2.海が開ける時①
すみません。伯爵→侯爵に訂正しました。(6/28 19:00)
きい、と木戸を開いた音がする。窓もなく、陽が届くことのない地面の下。淀んだ空気は見えないが、腐って身体にまとわりつくような気さえする。
闇の中を壁伝いに進んでいく。壁はひんやりとして冷たい。壁はまるで触れられるのを拒むかのようにごつごつしていた。……誰かが、手作業で掘り進めたような粗さが目立つ。
天井も低く、幅も狭い通路だ。進むたびに、なにかの深みに嵌っていくような感覚に囚われる。意識ごと――そう、意識だ。意識を引っ張られるような奇妙な感覚。
それに耐え、ようやくもう一つの扉が行く手を塞いでいるのを見つけた。扉はあっけなく開く。すると中はぼんやりと明るかった。松明の火のせいだろう。
……ここへ来るのも幾度目か。ようやく、と達成感が胸を満たす。
部屋は円形で、大人三人が入れば埋まるような狭さ。突き当りには祭壇が設けられている。いつからあるのかは知らない。随分古めかしい金属でできていた。そして、その祭壇は今、血に塗れて煌々と輝いていた。
血は、祭壇を伝って床へ流れ落ちている。……ぴちゃ、ぴちゃと定期的な音を奏で、ゆっくりと伝っている。赤い血は、松明のせいか黒く見えた。
伝う血の元をたどれば、祭壇の最上部に果物のようなごろごろとしたものが幾つか。輪郭だけでも、そこに何があるのかは知っている。供物だ。
――そして、祭壇の手前の床。床を染料で染めたのか、複雑な魔法陣がはっきりと描かれている。今それは見えない。ここに、目覚めるべき者を寝かせてあるからだった。
「……もう少し、お待ちになって。ここは寒いでしょうけれど、もう少し……」
愛しさが溢れて、思わず眠る人の頬を撫でた。……冷たい。物のような温度だった。
今は仕方がないのだ。いずれまた、あの夜のような熱を、あなたに――。
術が成功すれば、この方はまた、戻ってくるのだ……。
「ああ……」
そっと口づけた唇からは、死者の味がした。
***
サミュエルはご機嫌だった。それはもう、この上もなく。今なら例の壺も気合で壊せるかもしれない。
「いやあ、世界は輝いているね! 見てよこの天気! 悪魔の僕でさえ、今この時人々の幸せを願ってもいいぐらいだよ!」
そして鼻歌。ノリノリで作業を進める少年に、マルファスは果敢に問いかけた。
「それ……完成させるおつもりなんですか」
ふざけた質問が聴こえた。
「お前ねえ、本当にわかっていないよね。もう縊り殺しちゃうよ」
にっこり笑って振り向けば、カラスは縮こまって青い顔をしていた。
「……すみません」
訃報が知らされた後も、サミュエルは小さな手でコツコツと婚礼衣装の作成を続けている。今は裾のレースを幾重にも取り付けている途中だ。……慎重に、慎重に。けれど時々うふっ、という喜びが漏れる音が漏れてしまう。早速今もだ。おっと、いけない。
「ジーナ、ジーナ!ちょっとココを抑えていておくれ」
大きな鳥は、どこからか飛んでくると人型になって落ちてきた。虹色の長い髪をおさげにまとめた無愛想。ベリアルの使い魔の一人だ。
ジーナは指定されたドレスを裾を慎重に掴んで微動だにしない。
「……いいけど。お昼、過ぎてる」
「んー? あとでね。僕の食事よりベアトリスの衣装の方が大切だからね」
食事、と呟くジーナを尻目に、ふんふんと鼻歌は続く。ある意味、絶好調だ。
ジーナはちらりとマルファスに視線を向けた。
「……ご機嫌な理由は、憎き恋敵が死んだから」
「それぐらいは俺も知ってるよ」
「主が殺したいほど憎んだ恋敵が死んだ。しかも寿命ではなく。……主にとって、こんなに都合の良いことはない」
「そういうことさ。ベティが閉じこもってしまっているのは耳にしたよ。可哀そうだよね……けど、他の男に心を移すなんてさ。少しはお仕置きもしないと」
くす、と笑んだ少年の目は金色の輝いている。
マルファスもジーナもその目を良く知っていた。殺戮で遊ぶ時の虐げる目だ。
「……主、目が金色になってる」
「おっといけない。ふふ、力が抑えきれなくて困るよねぇ」
「……魔力が滲み出てますよ、ベリアル様」
「おっと、いけないいけない。さ、早いところ作業を進めてしまおう」
ベアトリスの婚約者の訃報が知らされたのは、侯爵家の使者からだった。ドレスが完成する半月ほど前からそわそわと毎日のように出入りしていたから、彼女に会わなくなって、もう一ヶ月ぐらいになるだろうか。
その時、サミュエルの頭の中に呼び声が響いた。床にぼうっと魔法陣が浮かび上がる。
「……まさか召喚ですか」
「主……?」
「あー……もう」
途端、少年は不機嫌な表情になった。しゅるると魔法陣が掻き消える。
ジーナとマルファスは目を見合わせて、サミュエルの様子を窺った。
……召喚をゴリ押しで追いやったらしい。
と、そこに。けたたましい騒音が突入してきた。
「やあ! ご無沙汰しているね。事件だよサミュエルくん!」
「僕は別に事件じゃないですよ……シャルル警部」
カランコロン。一日に開くか開かないかの頻度の扉は、時折この人物によって激しい動きを強要される。勢いで扉を開けるの、やめてもらえませんか。ジーナがぽつりと言った。
シャルル警部――マッキンゼー領を担当する王立警察庁の警部殿だ。
パリッとした細身のコートに三つ揃えのスーツ。磨かれたピカピカの革靴。サミュエルは一瞬で一通りの観察を終えた。この服装に幾らかかっているのか、おそらく値段に頓着しなさそうな警部殿は知らないだろう。
ベアトリスのマッキンゼー領の隣に位置する、ハートフィールド侯爵領の三男様だ。理由は知らないが警察なんぞに情熱を燃やしている。
警部のくせに、正義感で街を駆け回っているシャルルは知名度が高い。何より容姿端麗に加え、どこで間違ったのか金髪のおかっぱ頭だからである。
「サミュエルくん! 今回は大変なんだ。事件なんだよ!」
ある事件で関わって以来、こうして何かと泣きついてくるのが、サミュエルは面倒極まりなかった。ただでさえ今はベアトリスのドレスに忙しい。
「そうですか。どうせ食い逃げとか猫探しの類でしょう。僕は忙しいんですよ、お帰り下さいさあどうぞ」
サミュエルは顔の皺を寄せるだけ寄せて不快を示してみた。
だがシャルルの前にそれは効かない。
「違う違う! 殺人だよ。しかも連続殺人事件なんだ!」
おお、神よ! 一気にしらける三人の前でシャルルは天を仰いだ。
悪魔の目前で良い度胸である。
「帰ってください。というか、恥ずかしいと思わないんですか。僕のような子供に警部殿ともあろう方が助力を乞うなんて」
シャルルは思わぬことを言われたといわんばかりにきょとん、と目を瞬かせた。
「思わないさ。だって君の洞察力と推理は素晴らしいもの」
サミュエルは気まり悪そうに視線を外した。「……主、頬、赤い」と、ジーナ。
こいつの素直さはやたらむず痒く、サミュエルは苦手だった。
「あー……警部殿。今は本当にサミュエルは忙しいんですよ。ベアトリス嬢からドレスのご依頼を受けていまして」
「なんと! あ、いやしかし……マッキンゼー侯爵令嬢か。ベアトリス嬢も可哀そうに……」
シャルルは言葉を濁した。婚約者の件を知っているのだろう。
「そういえば、死体もあがらなかったそうじゃないか。お気の毒に」
「そうですか」
そうなのか。ちょうどいい。そのまま魚の養分にでもなるといい。
「うーん、それもねえ。やっぱりうちの管轄の事件だからねえ。航海中の嵐の中で行方不明になったらしいと聞いているよ。なにしろ船上での話だから、捜索以外は棚上げされているようなものなんだ。……残念なことだけれど」
捜索されているだけ上々であるということを、サミュエルは知っている。
海で――ましてや嵐で行方知れずとなる者はそう珍しくない。余程高貴な身分でない限りは捜索されることはないといっていい。捜索して他の誰かが犠牲になる可能性も高いからだ。おそらくマッキンゼー侯爵の計らいで、死体探しが行われているのだろう。
それはともかく、とシャルルは咳ばらいをした。ちょこっとでも話を聞いてもらおうと必死である。
「今回の連続殺人事件はちょっと奇妙でね。女性への暴行や強盗が目的ではないんだよ」
「というと?」
マルファスが促す。
「うん。現在確認できているだけでも、この所領で五つの殺人による死体が発見されているんだが、全員心臓が抜き取られていてね」
「……心臓がない?」
サミュエルだけではない。ジーナもマルファスもシャルルの方へ向き直った。
「外傷は様々なんだ。だから凶器は別々だし、傷の具合からも犯人は一人じゃない。だけど、心臓を抜き取るっていう点が一致している。これって目的を同じくする者たちの犯行じゃないかと思うんだ」
猟奇殺人かなあ。と、やや青い顔をしたシャルルが項垂れる。警部の癖にグロテスクなものやオカルトめいたものが苦手なのだ。
「……心臓、だけ」
ジーナが確認するように呟いた。うっかり味を想像して舌なめずりまでしている。
生き物の、中でも人間の心臓を狙う者は多い。心臓は魂を捧げることに近く、悪魔が好んで食べるのはもちろん、同じ人間であっても呪術に用いる場合もある。
マルファス、とサミュエルが呼ぶと、彼はすぐに頷いて店を出て行った。
「おお! 助手を動かしてくれるのだね、サミュエルくん!」
「……ああ、なんだ。まだ居たんですか」
そういえばいたな。サミュエルは思考の内に沈んだ自分を引き上げた。
同じ目的、という点で、連続殺人なのは間違いない。だがサミュエルは犯人には興味がない。
心臓の使い道の方だ。
「とりあえず、僕も考えておきます。さ、もうお帰り下さい」
「え、え、ちょっとー!」
ジーナはずんずんとシャルルの背を押し、扉から追い出して素早く施錠した。
心臓が、五つ。
正確な回数を覚えてはいないが、サミュエルは確信していた。
心臓は贄だ。
――悪魔ベリアルを召喚するための。
***
……ふわり、ふわりと、ベッドに沿うように広がる絹のカーテンが揺れる。その向こうには、薄い色の青空が広がっているのが見える。真昼の白い光も、部屋を満たしていた。
その様子を、繰り返し、じっと。静かな目が見つめていた。陽に当てれば眩しく映る金髪も、光を失って乱れてベッドの上に広がっている。
ウエーブのかかったその髪は、青さを伴う白い頬に影を作り、彼女を一層悲壮に見せる。
この様子に耐え切れなくなった母親が、泣きながらこの部屋を出て行ったのはいつのことだっただろうか。
もう、幾日が過ぎたのか。それすらもきっと、わからないはずだ。
「……ベアトリス」
震える声が、乾いた部屋の空気に響く。温かな陽射しさえ、妹の瞳に光を映すことはできないでいる。このような苦渋に満ちた声にも、彼女は反応すら示さない。
「ベティ」
呼び慣れている愛称が、こんなにも重く自分に圧し掛かる。ほっそりと美しかった手は、骨ばった痛々しい手に変わっていた。けれどその姉の声に何かを感じたのか、妹は微かに震えた。
そうして再び、乾いた頬を幾筋もの涙が濡らしていく。
「……あの人は、私をベティとは呼ばなかったわ。トリシァ、って」
ベアトリスという名前の愛称は複数あるが、彼女はベティと呼ばれることが常だった。トリシァもベアトリスの名前から作られた愛称の一つだ。
……たった一人。愛した彼の人だけが、彼女をそう呼んでいた。
特別な名前だった。
愛していた。
「どうして……、どうして…?お姉様、いないの…っ、アルヴィンが、いないの」
両手で顔を覆って絶望に打ちひしがれる妹を、姉は受け止めて抱きしめた。
数日しか経っていないというのに、妹の体は急激に痩せ細っているのがわかる。すらりとした肢体は、今は青白く、病人のようにも見える。
……いや、病人なのだろうか。
乱れた長い髪を、一筋ずつ、後ろへ撫で付けてやる。
「あい、たい……っ、お姉様、アルヴィンに、会いたい…っ」
「ベティ」
再び泣き崩れたベアトリスを見て、エリザベスは眉を寄せた。
快活な妹は、自分よりも勝気に映る。その妹が、部屋に閉じこもって泣き暮らすなど、一体誰が想像しただろう。あまりの悲嘆さに、母親は別室で同じように涙しているはずだ。周りのものを巻き込むような、こんな悲しみ方は妹らしくない。
……そう。妹らしく、なかった。
エリザベスは妹を抱きしめながら思う。
ベアトリスが田舎出の庶民を恋人に、また婚約者にした時、エリザベスはこの屋敷にいなかった。マッキンゼー侯爵家の長子として与えられた、侯爵領内にある自分の領地に赴いていたのだ。
知らせに慌てて帰ってみれば、既にそこには仲睦まじい二人がいた。
……妹らしく、なかったのだ。
小さい頃から仲の良かった姉である自分の言いつけを正しく守り、大きな瞳に美しいものを集め、明るく育った可愛い妹。それはこんな風に、傍にいる誰かのことも忘れて泣き崩れるような、そんな人間ではなかったはずだ。
エリザベスは、強く強く妹を抱きしめた。縋ってくる腕の細さに、叶えることの出来ない願いを口にする震えた声に、強く目を瞑る。
私にこんな無茶な願いを口にしたりするような妹じゃなかった。
私を邪険にして涙に溺れてしまうような、弱い妹じゃなかった。
ベアトリスは、やさしく、気高く、エリザベスを慕う、素晴らしい妹だったのに。
エリザベスは目を細め、可愛い妹の目蓋に口づける。彼女の赤い薔薇色の豪奢なドレスに抱えられた妹は、まるで小さな小鳥のようだ。
――あの男さえ、居なければ。
この妹が、涙に暮れることもなかったのに。
……あの男さえ、居なければ。




