2.海が開ける時③
「――まって!」
耳慣れない慌ただしい足音に足を止める。無人の回廊は迷宮のように長く複雑にくねっていて、そこには人影など見つけることもできない。
今までもそうだった。……だからきっと、これからも。そう思っていた。
「よかったぁ! ねぇねぇおにいちゃま、ここはどこ?」
無邪気な幼子が飛び込んでくるまでは。
その幼子はふと気づくと、いつも回廊をうろついていた。
回廊の奥――ここは立ち入ってはならぬ場所。王族を除いては立ち入ることができぬ場所。そこへどういうわけかするりと入ってきては、自分を見つけ出してしまうのだ。
「あっ、おにいちゃま! んもう、こんなところにいたのねっ。ベティいーっぱいお探ししたのよっ」
「……別に探してくれとも頼んでないけど。そもそも、どうやってここまで入って来たのさ」
「おとうさまといっしょにきたの! でもおはなし、つまらないんだもん。おにいちゃまのふしぎなもの、みたいの! いっしょにあそびましょ」
きらきらきら。白くて柔らかいほっぺたの上に、大きな輝く瞳が二つ。
彼女の『ふしぎなもの』は魔力の光だ。魔力で花の幻を作って泣き止ませてからこちら、自分はいたく気に入られてしまったらしかった。しかもまた、ここまでどうやってきたのか聞きそびれた。
『おとうさま』がマッキンゼー侯爵で、この幼子が侯爵令嬢であることはすぐに知れた。彼女はひとしきりここで時間を過ごし、腹が満たされれば自然に午睡に入る。その隙に応接室へ帰しておくのが当たり前になっていた、そんなある日。
私はこの幼子を、庭園へと招待した。誰かを招いたのは初めてのことだった。
草木が無造作に生い茂り、庭園の意図を感じさせない造り。知っている者が見れば、それは庭園ではなくただの野原、荒地のように見えただろう。だが、今の『私』にとって、籠の鳥のような『私』にとっては、美しき野生に満ちた庭であった。一方で矛盾もしていて、『私』は野原も荒地も記憶にある。それが不可解だった。自分は一度も城の外へでたことがないのだから。
用意しておいたティーセットと彼女のためのおやつ。傍らのテーブルセットも運び込んで、準備は万端だった。
幼子はいたく気に入った様子で、きゃっきゃとはしゃぎ回っている。こんな庭を喜ぶのは、自分のような環境の、一握りに人間だけ。だからその様子に心が凪いでいくのを感じながらも、こんな小さな子供でさえも籠の鳥であるのだと気がついた。
気がついたときに知ったのは――かすかな、執着。
「……ベアトリス。食べこぼしがついているよ」
幾度目かの逢瀬。幼子――ベアトリスにとってはお菓子をくれる不思議なおにいちゃま、というところだろうか。かじったクッキーの欠片を指で拭ってやると、彼女はらしくもなく、ふふふと抑えきれない笑いを漏らした。
「どうしたんだ?」
「おにいちゃま。今日はね、マリアがおやつをくれたから、ポケットに入れてきたの!」
おにいちゃまといっしょにたべるの。そう無邪気に見上げてくる彼女の小さな掌。そこからころんと転がってきたものに、私は訝しんで視線を向けた。
お菓子の包みだ。だが、嗅ぎ慣れない匂いがする。
「これは……なに」
「おにいちゃま、しらないの? チョコレートっていうのよ」
「……チョコレー、ト」
包みを破ると、赤ん坊のように縮こまった短い指で、ベアトリスはチョコレートを私の唇にくっつけた。……嗅ぎ慣れない匂い。しかも黒い。今まで口にしたことのないものだった。
だというのに――甘く苦みを伴う不思議な香りに、心の臓がどくりと鳴った。
かすかに口を開けば何が嬉しいのか、ベアトリスはチョコレートを私の口に押し込んだ。
途端、私の体は動きを止めた。
「……っ、あ……」
口に広がる豊かな芳香。それを体中が巡りながら、勢いよく私の体を犯していく。
激しい動悸。強烈な眩暈。――ああ、そうだったのか。私は薄れゆく意識の中でようやくすべてを理解した。
この菓子は、悪魔を覚醒させる。王宮で禁じられた菓子だ。城には一つもないはずの。
隠された王子という存在の中に潜んでいた――悪魔を覚醒させるモノ。そのことを知っているのは、既に 私が忘れ去られた王子であると同時に――悪魔でもあったからだ。
チョコレートは、悪魔にとっては妙薬そのもの。
……ああ、そうだ。悪魔は壺から逃げて、女の胎の中へ逃げた。正しくは、胎の中の子供に憑いた。私は、人の子ではない。この体が人の子であっても、『私』という意識は違う。
――この時、『私』は、悪魔ベリアルとして覚醒した。
……あの日。別れの日を何度も思い出す。
「……おにいちゃま……」
いやいやと駄々をこねて泣き止まないこの子が愛おしかった。
覚醒した以上、悪魔の気配は壺に感知されてしまう。一刻も早く城を離れなければならなかった。私の肉体は、目立たないながらも王子という身の上。城を抜け出すのは面倒だが、致し方ない。
彼女の訪れを待って、城から消えることにしよう。私は決めた。
ベアトリスはまだ六歳。良し悪しの区別もまだ難しいような、普通の子だ。
だが、壺のために近寄ることのできないはずの場所へ入り、悪魔を目覚めさせた……それは、もはや普通とは言い難い。
私は悪魔であった頃の記憶を取り戻した。精神体である悪魔は、通常人間に触れることはできない。だから私は、壺から逃れたあの時、城の人間の――女王の胎内へ入り込んだのだ。
私は人を探していたのだ。悪魔の姿で、ずっと……ずっと。
「……ベアトリス。どうか泣かないで、僕のお姫様」
涙の滲む目じりをぬぐい、ベアトリスを抱きかかえて目線を合わせる。
「おにいちゃま……いやよ、いや! どっかへいっちゃ、いや!」
この子がかわいい。愛おしい。その理由はたくさんあるけれど、悪魔である私を取り戻した今、彼女の魂は透けて見える。
そう、なんという幸運か。彼女は私の探し人だったのだ。
「愛しているよ、ベティ」
神という存在に刃向うことになったとしても構わなかった。僕は天使として出会った時から、一目見た時から、ずっとずっと、人間のままの君を愛していた。
エデンの園で君が神の炎に焼かれ、私が堕天の印を背負い、悪魔という身に堕ちた後も、ずっとずっと……君を、探していた。再び愛し、私の妻とするために。
……けれど今しばらく、お別れだ。私は今、肉の体を持つ身。君と添い遂げられる身。
忌まわしき壺を破壊し、私が君と共に在れる日が来るまで……君は、私を忘れていい。
「……おにい、ちゃ……」
ぼんやりと、美しい若草色の瞳が揺れる――ああ、君を攫ってしまいたいよ、ベアトリス。
「必ず、迎えに来るから」
だから、待っていて。私のお姫様。
***
「……ん」
サミュエルは眠気を振り払うように起き上がると、眩しい光を注ぐガラスをぼんやりと見つめた。時折、あの夢を見ると現実との境目がわからなくなる。
少年の意識を目覚めさせたのは、窓辺に置かれた一着のドレスだった。
静まり返った店の中に、白いカーテンの間に紛れるように立っているボディに着せられた、一着の華やかな――闇色のドレスだ。
「おはよう、パトリック、ジーナ……羽は足りたかい?」
傍らのパトリックの頭を撫で、ジーナに声をかける。ジーナは鳥の姿で近づいてきた。
『おはようございます。ええ、なんとか。今はちょっと魔力不足で人型に戻れませんけど』
「おや、そうだったのか。おいで」
サミュエルはジーナの頭に掌を置いた。するとジーナは人型へと変わった。魔力を補給して満たされたのだ。
「闇鴉の羽、ちょうどでした。足りなければマルファスから毟ろうと思っていたのに。残念」
「それは僕も残念だ。……うん、良いね。美しい黒だ」
ベアトリスの婚礼衣装は、黒い色に染められていた。この黒は、魔界に棲む闇鴉の羽から抽出した染料で、三日三晩染色を繰り返してできたものだ。サミュエルが満足するほど、闇のような真の黒色に染まっていた。
繊細なレースの模様も見事に完成した。このレースの隙間から彼女の白い肌が重なれば、どんなに美しいだろう。サミュエルは思い描いて目を細める。
「主。契約。今夜、行きますか」
どうしようか。一度悩むポーズを見せる。
「……もうすぐ、満月だったね」
「はい。その時に例の婚約者の葬儀も行われるとか」
開かれたマルファスからの手紙をジーナは差し出す。
「死体、ないのにねェ」
サミュエルは嘲笑した。何のために葬儀をするのか、本末転倒だ。
「……ふむ。急いだ方が良さそうかな」
――今夜、向かうよ。
サミュエルは不敵な笑みを浮かべ宣言した。




