番好きだな。悪魔は欺くことによって、人間から奪えるものをすべて奪う。それでも奪えずに残ったものがあれば、それが人間の本当の持ち物というわけだ。つまり悪魔は、人間を欺いてやることによって、逆に欺かれる本体自体は存在していることを保証してやるということだ」
悪魔が鋭い犬歯を剥き出して微笑むと、頭に二本のツノが現れました。
「まるで人間は、我々がいなければ、自分自身すら発見できないみたいではないか」
もはや人型であることをやめた彼の姿は、人間を見下しているように見え、一瞬だけ僕をゾッとさせました。かと思うと、あっという間に、ツノを引っ込めて寂しい子供の顔をしたので、僕はさっきのは気のせいだったと思いました。
「……だが現実の悪魔は非力だ……残念ながら、おまえの天使が言う通りにな。私は判断を間違えてばかりだ……」
男の子は、肩を落としました。少し目が潤んでいるようです。
「……好きな人に自分を見てもらうのは、本当に大変なことだな……」
そうつぶやくと、しばらく黙ってしまいました。そういえば、この子は自分の召喚者に嫌われているんだっけ……
しばらくすると、また気を取り直して、楽しそうに話し始めました。
「あ、別にこの本を勧めているのは、私の正体とは何の関係もないからな」
向こうは薄ら笑っていますが、こちらは全くおもしろくありません。
――お忘れですか。あなたは僕の生家を焼き、親しい人を皆殺しにし、僕に呪いをかけたんですよ。
しかしそれは言葉になりませんでした。あんな寂しそうな顔をするこの子に、そんなことを突きつけても、何も得るものがないような気がしたからです。
彼は、一通り話し終わると、聞きたいことはあるかと尋ねました。僕が首を横に振ると、帽子とコートを着て立ち上がり、足元に置いていた派手な日本刀を拾い、コートで隠すように左手で持ちました。そして少し考えた後、おそるおそる右手を差し出しました。何を照れているのか、目を伏せています。
「お前の論文が、いつかみんなに認められるといいな……あと……おかしをありがとう。レミエルからもらった」
僕は一息ついて、彼の冷たい細い指を握り「こちらこそ」と呟きました。すると男の子は俯いたままちょっと歯を食いしばった後、子供らしい笑顔、実際の天使よりも天使のような優しい笑顔を見せました。
悪魔が帰ったあと、きれいになくなったコーヒーのカップとケーキの皿を見つめたまま、僕はしばらくそこから動けなくなってしまいました。そして、昨日までの自分は一体何を信仰していたのだろうかと思いました。
――……シロップ……ちょっと残すんだな……




