2.海が開ける時④
その日、珍しくベアトリスは普通の食事をとった。アルヴィンの訃報から臥せっていた体はしばらく食事を受け付けなくなっていたのだが、ようやく固形物を摂取できるところまで回復した。
ベアトリスはぼんやりと窓の外を眺めていた。室内は明かり一つなく、月の光に照らされるだけ。夜の真ん中に足を踏み入れたこの時刻。屋敷のほとんどの人間が寝静まるせいか、人の気配もない。
屋敷は侯爵領の小高い丘の上にあり、所領全体を見渡すことができる。今も家々の明かりがぽつぽつと灯っているのが見えた。それは今までと変わらない、美しい夜の景色。……そしてきっと、これからも変わらないのだ。ベアトリスに、そして誰かに、どんな出来事があったとしても。彼の死でさえ。一人の死は世界に何の影響も与えない。
……アルヴィンのことを思い出すと、胸が突かれたように痛みだす。優しげな相貌、豊かな知識、弾む会話。とても満たされた時間だった。楽しくて、胸は喜びだけで満たされて。……けれどあの人と一生を共にすることはもうできないのだ。
窓に凭れて溜め息を吐く。……どんなに嘆いてもアルヴィンは死んだ。それがようやくわかってきたところだ。この世界は無情にも何一つ変わらなかったのだから。
アルヴィンの訃報がもたされてから、ベアトリスは嘆いてばかりだった。泣いてばかりだった。……それなのに、あのチョコレート色の髪をした青年の姿が忘れられないでいる自分がいた。
(一体、誰だったのかしら。金色の瞳をして、私を助けてくれた人。……もしかしたら、天使さま……?)
綺麗な人だった。ベアトリスを愛おしげに眼を細めながら頬に指を滑らせた。その感触を思い出して、懐かしさが急に込み上げてくる。誰なのかわからないのに、安心を覚えて。
(わたくしはあの人を知っているような気がするのに、思い出せない)
彼は、ベアトリスを知っていた。きっとこの感覚は、本来ベアトリスが彼を知っているせいなのだろう。切なくて、まるで置いてけぼりにされたような寂しさを思い出しては胸が震える。
(……もう一度、会えないかしら)
期待して、あの日からずっと窓辺に佇んでいる。縋るように、あの人に会いたかった。
人ではない、それは確か。そんな人物に一体いつ出会ったのだろう。
……思い出せない。……思い出そうとすると、いけないことをしているようで罪悪感がまとわりつく。
ベアトリスは頭を振った。そしてチェストの上に用意したガラスの器に目を向ける。
多角のカットを施されたダイヤモンドのように輝くガラスの器。この中にはチョコレートの包みが幾つも入っている。あの時部屋にはなかったもの。ベアトリスが用意したものだ。
あの時触れて、唯一確信したのは、あの青年がチョコレートを好きだという妙な事実。
(おかしいわ。チョコレートを差し上げたいだなんて子供じゃあるまいし)
ましてや人間ですらないようなのに。
再び物思いに沈みこもうとしたその時、窓の外を大きな黒い影が通り過ぎた。
「えっ! な、なに……」
ベアトリスは思わず窓を開けて天を仰ぐ。何者かが下から突き抜けるように昇って行ったのだ。
眩い月の光のせいで、何かがいるはずなのに目でとらえることができない。
けれど一瞬ちらりと見えたのは、鴉のような黒い羽だった。しかも、巨大な。
窓辺で呆然としていると、室内の扉を叩く音がした。
家人が訪問者の到着を告げる。こんな夜更けであるが、今日は約束があった。
ベアトリスは応えて部屋の明かりをつけた。本来ならば誰であれ部屋に通せる時間はとうに過ぎている。けれど今朝方届いた一通の封筒――二重のダイヤの印を見た時、アルヴィンの件から全く連絡していないことに気がついたのだ。
少しばかり大人びた、不思議な子。
ベアトリスを柔らかな眼差しで包む、あの子。
「こんばんは、サミー。……お久しぶり」
ベアトリスは出来る限りの笑顔で迎える。
サミュエルは華奢な足を短いブーツに包み、侯爵家への訪れに相応しく、正装に近い格好で現れた。夜に馴染むような黒いジャケットに、灰色のパンツ。どちらもサテンのラインはツヤツヤと光っている。
「……こんばんは、ベアトリス。こんな時間の訪問を許してくれて、感謝するよ」
小さな仕立て屋の小さな子供は、少し大人びた面持ちで礼儀正しく挨拶した。
ベアトリスには、その様子が懸命に彼女を気遣っているように見えた。近づいてきた少年が緊張した様子も隠せず、小さな花束を差し出してきたとき、ベアトリスは胸がいっぱいになって思わずその背を抱きしめた。
「――……サミュエル。心配かけて、ごめんなさい」
涙が零れた。今までの涙とは違う感謝の涙だった。この子は婚礼衣装を手がけながら、屋敷に引っ込んだベアトリスをどう思っただろう?
口にしない優しさ。それはサミュエルに日々感じているもの。それを蔑ろにしていたことを、今この瞬間、痛感した。
サミュエルは幾ばくか迷った後、そっとベアトリスの背に腕を回した。
「……ベティ。泣かないで」
困惑が伝わってくる。ベアトリスが泣いたのに気付いたからだろう。わかるのに、涙は止められなかった。
――心配かけてごめんなさい。ありがとう。
懸命に伝えようとしたけれど、何度も嗚咽が邪魔をした。家人も扉の前で気遣わしげにこちらを見ているのがわかる。小さなサミュエルが、一生懸命ベアトリスの髪を撫でる。その献身が嬉しくて、ベアトリスは笑った。……本当に久しぶりに。
家人を扉の前で待機させたまま、ベアトリスはサミュエルをテーブルに招いた。
二人が温かな紅茶で一息ついたところで、ベアトリスは用件を尋ねた。
「ねえ、サミー。今日は来てくれてありがとう。会えてとても嬉しいわ。……けれどどうしてこんな夜更けに?」
サミュエルはさして驚く様子も見せず、その指摘はもっともだと頷いた。
ベアトリスの心配は、夜更けにこの子を歩かせる危険についてだったのだが。
小さな店主は大人びた口調で、扉の前に控えていた家人を呼んだ。
「今日は大切な用事があってね。……ああ、ちょっとすみません。ボディを用意していただけませんか。ドレスをお届けに参りましたので」
「ドレス……?」
家人が外へ出ると、サミュエルは傍らに置いていた大きな衣装箱を手に取って、ベアトリスの傍らに腰掛けた。驚いているうちに、二人の間に箱が鎮座する。
「ベティ。……キミはいやかもしれない。でも僕にできることはこれしかなくてね。……開けてくれる?」
ベアトリスは衣装箱を見た。大きな黒いリボンで包まれた箱だ。なんとなくこの中にあるものは予想がついている。……だからこそ、伸ばした手は途中で止まった。
「サミー……あなたが一生懸命わたくしのために作ってくれたことはわかっているの。それは、本当に感謝しているわ。本当よ。……でも、まだ……」
本来なら、この衣装箱を開けるのをどれほど喜んだことか。
アルヴィンの顔が脳裏をよぎった。だが、思わぬサミュエルの強い眼差しにそれは掻き消える。
「ベアトリス。開けて」
揺るぎない声。それに押されるように指はリボンを解いていく。
箱を開け、そこにあるはずもない色彩にベアトリスは息を呑んだ。
「これは……」
そっと、持ち主を待つそれを両手で取り出す。触れている指が白くみえるほどの、黒。
手にしたドレスは、漆黒の色をしていた。
「サミー……これは、どういうこと……?」
咎めたわけではない。ただ、驚きに二の句が継げないでいた。
指でなぞるそこかしこに、レースの精緻な模様の感触がある。間違いなく、このドレスは思い描いていた婚礼衣装だった。
「『黒の花嫁』を知っている?」
ボディに着せられたドレスを眺めながら、サミュエルは口火を切った。
人払いされた部屋は常とは異なった沈黙が漂っている。
予想を裏切る言葉に、ベアトリスは戸惑いながらも頷いた。この国の民で知らぬ者はまずいない。子供だって知っている話だ。
「もちろんよ。建国の物語だもの」
『黒の花嫁』。子供に言い聞かせる為の物語の一つに過ぎない小さな話だ。しかし建国を伝える物語という意味合いでは重要な物語でもある。
この国を建国した女王が、それに尽力して死んだ神を悼み、嘆いた。そして死んだ神の花嫁となることで新たな神となり、この国を治め始めたという話。どこにでもある、神と王を結びつけるための話だ。
「でも、それがどう関係するの?」
確かに、今でも国の統治者は代々女王で、未婚を守ってもいる。この物語に沿っていることは事実であるが、それがこのドレスとどう繋がるのか。
「『黒の花嫁』の本当の意味は、物語そのものを指すんじゃないよ。未婚の女性が、死んだ相手に身を捧げること――それを『黒の花嫁』になる、というんだ」
「『黒の花嫁』になる?」
それがこのドレスだというのだろうか。
「そう。黒を纏うことで悪魔の花嫁になって、相手の魂を守ってくれるよう願う」
不穏な言葉に、ベアトリスはサミュエルに視線を投げた。
少年はいつも通り。少しだけ真剣みを増した顔つきで、視線を逸らすことなく返してくる。
「ねぇ、ベティ。キミは悪魔の花嫁になれるほど、婚約者を愛していたの?」
「悪魔の、花嫁……」
「そう、悪魔の花嫁。キミが死んだら、その魂は悪魔の手元に置かれる。だから天国へは行けなくなる。家族にも友人にも会えないね。だけど、キミが悪魔の花嫁になったら、キミの婚約者は悪魔に魂を喰われることはない。きっと天国へ行くだろう」
冗談だろう、と返そうとして、少年の眼差しに嘘はないと気づく。
「ベアトリス。キミはアルヴィンとかいう婚約者のために、醜くて恐ろしくて残虐な悪魔の花嫁になれる?」
可憐な唇が、無慈悲な言葉を吐いた。
「……サミー……わた、くし……」
返事を、しなければ。
返事をしなければならないと思った。
それなのに、喉が渇いて声が出ない。
「わたくしは……」
アルヴィン。大好きだった人。
彼を失ってとても悲しかった。
じゃあ、わたくしは、悪魔の花嫁になれる? 悪魔に願って、アルヴィンの魂が安らかでありますようにと身を捧げられる?
……不意にチョコレート色の髪が、金色の瞳がベアトリスの頭をかすめた。
「できるの? ベアトリス」
サミュエルは畳みかけるように囁いた。
「キミに、その覚悟がある……?」
――まるで、呪いのように。




