29 謎の男
水の精霊ウンディーネとの勝負に勝ち、このまま無事に帰路へ……とまではいかなくなったレオナは堂々と舌打ちしていた。
侍女としてアリエッタに付き従っている時は、常に心の中で舌打ちし悪態をついていたところだが、今はそんなことどうでもよかった。
ハイエナの如く現れた男の言葉に、レオナはまっすぐと非難の目を浴びせる。
「あなたね、私より先にこのフロアに辿り着いていた人間は」
「やはり気付いていたか。俺もまさかこんなに早くライバルが来るとは思っていなかったがな」
その口ぶりから、この男は聖地への扉が開かれる瞬間を事前に知っていたことになる。
レオナの警戒の色は真っ赤になった。
これはアンデシュダリア国にとって、重要な機密情報だ。
聖女選定の儀と洗礼を終えた時に四大精霊が棲む聖地への封印が解かれる。それはつまり世界的に見ても、四大精霊をアンデシュダリア国が独占しているに等しいことになるのだ。
過去の歴史をもっとしっかりと紐解けば、恐らくその答えはどこかにあるのだろう。
なぜ世界の秩序を保つ存在である四大精霊が、アンデシュダリア国の意思決定によって棲家の封印を余儀なくされているのか。
聖女の洗礼の儀をきっかけに、聖地が解放される理由は――?
これらはアンデシュダリア国にのみ伝わる伝統的な儀式として、他国にはそれを一切知らされていない。
その証拠に各国に点在する冒険者ギルドですら、四大精霊の棲む聖地への侵入タイミングを把握していないはずだ。
少なくともレオナはそう教わってきた。さらなる詳細は機密事項としてレオナにすら知らされることはなかったが、必要な情報としてはそのように伝えられている。
だからこそ、他国の人間であろうこの男が聖地解放のタイミングを知っていたことは異常事態だった。
レオナもまた、一日でも早く聖地へ赴き精霊契約の横取りを決行したかったのだから。
教会に最も近しい人物であれば、レオナより早く聖地解放を知り、先行することはできただろう。しかしただでさえ珍しい黒髪の人物を、レオナが知らないはずもない。
この男は部外者に違いなかった。
「話を戻そう。水の精霊ウンディーネとの契約、そちらにその気がないのであれば俺にその権利を譲ってほしいのだが」
「答えはノーよ、当然でしょ」
「だろうな」
満足そうに笑う男に、レオナは苛立ちを覚え始める。
こちらは一刻も早く大切なお嬢様の元へ戻りたいというのに、こんな問答に付き合っている暇はないのだと。レオナはあからさまに表情に出していた。
「では聞こう。契約する気がないのに、なぜウンディーネの試練を受けたんだ」
「それに答える義務はないわ。そんなことより、私は早く帰りたいの。さっさとそこをどいてくれる?」
「どうやら俺たちは少し言葉を交わす必要がありそうだと思うんだが」
「こっちにはないってば」
そう返すなりレオナが瞬時に動く。
この階層までたった一人で乗り込んでくるような男だ、油断ならない実力を持っていることは間違いない。
だからこそこちらは奇襲という形で先手を打つ。
すでにガルガンシエルは還し、代わりに闇走りの魔性シャドウフィッシュを喚び出していた。この階層は仄暗い、つまり闇を領域とするシャドウフィッシュがその能力を最大限活かせる場となる。
地を這うそのスピードは瞬間移動と変わりなく、レオナが駆け出したその時にはすでに男の背後を取っていた。
レオナがダガーを構えた頃には、シャドウフィッシュが男を捉え大きく口を開いて攻撃に転じている。
「……!」
「恨まないでくださいね」
前後から襲われた男はしかし、不敵な笑みを浮かべながらその力を解放した。
まるですぐ目の前で突風が吹き荒れたかのように、風圧によってレオナは弾き飛ばされてしまう。
本体が闇であるシャドウフィッシュには実体がないにも関わらず、まるでかまいたちで切り裂かれるように八つ裂きになる光景がレオナの目に映った。
(……魔力圧だけじゃない!?)
凄まじいほどの魔力量を意識的に抑制した者が、その力を解放した時に起きる現象――魔力圧。
魔力を一気に解き放つことで魔力による風圧が生じ、周囲にあるものを吹き飛ばしてしまうというもの。
それは物理的に生じる魔力なので、本来ならば物理的に存在しない霊体などには効果がないはずだった。
シャドウフィッシュもまた物理的な肉体を持たない、霊体に近い存在である。
そんな存在にダメージを与える攻撃方法はひとつだけ。
「まさかその力は……、精霊の……!?」
レオナが唸ると、男はまるでその問いに答えるような反応を見せた。
右手に握りしめているもの、それは虹色に煌めく大きな鱗だ。ペンダントとして身に着けられるよう鎖が取り付けられているが、男はそれを首に掛けず、鎖を手に巻き付けて手のひらに鱗を握りしめる状態で身に着けていた。
「それは……、大空魚の鱗!? ということは、さっきの力は……風の精霊シルフの……」
「契約済みだ。お前と違い、俺は精霊の力を自在に操れる」
大空魚の鱗を掲げて見せると、再び旋風が巻き起こる。
長年放置された砂埃だらけのフロアだ。レオナはそれらが目に入らないよう片手で両目を覆い隠しながらも、男の動向から一切目を逸らさない。
小さなつむじ風の中で人型の何かが形成されていく。
若草色のドレスを身に纏った、十代半ばの少女の姿をした風の精霊シルフ。
伽羅色のふわりとした髪をたなびかせながら、百八十は超えるだろう男の目線近くで宙に浮かんでいる。
『どーもどーも、初めまして! そしてそっちのおばさんはお久しぶり!』
軽快な口調でそう挨拶をしてきたシルフに対し、それまで静観していた手のひらサイズのウンディーネが金切り声を上げてシルフに噛みついた。
『誰がおばさんじゃ! そっちこそ誰かと思えば尻の青い小娘だとはな! どうせその若造の色香に迷うて尻でも振ったんじゃろう!? 貴様は尻が青い上に軽いからのう、このシリフめが!』
『誰がシリフよ! おばさんなんて百年も生きていないようなお子ちゃまにボッコボコにされて、こ~んなにちっちゃくなっちゃって笑えちゃう~! あたしはね、マスターがあたしの力を貸してほしいって誠意を込めてお願いしたから、こうやって協力してあげてるのよ? おばさんみたいに力試しで協力するかしないか決めるような野蛮な契約方法なんて取らないの!』
このまま精霊同士で突っかかっていきそうなところを、レオナはウンディーネ、黒髪の男はシルフを制する。
すでに風の精霊と契約を交わしているという男は、大空魚の鱗をかざしてシルフを還した。
レオナが使役する魔性といった存在には本来あるべき世界が存在していると言われている。精神世界面と呼ばれる世界は、物理的な世界……いわゆる人間が生存している世界とは異なる次元に身を寄せているのだ。
精神世界面と一口に言っても、彼らと精霊が存在する場所はまた異なる次元にある。悪魔や魔性、魔族の棲む場所が魔界と呼ばれるように、精霊には精霊の棲む世界が別々に存在すると言われている。
男がシルフを還したことで、恐らく争うつもりはないのだろうと察したレオナはウンディーネに命じた。
まだ文句を言っている様子だが、シルフがいなくなった以上ここに残っても意味はない。
不満そうな顔をしながらウンディーネもまた精霊界へと還っていった。
ウンディーネを連れ帰るために持ってきた瓶……。
魔性と同じく精霊界とこちらを自在に行き来できることを知っていれば、瓶など不要だったのにと。
そう思いつつ、しかし大精霊を瓶に押し込むことにならなくてよかったとも思っていた。
「話を戻すわ。私は、早く、ここを出たいの」
「なら帰りながらお互いの話をするとしよう」
このままでは埒が明かないとレオナは観念し、持っていたダガーを武器ホルダーに収めた。その様子を見た男は手を恭しく差し伸べて、淑女を先へ促すような仕草をする。
これまで暗部の戦闘員として、主人に仕える侍女として生きてきたレオナ。
エスコートされるような態度をしてもらった経験がないので、ほんの少しばかり調子が狂いそうになった。
黒く長い前髪から覗く男の顔には余裕たっぷりの笑み、これだけの美貌の持ち主なのだからきっと淑女の扱いに慣れた人生を歩んできたのだろう。
レオナは不承不承といった気持ちで、すたすたと上階へ続く階段に向かった。
手を差し伸べたままの男の目の前を、一瞥もくれずに通り過ぎる。
どうやらこの男は精霊契約に関する取引というより、レオナが何者なのか。
それを聞きたいのだろうと理解しつつ、レオナもまたこの男について少しでも情報を得る方が得策だと考えていた。
「それで? 道すがら話をしたいと言うからには、やっとそちらの名前を教えてもらえるのかしら」
「これは失礼した。だがそれを言うなら、俺も君の名を知らないんだが?」
「突然現れた闖入者にそれを言われるとは意外だわ」
「闖入者ならお互い様というやつだ」
ああ言えばこう言う。レオナは男の不毛な揚げ足取りに不快感を覚えた。
ありがたくもこちらから折れて付き合ってやっているというのに、質問に質問で返すやり取りが本気で無駄な時間に思えて仕方ない。
後ろを振り返らず、レオナが歩を進めばついて来る男。
レオナはついに階段を上る足を止め、階段上から見下ろす形で振り返り男を睨みつけた。
笑みのない鉄面皮のような顔をしたレオナが、いよいよ文句を言ってやろうとした時。
「フィクスだ、フィクス・グランディス。それで、君の名は?」
「レオナよ」
「良い名だ」
あっさりと名乗る軽い調子に、レオナは一瞬思考が鈍り流れるように名乗り返していたが、……やがて気付く。
フィクスがあまりにも自然体で接して来るものだから、このままスルーしかけたところでレオナのツリ目が驚きの色へと変わる。
「待って。フィクス・グランディス……、ですって?」
それでもなお男は微笑んだまま小さく頷くだけだ。
レオナの背筋に冷や汗が伝う。途端に目の前で佇むこの男が、自分とは遠くかけ離れた恐れ多い存在であることを、直接肌で感じるようだ。
「あの北西の要塞、グランディス国の……」
返事はなかったが、その笑みを肯定と解釈する。
アンデシュダリア国から北西にある隣国グランディス。
難攻不落の要塞として各国からの侵略をことごとく返り討ちにした、無敵の大国。
魔術大国とも呼ばれる国の王は、世界のどの魔術師より優れた実力の持ち主だと、以前ベリル辺りに教わった気がした。
「単刀直入に聞く。今こうして精霊攻略をしている君こそが、今回選ばれた聖女とやらか?」
「……!」
レオナの顔から、フィクスに対する不快さが消えた。
彼女自身も無意識であったため気付いていない表情を、レオナは浮かべていた。
まるで長年待ち焦がれた相手にやっと会えたような、――そんな悲痛な表情を。




