1.Breakfastの闖入者③
紅茶を口にするサミュエルを見て、ふと何か思いついたようにベアトリスが目を瞬かせた。問うように首を傾げてみせるサミュエルに、ベアトリスは難しい顔をして口を開いた。
「……サミーの紅茶の飲み方。誰かに似てるのよね」
「……………」
誰かって誰。
思い出すように、ベアトリスは唸って紅茶の中に視線を落としている。
「紅茶の飲み方なんて誰でも同じだよ」
「そうでもないわ。ソーサーの使い方とか指運びって結構独特なのよ。サミーはとてもきれいに飲むんだけど、なんかそれが誰かに……」
……誰かに……。
ベアトリスは視線を宙に彷徨わせる。
思い出すような仕草に、サミュエルの頬が引き攣った。うっすら冷や汗が浮かぶが、目の前の彼女は気づいていない。
……そんなはずはない。思い出すはずがない。しかも今の自分は子供の姿だ。
(ないないない! だってちゃんとまじないをかけたんだから!)
今はまだ、ダメなのだ。
「……うーん……何だったかしらね……」
「ベティ? ベアトリス。こっちを見て。僕を見てよ」
ベアトリスが視線を戻す。サミュエルはすかさず、その顔に掌を掲げた。
『ねぇ、何を考えているのかな』
薄い緑色の瞳が、正気を失ってぼんやりとしていく。人形のように表情を失い、機械仕掛けのような言葉が口を開けた。
「……サミーに似ている人を知っている気がしたの……」
『それは、誰?』
サミュエルは眉を寄せた。……まじないが解けかかっているのか?
「……思い、出せない……」
『じゃあ、思い出さなくていいんじゃない?』
「でも、夢、で……」
夢で見るのか。どの程度なのか気になるところだが、夢の中まで伺い見ることは難しい。
『そう。でもそれは夢だよ――もう一度、忘れて』
ぐらり、とベアトリスの周囲が歪む。しばらくして、緑の瞳は輝きを取り戻した。
「……そう。……ねえいい加減話を戻してくれない?」
「あ、そうだったわ」
コホン、とざわとらしく咳払いをするサミュエル。慌てたベアトリスに構わず問いかける。
「衣装が遅れてる、って件だけどさ。一応自覚はあったんだね? ベティ」
彼女はその小さな一言に大きく反応した。テーブルに乗り出すようにして勢いよく口を開く。
「もちろんよ! 事前に連絡した時期より随分戻るのが遅くなってしまったのだもの、ドレスが出来るかどうか本当に不安だったのよ。先日こちらに遣いをやったけれど、サミーの返事が来るまで生きた心地がしなかったわ」
その心情を思い出したのか、ベアトリスは深いため息を吐きながらテーブルに突っ伏した。
その様子に、サミュエルは苦笑して背もたれに凭れる。
……確かに、予定より大幅にドレスの出来が遅れているのは事実だった。今頃、仮縫いに入っていてもおかしくはない頃合いの筈である。
だから、「早く帰ってこないと作ってやらないよ」と書いて返事をしたのだ。
……別に、婚約者とやらの元にいるのが耐えられないといった、個人的な要素だけではない。もちろんその返事に慌ててすっとんで帰って来たあたりは、彼の機嫌を向上させているのだが。
そもそも、デザインと寸法、それから細かな素材の選択などの過程は細かいものの、依頼主の彼女が店まで来なければならないのは主にデザイン決めと寸法を測る工程までだ。それさえ済めば、確認事項以外は仕立て屋の仕事だといってもいい。だが彼女は第一段階のデザイン選択の直後、この領地を出ていたのだ。
ベアトリスの身を包む特別な衣だ。サミュエルも魔法だけでなく手ずから衣装を整えてやりたかった。
「ねぇベアトリス。ハインリッヒではどうだったの。婚約者殿の両親に会ったんだよね」
ハインリッヒ地方はこのマッキンゼー領の隣に位置するシュバルツ領の東にあたる。シュバルツ領の極東にハインリッヒ山脈が聳えており、この地方は牧畜が盛んな一帯だ。
マッキンゼー領の中心部ともなっているこの街は、領地の西の端に位置している。隣の領地の東では旅ともいえるほどの距離があった。
彼女はその地まで、かの婚約者と共に彼の実家を訪ねていたのだ。結婚の報告と挨拶に。
……思い出すだけでも業腹だ。もちろん、二人が清い関係であることは把握済みだが。
突っ伏したままベアトリスは頷いた。
「ええそうよ。山脈付近にあるお家なの。羊がたくさんいて、見晴らしがとても良い所だったわ。……まあ、何もない所では、あったけれどね。元々アルヴィンはご両親に話してくれていたから、その点は問題はなかったわ」
ベアトリスの髪が、背中から流れ落ちる。……ああ、元の姿なら。この手で何度でも梳いてやるのに。サミュエルの目元が険しくなる。
「じゃあどうして一ヶ月も帰国が遅れたのさ」
サミュエルの心を散々乱れさせてくれた出来事だ。いくら魔法で様子を垣間見られるとはいえ。
悪魔の葛藤など露知らず。むくり、と彼女は起き上がった。
「……きっと、ご両親は帰したくなかったんじゃないかしら。帰ったら彼は軍に戻るのだもの。何度も引き止められたわ。……でも彼、その度に言っていたわ。結婚したら軍から離れるのだから、って。これが最後だから、って」
瞳の色を暗くして告げる彼女に、サミュエルは静かに耳を傾けた。
彼女の婚約者のアルヴィンは、海軍の航海士である。シュバルツ領は内陸なので海はないが、マッキンゼー領の西岸は海に面している。そのため、マッキンゼー領の軍には古くから海軍が存在していた。
以前、彼女が外遊で父親について航海に出た際に同船したのが彼であったのが始まりだという。軍人ではあるが、マッキンゼー領の私兵という立場であるのだ。彼はこの結婚が許されたと同時に、領主であるマッキンゼー侯爵より軍を抜けることを約束させられていた。そして、この街へ彼女が戻ると同時に、彼は最後の航海に出たということになる。
(……そのまま沈んで海の藻屑となるがいい。航海士よ)
ベアトリスの心労が、サミュエルの勘に触るのだ。どうしても。
テーブルの上で握り締められた拳に、サミュエルは目を伏せて自分のそれを重ねた。白魚のようなすらりとした手は、前よりところどころに小さな傷を持っているけれど、それはベアトリスの努力の証だった。
侯爵令嬢という立場から、庶民という立場にあるアルヴィンとの結婚を決意した……彼女の。
(ああ……腹が立つ。その男、いっそ今すぐ殺してやりたい)
サミュエルは身の内の獰猛な獣が牙を剥き出すのを感じた。絶対に結婚は阻止してやろうと思いはするが、その反面、彼女の想いを妨げたくはないとも思う。だからこうして、婚礼衣装の相談を受ける羽目になっているのだ。マルファスの言うことも一理あった。
本来であれば婿となる立場のアルヴィンこそが、侯爵家の慣習に順応することが求められる。だが、対外的にはそうでも、彼女はそれだけで良しとはしなかったはずだ。
サミュエルには、ベアトリスの気持ちが痛いほどに理解できた。これはそういう娘だ。
アルヴィンのしている生活を、できるだけ維持しようと試みたのだ。
「けどさ、侯爵が結婚を了承したというのには、随分僕も驚いたけどね。君を溺愛しているっていう噂だし」
(本当、愚かな侯爵だ。僕のかわいいベティに何てことしてくれたんだろうね)
牙を見せず、おどけて肩を竦めて見せると、ベアトリスは口元に笑みを作った。けれど婚約者の現状を思い出してしまったのか、その瞳はわずかに揺らいでいる。
「わたくしのことも可愛がってはくださるけれどね、家にはお姉さまもいるのよ。跡継ぎはお姉さまと決まっているわ。確かに羊飼いの息子だもの、出自に関しては家でも散々言われたわ。……でもお父様が航海に出られるときはね、いつも彼が傍で解説してくれていたんですって。だから、アルヴィンのことはご存知だったそうなの」
数回の航海を重ねるうちに、彼は侯爵のお気に入りになったらしい。まあ、それでも結婚となれば話は別だ。最初は良い顔はしなかっただろうが。
「……あのね、サミー。彼は本当に穏やかで、素敵な人なの。風の向きで天候を読んだり、海の流れで未来を予測できるなんて、すごいでしょ? 航海士ってたくさんの知識が必要だそうなんだけれど、あの人は一度もそれをひけらかしたことがないのよ。……きっと、侯爵令嬢なんて、世間知らずで何の役にも立たないだろうってことは、わたくしにもわかってる。でも、それでもね、君を望んではいけないだろうか、って、あの人が、言ってくれたの」
―――だからわたくしは、あの人のたった一人の妻になりたいって、思ったのよ。
船上の婚約者を思ってか、ベアトリスの表情は硬い。けれどこの航海から戻りさえすれば、彼は軍を抜けて侯爵家へ婿に入ることになるのだ。侯爵家の一員となれば、後継者でなくとも彼の両親も彼女自身も、案じることしか出来ない不安から抜け出すことが出来る。
「この航海さえ、終われば……」
わかっているわ、と彼女はぽつりと呟いた。
「そう」
航海はどうでもいい。キミの隣に立つのはそいつじゃない。
サミュエルは端然と笑みを浮かべた。
……一刻も早く、二人でこのドレスを眺める日が来ればいい。
彼女のために。何より、彼女のために。どうか、泣くことのないように。
……悲しむことの、ないように。
けれど、その隣に立つのはその人間じゃあないでしょ、僕のお姫様。
そう思ってサミュエルは静かに目を閉じた。
そうして幸か不幸か、予期せずサミュエルの希望通りに事が動いた。
―――ドレスが完成する間際になって、航海士の訃報が届いたのだ。




