2.海が開ける時⑤
『……主。……主』
頭上で羽がはばたく音がして、少年のサミュエルはぼんやりと顔を上げた。頭上には大きな極彩色の鳥――ジーナと、その向こうにはしつこいぐらいに爽やかな青空。たまには雨でも降ればいいのに。
『思索にふけっている私を呼び戻すほどに重要な用事なんだろうね』
ばっさばっさと羽が舞い落ちる。……邪魔だ。
『……主が愛想よく返事をしないと、買い物のおまけが減ってしまいます』
あっそ。返事も億劫になるほどくだらない。サミュエルは大きな紙袋を抱え直してうんざりした。
久しぶりの買い出しは貴重な情報収集の一環だ。人間として生きた十年の間で、人間同士の情報交換は馬鹿にできないことはいやというほど知っている。
今日、店主は非常に不機嫌だった。不機嫌を通り越して殺気立っているといってもいい。
『……主。ベアトリス様のことが心配なのはわかるけど、愛想良くしてくださいよ』
そう言うジーナの声も投げやりだ。今のサミュエルに注意しても無駄なのをわかっているのだろう。ジーナとベリアルの感覚は繋がっている。
だが、殺気立たないほうがおかしいのだ。一刻も早く、どこの者ともわからぬ悪魔を殺してやりたくて仕方がない。絶えず魔力でベアトリスに触れているから、ここ数日でベアトリスがいかに危険な目に遭遇しているかはよく知っている。知っているのだが、危険の瞬間駆けつけてみても犯人はいない――こんなことの繰り返しだ。しかもシャンデリア落下に留まらず、崖から転落しそうになったり鉢植えが頭上に落ちてきたりと、些細な事故だが確実に命を奪えるものばかり起きていた。
マルファスは今日も調査に向かわせているが、今のところ目立った成果はない。他の悪魔の匂いとやらも曖昧なままだ。
(……苛々する。ああ、殺したい)
瞳が金を帯びるのを阻止するので精一杯だ。
と、乳製品を扱う店の前でジーナが勢いよく降り立った。目的は考えるまでもなく牛の乳だ。
仕方がない、とサミュエルは微笑んで店先の恰幅の良い女性に声をかけた。
「こんにちは。今日もいい天気ですね」
にっこり。おぞましいが俗に天使の微笑と評されている必殺技だ。買い物には欠かせないスキルともいう。
案の定、女性は腹を揺すって満面の笑みで出迎えてくれた。
「サミュエルちゃんじゃないかい! 今日もミルクかい?」
「はい、お願いします」
礼儀正しくおじぎをすると、いい子だとぐりぐり頭を撫でられる。……髪が乱れるからやめて頂きたいのだが、ご婦人。
さて、と気を取り直して大通りを見渡す。マッキンゼー領から王城までを結ぶこの大通りは、店先に広がる通りでもあり街のメインストリートだ。
大抵のものはここに集う。物も人も、情報も。
買い物ついでに道を歩きながら気づいたことを、サミュエルは無邪気な様子で口にした。
「なんだか警官の方がいつもより多いですね。事故でもあったのかな?」
こくり、と首を傾げてみせる。
ミルクを瓶に移していた女性は、違うんだよと心配そうな顔で教えてくれた。
「こんなこと、サミュエルちゃんに話すのもどうかと思うけどねえ、あんたのところは大人も少ない心配だから教えておくよ。実は殺人事件が起きているらしいんだ」
しかも一人じゃなくて、何人もらしいんだ――だから気をつけなきゃいけないよ。
好意で注意してくれるのはありがたいのだが、少年の姿ゆえか大した情報は得られない。……まあ、情報が情報だから仕方がないか、と無難にミルクを受け取って足を踏み出した時、けたたましい声が耳を突いた。
「サミュエルくん! ややっ、サミュエルくんじゃないですか。こんなところでお会いできるなんて珍しい……ってちょっとー!」
『……いいんですか』
……うるさい。胡乱な目を向けないだけありがたいと思え。そう心中で呟きながらそのまま足を進めるが、相手の足は残念ながらサミュエルよりも長かった。遥かに。
あっという間に距離を詰めて回り込まれる。
……これはあれか、僕は男として喧嘩を売られているのだろうかね? と凶悪な顔つきになったサミュエルに、ジーナは呆れた視線を投げた。悪魔のくせに被害妄想が激しすぎる。
「捜査資料には目を通しておいてくれたかい? サミュエルくん」
登場した途端、周囲の明るさを吸いこんだようにキラキラした笑み。
サミュエルの声は地を這った。
「……警部」
周囲の女性の視線が一気に眼前の青年に向かうのも、ベリアルとしての矜持を傷つける。
「おっと、今日はまだ怒らないでくれたまえ。ひとまずケーキなどどうかな?」
今日のシャルル・マーキス・ハートフィールドの行動は素早かった。挨拶もそこそこにさっ!と指差したのは人々で賑わうカフェである。
「ここのケーキは絶品という噂だよ、サミュエルくん。流行の最先端を行く君がここのケーキの味を知らなくてどうするんだい!」
ピクッとサミュエルのこめかみが引き攣った。
聞こえないのは承知で、『ああ、消し炭になりますよ』とジーナは助言した。
「流行の最先端と言われては、行かないわけに行きませんね。……全部あなたの奢りですよ」
食らい尽くしてやる。
「もちろんだとも!」
金髪のおかっぱは、端正なはずの顔を無邪気な笑みを浮かべた。
シャルルの顔が広いせいか、混雑をものともせずに席へ通された。憂さ晴らしも兼ねて片っ端からケーキを注文すると、今日も大層な格好の警部に向き直る。
……正直、彼のネクタイピンに非常に興味をそそられるのだが、ここは悪魔と人間。堪えなければ。
「……で、何なんです? 大通り、随分と警備要員を増やしたみたいですけど」
シャルルは運ばれてきたコーヒーに優雅に口を突け、ふて腐れたように頬杖を突いた。
「それがね、残念なことにあれから進展がないんだよ。片っ端から聞き込みもしているし、犯行現場周辺はバラバラ。傷の深さからして犯人の体重がばらばらだから、やっぱり犯人はそれぞれ違うみたいなんだけどね……」
警備員を増やす程度の対策しか取れていない、とシャルルは神妙に告白した。
金色の長い睫毛が白皙の頬に影を落とすのを見て、サミュエルはこいつ天使なんじゃないかと疑ってしまうことがある。神が好みそうな容姿なのだ。どんぴしゃで。
「怪しいカルト集団では? 心臓だけ取っていくなんて何の用事でしょうね」
「そっちも一応調べてはいるんだ。でもここのところ、新興宗教も目立って行動はないんだよね。前々から悪魔信仰は根強いからその線も捨てきれないんだけど、でもなぁ」
シャルルにしては珍しく歯切れが悪い。疑わしきは悪! と言わんばかりに少しでも怪しい箇所は捜査しに突っ込んでいくはずなのに。
サミュエルの訝しい視線に気がついたのか、シャルルは少し笑った。
「悪魔信仰の容疑っていうと、ちょっと簡単にはね。しかもそれで捜査を進めていくと……僕でもちょっと躊躇する人に行き当たってしまうんだな、これが」
悪魔信仰は、一神教を唱える国教に敵対する最たる宗教である。異教も個人レベルならば概ね寛容であるのだが、悪魔信仰だけは別だ。悪魔信仰者と知られた場合、如何なる者も極刑である。
悪魔だけダメって何なのソレ。と思わないでもないのだが、そもそも悪魔が人間と同化している身なので余計なことは言わない。
問題はシャルルが捜査に躊躇する相手ということだ。マッキンゼー領には一握りしかいないだろう。侯爵家であるマッキンゼー家の人間ということだ。
「……なんということだ……」
運ばれてきたケーキを前に、サミュエルは人生最大の過ちと言わんばかりに項垂れた。
眼前で騒ぐ警部はどうでもいい。だが意外なヒントだった。
サミュエル――悪魔ベリアルは、召喚の声が聞こえるたびに拒絶してきた。だから召喚を試みた人物を知らない。まさかマッキンゼー家の人間だとは思いもよらず。
『……人間ってこわいですね。主』
全くだ。悪魔よりよほど醜く残虐な生き物だといえる。
「……誰なんですか、その容疑者って」
「容疑者といってもだね、以前ちょっと怪しまれていただけで証拠は何もないんだよ。彼女と話しても、非常に健常そうだったしね。……って、え、サミュエルくん? どうかした?」
――“彼女”。
サミュエルは色を失い、言葉を失くしていた。
「……サミュエルくん?」
この際、シャルルの発言は無視だ。
「シャルル警部、警部殿に調べて頂きたいことがあるんです――」
***
首を傾げながら持ち場に戻っていくシャルルの背を見ながら、サミュエルは笑いがこみ上げてくるのを止められずに、唇を歪めた。
「簡単なことじゃないか。……ああ、くだらない。そうだろう、ジーナ」
くるりと背を向けて歩き出した姿は、蠱惑的な色をもつ青年の姿をしていた。
「……ベリアル様」
身体の輪郭が、うっすらと紫色の燐光を放っている。……ああ、これはだめだとジーナはさっさと匙を投げる。
主に創られた使い魔であるジーナは、主の感覚を共有しているからだ。
「……狩りますか」
「あはは、どうしようか」
見上げた主の表情は、少しも笑っていなかった。
金色の眼差しは、凍てついた氷のように冷ややかだ。……ああ、怒っている。それも、とても強く。「どうしようか」……どう殺そうか? という意味合いだろう。
喰いちぎる、それとも四肢をもいで遊ぶのだろうか。いずれにせよ、犯人はただでは済まない。
主――ベリアルは、普段滅多に元の悪魔の姿に戻らない。それはソロモン王の壺が主の絶大な魔力に反応することを案じての苦肉の策だ。
だからこそ、美しい主の姿を現していることには意味がある。
言葉通りの、殲滅だ。
思い出すのはベアトリスの自室。そこにはかすかに知った匂いがした。異なる匂いだが、近い匂い。……彼女は何がしたかったのか。悪魔ベリアルを呼び出して。
まあ、そんなことはどうでもいい。問題なのはベアトリスにその爪を向けたことだ。
「……馬鹿なヤツ」
もはや同情さえできない。
「さあ――どうやっていたぶってやろうか」
悪魔ベリアルは、嗜虐の悦に浸るように目を細めた。




