2.海が開ける時②
シャルルの来訪から数日。彼の捜査資料をふんだくってまで得た情報は乏しいものだった。
「人間の仕業なのは間違いないか。じゃあ、ただ僕を呼びたくてやっているだけなのか……うーん」
サミュエルは推考しながら椅子を揺らした。
「……主、気になるの」
「ああ、いや、心臓のことは別にどうでもいいんだ。ただ、他の悪魔の匂いが時折するのが気になってね……」
マッキンゼー領で姿を維持できる悪魔はとても少ない。マルファスの他に数人知っているが、匂いも気配も把握できる。それとは異なる匂いで、時折感じるだけ――そこがどうも気にかかる。
「確かに、タイミングが良すぎる」
ジーナは淡々と事実を述べる。心臓を持ち出して悪魔の召喚。それとほぼ同時期に、正体不明の悪魔の匂い。なんとなく、重なるような重ならないような……?
「……?」
ジーナは首を傾げた。サミュエルは呆れて使い魔を見た。
「堂々めぐりしてわからなくなっちゃったんだろう。平和な頭で羨ましいよジーナ」
「……それはどうも」
パトリックはサミュエルの傍らでくふくふと昼寝をしている。ジーナはそれを撫でながら、サミュエルの思考はどうでもよくなってしまったらしい。
ふと、何か悪い予感が胸をよぎる。
「……ん?」
目の前の空間を腕で凪ぐと、キャンバスほどの大きさの不安定な映像が出現した。
「あ……ベアトリス」
ジーナが顔を上げる。
ベアトリスは瞼を腫らしたまま、泣き疲れて眠っていた。頬に残る雫がそれを物語っている。
サミュエル――ベリアルはその様子に目を細めた。杞憂だったらしい。が、何かおかしい。鷲色の瞳は金色へと姿を変えていた。……映像のほんの色の違いだ。きらきらと、何かが光って揺れている。……何か。
思い当って息を呑む。
「――ベティ!」
サミュエルの叫び声とほぼ同じ時。
ベアトリスの頭上のシャンデリアが落下したのだ。
大きな音がした。また何か、落としたのだろうか。カップ? 花瓶? ……いや、もっと大きな音だ。
「――……だ、れ?」
自分の上に、誰かが覆いかぶさっている。開けたはずの目は腫れ上がっていて、ぼんやりとしていてよく見えない。
「……無事かい、ベアトリス」
「……え……」
見下ろす瞳は金色。間近にあったその顔は端麗。薄い唇は、柔らかく笑みを浮かべた。
「無事かい? どこか、痛いところはない?」
青年は答えられずにいたベアトリスに再び尋ねた。
「……ありません」
答えてぱちり、と瞬きをした。吐息が触れ合う距離に、見知らぬ青年が微笑んでいるのが消えない。……消えない? ではこれは、夢ではないのか。
何をしていた? ――自室の長椅子で、クッションに顔をうずめていたのを思い出す。
ここはベアトリスの自室。青年に押し倒されているのだ。
「……っ、あなた……! おどきなさいな!」
柄にもなくぴしゃりと。それでも青年は眉一つ動かさなかった。
「いい子だから静かにしなさい。厄介ごとは御免なんだ」
そっと、青年の長い人差し指がベアトリスの唇に触れた。「……ね」と吐息交じりに囁かれて、よくわからないままにベアトリスは頷いた。いや、頷いちゃダメでしょう、と意識の端では思うのだが、どこか現実味がないのだ。
何より、こんなに近くまで青年が触れているのに、ベアトリスは危険を感じなかった。
「あなた、誰なの……」
金色の瞳なんて、人間にはありえない色だ。まるで、天使か悪魔のよう――。
それでも、どこか懐かしかった。じっと見つめ続けるベアトリスに、青年は居心地悪そうに身じろぎをする。
「あ、ごめんなさい。なんだか懐かしくて。あの、あなたに会ったことがありますかしら」
目を瞬かせた青年は、ふふ、とおかしそうに笑った。
「さあ、どうでしょう。キミはどう思う?」
「質問したのはわたくしです……というか、どうしてこんな体勢ですの……っ」
青年の瞳にばかり意識が向いていたが、危険はなくとも婦女子にあるまじき触れ合い方である。
「……心配だったから、きちゃったんだ」
さらりと頬を撫でる掌。その手はとてもひんやりとしている。
「……心配? わたくしの?」
「そう、心配」
親しげな様子がとても不思議だ。けれど、危険を感じない。まるで青年が人ではないかのようだ。……もしかして、精霊とか……?
本人が聞いたら当分拗ねてしまうような予想である。
頬を撫でる手。だが青年の頬の方が、肌がきめ細かくて美しい気がする。ベアトリスはその頬を思わずつねろうとして、青年の髪の色に目を止めた。
甘い茶色。そう……ミルクチョコレートのような。
ミルクチョコレート。その単語がベアトリスの脳裏に留まった。
そして不意に、驚くべきことを口にした。
「……チョコレート、召し上がる?」
「――え」
青年は驚きに手を止めた。
思わず、といった風に口を突いて出た言葉に、ベアトリスは驚いて口を噤んだ。
青年は、わずかな逡巡の後、首を振る。
「……あなた、チョコレートが……。ああ……わたくしたち、会ったことがあるわ。どこでだったのかしら……思い出せない……」
思い出せない。思い出そうと記憶を探るとひらりと逃げてしまう。
青年は泣き出しそうに顔を歪めた。
「ベアトリス」
「はい……?」
「……愛しているよ」
「――え?」
瞬いた僅かの間。
目の前にいたはずの青年は掻き消え、ベアトリスは残った惨状に目を疑った。
「誰か……誰か! シャンデリアが……」
そこには巨大なシャンデリアの残骸が、部屋中に散らばっていた。
***
「……やってしまった」
ベリアルは元の姿のまま、ソファに突っ伏している。心なしか背中が震えているような気がした。
ジーナはそれを視界に入れたまま、とっておきのミルクを飲む。ジーナの主もジーナ自身も、求めるもの以外には無頓着だ。ジーナにとって、求めるものはミルクだった。
ああうう、と唸り続ける主。ジーナは牛乳を飲み終わると、少し残念そうな顔になってしまった。お腹はいっぱいなのに、毎回ミルクとの別れが悲しい。
「……ベアトリス様はご無事でしたか」
それでも、まだもぞもぞしているので、主に声をかけてやることにした。咄嗟に魔力を開放して助けに行ったぐらいだ、まず傷一つ負わせてはいないだろうが。
「そりゃもちろんさ。あー……かわいかった……ベティ、大好きだ……」
戯言が聴こえた。ちなみにこの戯言は十年前からなので、きっと直らないだろう。
「六歳の幼女の時から大好きでしょう、主」
「もちろんだよ……ああ、結婚したい」
もぞもぞしていたのは、紅潮した頬をソファにこすりつけていたせいだった。
ジーナは変態を見るような軽蔑の視線で、もがく主を一瞥した。情けない。
「攫って嫁にしてしまえば良いではありませんか。十年も遠くから見守るなど、主らしくもない」
悪魔ベリアルは、かつて魔界で浮名を流したことでも有名だ。外見から想像できる通り、女性関係は栄華を極めたといっても過言ではない。それが今や、幼女から一人の人間を眺めては愛でる……これでは変態一直線だ。
「壺さえなければ、すぐにでも――そう思っていたんだけどなぁ」
はーあ、と盛大な嘆息。どうやら正気に返ったらしい。
「おかえりなさい」
ああ、とベリアルは青年の姿のまま、億劫そうに立ち上がった。
立ち上がって机の上を見ると、白い封筒。
「……カラスから」
ジーナの声に、ベリアルは静かにそれを開けた。手紙に目を通すとそっとテーブルに伏せる。
「……このままというわけにはいかないなァ。……ふふ、ベアトリスに手を出す馬鹿がいるとはね」
艶然と微笑むベリアルは、ショーウインドウの近くに飾られているドレスに近づいた。ショーウインドウのガラスはすっきりと磨かれていて、一面のガラスの向こう側に見える空は高く、青い。
ちぎれたような雲が、静かに空をたゆたい、流れていくのも見える。防音の店内は静けさで満ちているが、この人通りでは通りはひどく賑わっているはずだ。
ベリアルは人外の瞳を眩しそうに目を細めたあと、同じように太陽の光を浴びている傍らのドレスに体を向けた。白いドレスは陽の光で銀色にきらきらと輝いてみえる。
「……どうしてだろう。きみが、泣いているように見えるよ」
そっと、小さな手が、ドレスの胸元に触れた。既に完成したそのドレスは、返事もなくそこにあるままだ。
首元まで詰められた、襟のあるドレス。開いた胸元の脇から、襟として広がるそのレースのラインが美しい。遠目には地味に見えるかもしれないが、薄く重ねられたレースが脇を飾る。その姿は、まるで蝶のように揺れ、ほっそりと手首を包むレースと合わさって、更に複雑なレースの模様のようにも見せる。真白な糸と、それを紡いで作ったレースのドレスは、主を待って、そこにあるのだった。
美しい。禁欲的で、華やかで、主を引き立てるはずの、完璧な。
「……泣かないで。泣くのは、ベアトリスだけで十分だ」
伏せられた睫毛が、ベリアルの頬に影を作る。微かに俯いた頭のせいで、さらりと髪が揺れた。
ジーナは無言でベリアルの元へ寄って、主を見上げた。
「……闇の色に、染めてあげる」




