1.Breakfastの闖入者②
「……まったく、人の気も知らないでいい気なものだよ。僕のお姫様は」
サミュエルは音を立ててベッドに腰掛けた。あーあと外見にそぐわないため息が出てしまったが、どうせ部屋には誰もいない。
だが気がつくと、窓辺にはカラスが一羽止まっていた。両開きの片方を開いてやると、カラスはちょこちょこ飛び跳ねながら窓を乗り越え――床に着地した瞬間に人型になった。黒一色の装束に、黒い髪。筋肉質の大柄な体格は褐色の肌をしている。
サミュエルは不機嫌な顔を隠しもせずに、ふんと鼻を鳴らした。
少年の美しいかんばせ。ベアトリスが好むこの顔は決して嫌いではないのだが、それでも大抵彼女に関わると憎くなる。カラス――マルファスの身体は男の性そのものを表すようで、余計苛ついた。
カラスの羽のような大きな黒い外套を翻し、マルファスは跪いて礼をとった。
サミュエルはそれを手で一払いした。鬱陶しい。
「いい。それより報告しろ」
耳に流れてくるのは幼い子供の声だ。今はそれすらも忌々しかった。
「城内の方は問題ありませんでした。……しかし王、ベアトリス様の婚礼はいかがなされますか。このままではどこぞの者とも知れない航海士風情に取られてしまいかねないのでは」
マルファスは金色の瞳を開き、酷薄そうな笑みを刻んだ。マルファスは悪魔だ。誰かの弱点を突いたり、嘘をついて惑わしたり、そういった精神を探るような悪戯が相手構わず出てしまうことがある。
だがこの日、悪戯した相手の機嫌も最悪だった。
途端、部屋中を真空の刃が豪風となって吹き荒れたのだ。室内の装飾は一気に倒れて派手な音を立て、風の刃は無言で一気に男に襲いかかった。男は一瞬風圧に耐えたが、すぐに刃の前になすすべもなく切り刻まれた。
相対する少年の寝間着はそよ風に吹かれる程度。彼の小さな掌は窓辺の男に向けられている。呻き声は風で掻き消え、身体の至る所を風が喰いちぎる。サミュエルは硝子のような目でそれを見ていた。
静寂を再び取り戻した時、マルファスは床に崩れ落ちた。大量の出血こそないものの、装束の大部分は切り裂かれて血が流れている。
かざしていた手を下すと、サミュエルは小さな唇で言葉を紡いだ――低音の男の声で。
『私は誰だ? 答えてみよ――』
項垂れたまま、男は必死に掠れる声を出そうとした。それを見下ろしたまま、サミュエルが軽く手をひらめかせる。突如、男の身体に骨が軋むほどの衝撃が走った。
『答えてみよ』
「ぐあああ……っ」
『おや、口も利けないのかい。悪魔ともあろう者が情けないものだ。私の配下にふさわしくないかもしれないねぇ』
くすくす、と笑う声は柔らかい。だが、マルファスは知っていた。不興をかったこのままでは、自分の命はすぐにでも掻き消えてしまうことを。
「べ、ベリアル様――」
そうとも。かつてソロモン王に封じられた過去を持つとはいえ、悪魔ベリアルの名は世に轟いている。封じられていた壺は開封されたものの、まだ破壊には至らない。だからこそ、涙を呑んでこの少年の姿に化けているのだ。
この姿も、美しいことはもちろん知っている。ベアトリスがかわいがって抱き寄せるのも、悪い気はしない。
だが本来の姿が絶世の美を誇るというのに、ベアトリスの前で晒すことができないのは口惜しかった。あの姿なら、あんなこともこんなこともできるはずなのに!
……そうすればきっと、ベアトリスも血迷って他の男に熱を上げることもないだろうに。
……堂々巡りだ。そして今日の要因はそれだけではないことから、彼の機嫌は最悪だった。
『そうだよ。マルファス、覚えておくんだね。私を怒らせるものではないよ、詐欺師風情が。知っているだろう? ベアトリスは、私のものだ』
傷一つない子供の手が、血にまみれたマルファスの顎をくいと持ち上げ、持ち主と視線を合わせる。
「申し訳、ありませ……」
ああ、つまらない。ふん、とサミュエルは興を削がれたようにそこから離れてベッドに腰掛けた。ねちねちと弱いものをいたぶる気分ではない。
「それで? 手段の方は見つかりそうかい?」
少年の両足をベッドからブラブラと揺らす。
「ソロモン王の子孫の周辺を洗っているのですが、なかなか……」
王家のものでさえ、封印の壺には近寄らないようにしているらしい。あの強大な力を前に、子孫にもなすすべがないのはベリアルにも理解できる。
「あのクソ忌々しい王の子孫か。あの壺さえこの世から消えてしまえば、すぐにでも四肢を千切って腸を食い破ってやるものを」
マルファスの頬を汗が幾筋も伝っている。呼吸も荒く、掠れている。……ああ、私は不機嫌だからな。とベリアルの意識で考えた。この部屋の空気は限りなく圧迫されて無きに等しいのだろう。どうでもいいことだ。
ソロモン王の壺。かつてクソ忌々しいあの王に封じられた壺だ。七十二の悪魔が封じられていたと聞く。壺の中でみんな仲良く一緒に過ごしたわけではないので詳細は知らない。
だがおよそ十年ほど前、阿呆な魔術師がうっかりそれを開けたらしい。
(うっかりといっても、どうせ悪魔の知恵に惹かれた阿呆であろうが……)
そこから逃げ出したはいいが、壺は今も無傷のままである。それが問題だった。あの壺の封印の力は侮れない。つまり。
ソロモン亡き今、あの忌々しい壺さえ破壊できれば憂うものなどなにもなくなるということだ。
だが、ベリアルの不機嫌な理由はそれだけではなかった。
「――最近、頻繁に私を呼ぶヤツがいる。もううるさくって仕方がない。いっそ殺してしまおうか」
「……ベリアル様を召喚しようとする人間がいるということですか」
何て身の程知らずな。思わず男は血まみれの顔を顰めた。
「私もお前と同じことを思ったよ、カラス。身の程知らずもいいところだと思わない?」
「仰る通りです……」
悪魔の召喚はさほど珍しいものではない。姿かたちを持たない下級悪魔であれば、悪霊として人間に憑依させて利用することは有り得る話だ。
だが、ソロモン王に封じられた七十二柱の一人、悪魔ベリアルは王の位を持つ。八十の軍を率いる王なのだ。
とりわけベリアルは供物にうるさいことでも有名だった。
自分でいうのも何だが、そう簡単に召喚できる悪魔ではない。
「そっちは無視していればいいんだけど。……最近、匂うんだよね」
匂いとは、すなわち悪魔の匂いのことである。
問うように鷲色の瞳を向ける。だが、マルファスは首を振った。
「申し訳ありません。私めには、何も」
「そう。じゃあ、よっぽど隠しているんだろうね。私にもほのかにわかる程度だから。詐欺師のお前はこういうことに敏感じゃないかと思ったんだけれど。……ま、別に僕の邪魔をしなけりゃそれでいいけどさ」
召喚。漂う他の悪魔の匂い。そして何より、ベアトリスの婚約。ただでさえ気難しい悪魔の機嫌を損ねるには十分な要素だ。
「王の御膝元で動ける悪魔は数少ない。言いたくないけど、ただでさえ、あそこには憎い壺があるしね。だからとりあえず、そっちは置いておくとして……やっぱり一番重要なのはベアトリスのことなんだよ!」
あああ! と頭を抱えるベリアルを、マルファスはそっと視界から外した。
「ベリアル様、ベアトリス様の御衣裳はお仕立てに?」
ぷう、とベリアル――サミュエルは少年らしく頬を膨らませた。
「つくってるよ! 仕方ないじゃないか。ベアトリスが『お願い』って言うんだからさ」
かつて魔界でその美貌と同時に麗しくも華美な装いで流行を支配した悪魔でもある。ベリアルは少年の姿をした今でさえ、身なりにうるさかった。
仕立て屋の隠れ蓑は意外と性に合っているが、愛した人が他の男と一緒になるためのドレスを仕立てる気は毛頭ない。
余談だが、少年が一人で仕立て屋をやっているという社会的な違和感は、悪魔二人の念頭にはなかった。
「では……?」
何かに気づいたように、マルファスは問う。確信した声だった。
「まあね。だけどそれだけじゃあ、僕の気が済まないから。何とかしなきゃね。……まあ、もう僕は眠いから寝るよ。この小さい姿じゃ徹夜は難しいみたいだ……ふあ」
サミュエルは大きなあくびをした。やはり眠い。
ベッドに横たわった時、既に黒い影は消えていた。
もうちょっと苛めて憂さ晴らしでもすればよかったかもしれない。マルファスが聞いたら卒倒するようなことを思いながら、サミュエルはむにゃむにゃと仮眠を貪るのだった。
***
サミュエルは仮眠を短めに切り上げた。ベアトリスが一階の簡単な掃除を終えて、紅茶の支度を整えた程度の時間だ。
仕立て屋の主にふさわしく、店主はきっちりと服装を改めていた。真っ白なシャツの襟はぱりっとした、身丈にあったものを。合わせているベストは、薄茶色をベースに、春の色を先取るような黄緑と淡い黄色のチェック。その裾には店と同じマークの刺繍が入っている。
ふと、この印を見て思い出す。以前、ベアトリスに二重のダイヤを意味を尋ねられた時のことだ。「一応、目印だからね」と答えたけれど、意味はわかっただろうか。……いや、わかるはずがないか、とサミュエルは頭を掻く。明らかに十歳には見えない仕草だ。
階段を下りる華奢な少年の足を包むのは、一目で上質と分かる白い細身のパンツ。硬いキャメル色のブーツが映えるのだ。ぴょこぴょこと跳ねていた髪の毛先は撫で付けられ、天使の輪が見えに輝いている。
今日も僕は完璧だ――サミュエルは鏡に向かって絶賛した。
ベアトリスはサミュエルの姿を認めると、感嘆のため息を漏らした。「かわい過ぎるのよ、サミー!」
……非常に一部不本意だが、褒められているのは間違いない。……はずだ。
サミュエルは満足げに頬を緩めた。そう、少年の姿でも十分に美しい。そうだろう?
(だけどさ、かわいいって何度も何度も言わなくてもいいんじゃない?)
サミュエルは、胡乱気に眉を寄せて見せた。形の良い柳眉を寄せたところで、彼のきれいさは少しも損なわれていないのだと少年は知っている。
「この装いのどこがかわいいって言うのさ。完璧な紳士でしょ? ……天下の侯爵令嬢だからって……」
それだけは許せないよ、とにっこり微笑んでやると、ベアトリスは慌ててサミュエルの頬にキスをした。二人の間にある、仲直りの儀式である。
……別に、このためにふざけたわけじゃない。冗談を言っただけだ。……そうだとも。
だが一瞬でサミュエルの笑顔が本物に戻ったことに、ベアトリスは安堵したようだった。
服装に人一倍こだわるのは仕立て屋の性かもしれないが――というあたり、やはり仕立て屋の選択は正しかったと言えるだろう――サミュエルは価値観を否定されるのが何より嫌いだった。
一番こだわっている服装にケチをつけるなど……彼女だけでなく誰にもできないに違いない。ついでに意中の彼女に何度もかわいいと絶賛されるのは複雑な心境である。
(僕のセンスは完璧。これは僕が悪魔だからじゃなくて、僕の才能なの)
天に与えられた才ではない。そこだけはきっちりしておく。
サミュエルはこの話に飽いて、そっけなく来客用の席に着くと冊子を広げた。
数冊の資料はベアトリスに見せるためのものだ。今日は仕事の話をしなければならない。
ベアトリスが声をかけられるままに向かいに座る。店主の顔になったサミュエルは資料を彼女に開いて見せた。
冊子には数枚のデザイン画と、布地がくくりつけてあった。どれもドレスのデザイン画で、サンプルの布地も白地のものばかり。光沢やレースが数種類ずつ取り揃えられている。
特別なドレスのためのものだ。ベアトリスの婚礼衣装のための。
サミュエルはデザイン画の一つを指した。
「これが前回までに決まっていたドレスのデザインだよ。大まかに作ったのがあれ。あそこに飾ってあるのは、あくまで試作品に過ぎないんだ。どうせきみがしばらく来ないことはわかっていたから、イメージの役に立つかもしれないと思って一応作ってみたんだけど」
ちらりと目線でショーウインドウのドレスを示す。先ほどお触り禁止とされたドレスである。
ベアトリスの目が、広げられたデザイン画たちに集中していく。その様子を、おかしそうにサミュエルは眺め見た。真剣にドレスの出来を気にするのは、彼の目には大変可愛らしい様子に映る。……当の本人が散々かわいいと賞賛されている事実はこの際置いておくとして。
サミュエルはデザインの説明を始めた。
「この前のままなら、上半身は繊細なレースを布地に合わせて……控えめに身体のラインを出すかんじかな。代わりにスカート部分に膨らみを大きく持ってこようと思うんだ。いいレースのデザインが出来上がったから、ベティさえ良ければこれを使いたいんだけど、どうかな」
そう言ってファイルの中からレースのデザイン画と、実物の一部を見せる。複雑に細かく編みこまれた糸が、更に幾何学的な模様で大きなアーチを作っている。布地にレースを重ねあわせて、要はレースで出来たドレスのように見せると言っているらしかった。
見せられたデザインの複雑さに、ベアトリスは一瞬ぽかんとした。
「サミー。ドレスの生地になる規模のレース編みなんて……しかもこんな精巧なものを……時間もかかるし高価すぎないかしら。わたくしでも見たことがないもの」
レースは編むのに大変な手間と時間がかかるため、費用に関係なく大きいものが見られるのは稀である。多くはテーブルに敷かれる大きさが精々だ。
けれど「問題ないよ」とサミュエルが答えた。想定内の質問だった。
「とある筋とレースの製造を直接契約したんだ。今回はちょっと特別なお客さまだし、ね」
(僕が魔法でなんとかするんだけど)
サミュエルはウインクした。
ベアトリスがおずおずとそのレースの欠片に触れるのを、サミュエルは黙って見つめていた。彼女の気持ちが手に取るようにわかる。
……だから、余計におかしかった。少年の小さな唇が笑みを潰して歪む。
「とっても素敵だわ。こんな繊細な模様のウェディングドレスが出来たら、素晴らしいわね。でも、サミー……私が言うのもなんだけど、でもあと三ヶ月しかないのよ。総編み込みレースのドレスなんて、どのぐらい時間がかかるのかしら」
がっくりと金髪を垂らして落ち込んだ様子に、サミュエルは堪えきれずに声を上げて笑った。
「そ、そんなに困った顔をしなくても……ベティ、顔をあげてよ」
レースのデザインに満足していたのはわかったし、欲しいと思ったのも知っている。でもなかなかそれを口にできないのは、お菓子を我慢する子供のようだ。
(……本当に変わっていないな)
あのときも、自分からお菓子に手を伸ばせない子だったのだ。欲しかったくせに。欲しいといえない。
(僕が口へ放り込んであげなきゃ、食べないなんてね)
素直じゃないんだから。だが、そこも愛おしかった。
吹き出すのを堪え、思わず傍らの紅茶を口に含んだ。彼女が熱心にデザイン画を眺めていたせいか、中身の朱色のアップルティーは既に冷えていた。




