1.Breakfastの闖入者①
爽やかな青空の日。ベアトリスは店へ向かっていた。しかも、徒歩で。
湿気が少ない土地の気候と、春の駆け出しであることもあって、連日爽やかな天候が続いているらしい。街の中心を走るこの大通りからは、ずっと向こうにてっぺんの尖った白い城が見える。霞むほどに高い城だ。
見上げて、深呼吸。……この空気と景色でようやく、故郷へ帰ってきたことを実感する。
昼時ともなれば活気と人で賑わうこの大通りも、時間がずれているためか、今は閑散としていた。
それにしても、とベアトリスは、すみれ色のハイヒールに視線を落とした。この道、歩きにくいことこの上ない。もう脱ぎたい、と心底思った。足が痛いのである。
実は今回、あの店へ徒歩で向かうのは初めての試みだった。もう十六歳になったのだから、これぐらいは許されてもいいだろう。……今回は無許可だけれど。
大通り一面に敷かれている白煉瓦は、マッキンゼー領の特徴としても名高いものだ。いつも乗っている馬車の中から、それは美しく見えるものだ。晴天の日が多いこの地域。高く広がる青空の下に白煉瓦。この組み合わせは、確かに景観としては見事だといえるのかもしれないけれど。
それだけだったのね、とベアトリスは思った。初めて知ったのだ。褒め称えられることの多い煉瓦の道は、けれど足で踏みしめてみると、でこぼことして歩きにくいことを。
……ああ、だからなのだろう。ベアトリスは薄い緑色の瞳を動かした。
道行く人を見ると、皆踵の低い靴を履いていた。ベアトリスのように、ヒールが細くて華奢な靴を履いて歩いている人はいない。柔らかそうで、ごつごつした大通りでも足を痛めない靴は、歩くための靴なのだ。なるほど、理に適っている。ベアトリスは妙に納得した。
長い髪が、靴と同系色のドレスに触れながら揺れる。すれ違う人が時折こちらに視線を投げかけてくるのは、この髪のせいだろうか。それともドレスか。ベアトリスはふと不安になった。しかも見上げた屋根の上に、カラス。……なんだかこちらをじっと見ているように見える。不吉すぎる。
誰かの伺う視線というのは、こうして自分に劣等感を抱かせるように感じる。あまり華美な装いは好きではないから、ドレスに使われているレースも控えめなはずなのだけれど。……もしかして、周囲から浮いているのだろうか。
ならばやはり、とベアトリスは視界で揺れる髪に触れた。原因はこっちだ。
あたたかな陽射しを受けて、きらきらと輝く黄金の髪。これが嫌いなわけではないが、城下町を一人で歩いていれば、目立つのも仕方のないことなのかもしれない。
金の髪は、貴族の証だから。
目当ての店は、大通り沿いに並ぶ店の中に紛れるようにたっていた。
古くからある通り沿いの建物は景観保持のため、目立つように建て替えることができない。よってそれぞれ、店の内装に力を入れたり、看板に工夫を凝らしたりする。けれど、この店はひっそりとした佇まいでそこにあった。店と店の間に埋もれるようにある小さな店。ベアトリスは立ち止まってショーウインドウの前から店内を覗き込んだ。
店の正面からは、金色の取っ手がついた扉と、それ以外の面積を占める壁一面の巨大なショーウインドウのガラスしか見ることができない。そして扉の上に小さく備え付けられている木製の看板には、文字がなかった。看板には、二重のダイヤが描かれている。外側のダイヤには、鮮やかなグリーン。内側のそれには、明るいピンクの塗料が塗られていた。どうもいわくがあるらしいのだが、それを彼女は知らない。店主がのらりくらりと言葉を濁すからだ。
それをちらりと確認してから、ベアトリスはショーウインドウに視線を戻した。
磨かれたショーウインドウの隅に、カーテンで隠すように一つのドレスが飾られている。
それを見つけてベアトリスは一気に頬を紅潮させた。
白いレースのカーテンにほとんど隠れてしまっているが、ドレスはボディに着せられたままで、作りかけのままのようだった。
あれはたぶん、自分のドレスだ。
―― 一生に一度、誰かのためにだけ着られる純白のドレス。
その時、小さく鐘が鳴った。扉に見ると、かすかに扉が開いている。
「……なに、やってるの? そんなところにいないで、お入りよ」
甘いミルクのような、子供の声がした。
けれど、扉の取っ手には誰の手もかかっていない。店の主は相変わらずのようだ。ベアトリスは苦笑しながらさらに視線を下げて、扉の隙間に挟まっている黒い塊の頭を撫でた。
「あなたもこんなご主人で、大変ね。パトリック」
そう言って、金色の取っ手に手をかけた。
明るい色の、木製品がぽつぽつと並んでいる。そこは簡素でありながら質素ではなく、空気に重みが漂うような、不思議な雰囲気の店だった。店といっても商品があるわけではない。ここは店主の工房のようなものだ。一つ一つ、誰かのために服を仕立てては消えていく。だからここに残る品は一つもない。
扉を閉めて黒い塊――大型犬のパトリックが、のっそりとベアトリスを先導する。なぜかシーツを銜えているのだが、きっとずぼらな店主のものだろう。彼は非常に寝起きがよくない。ベアトリスは見なかったことにした。よくできた犬である。
短い廊下の突き当りには二階へ上がる階段があるものの、一階は扉からすぐ左にある一室しかない。外から見るよりずっと広いそこに入ると、広い室内はショーウインドウ側と奥とに二分されている。
ベアトリスは思わず、作りかけのドレスに近づいた。小さな窓から入る風に、白いドレスの裾が空気を含んで彼女を呼ぶように優しく膨らむ。その滑らかさと生地の艶に、思わず触れたいという衝動に駆られて手を伸ばした、その時。
再び先ほどの声がした。かわいらしい、やはり甘い声だ。
声は部屋の奥からだった。あふ、というあくびと一緒に。
「だめだよベアトリス。それはまだ作りかけなんだ。見ればわかるだろう? きみはまだ、触れないよ」
ぎくり、とベアトリスは身体ごと強張ると、悪戯がばれたような笑みを浮かべながら振り向いた。
「いやだわサミー。わたくしがそんなコトするはずないでしょ」
部屋の奥には四人がけの立派なテーブルがある。
その隣に、偉そうに片腕を腰に当てた店の主がいた。なんだかだらしなく壁に凭れている。大きめの白いシャツはしどけなく開かれていて、起きたばかりなのがわかった。
足元にはもこもこしたパトリック。彼はどうやら、次の世話へ移行していたらしかった。ナプキンを口にくわえている。それに気づいた主がナプキンを受け取ると、甲斐甲斐しい犬はのっそりと奥のキッチンへと歩いていく。
「きみの好奇心旺盛なところ、僕は好きだけれど。今のは信じられないな」
肩を竦めて見せた主は、もう一度大きなあくびをした。かなり眠いらしい。
「せっかく来てくれたのに悪いんだけど、僕全然寝てないんだよね。今朝方仕上げた一着があってさ」
ごめん、と言いながらもあくびは止まらないらしい。まったくもう、とベアトリスは呆れて見えるような顔をしてみた。けれどそんなものはポーズでしかない。ベアトリスはかわいいものに弱いのだ。そして この店の主の外見といったら。両手を上げて、無条件に降伏するしかない。
乳白色のぷにぷにとした肌に、ほんのり桃色に色づく頬。大きな飴色の瞳に、鷲色でツヤツヤのさらさらした髪。どこぞの優雅なお貴族様のような風体だ。名前はサミュエル。年は十歳。小さな店主は、口調に違わぬ高貴な外見をお持ちなのである。
ベアトリスはそのまま挨拶のキスをしてキッチンへ近づくと、まずテーブルの乱雑さにぽかんとした。 テーブルクロスはテーブルからずれて落ちかかっているし、籠の中のパンは冷えたままだ。いくつかフォークが散らばっているが、使用済みなのかどうかもわからない。
しかしサミュエルはといえば、椅子によじ登って籠へと手を伸ばし、気にした様子もなく食事を始めるところだった。
「サミー!いくらなんでもこのまま朝食をとるなんて……あ、こらっ」
ベアトリスが齧りかけのパンを取り上げる。
すると不満げな顔を見せて、店主は冷蔵庫の上に佇んでいた鳥に声をかけた。
「ジーナ、ミルクを」
極彩色のやけに派手で大きな鳥が、その声に足で冷蔵庫を開けて器用にミルクのビンをつまみあげる。 そのまま静かにテーブルに降り立つと、主のコップの脇にそれを置いた。
……なんて優秀なペットたち!
ベアトリスは呆気にとられたものの、すぐに反撃を開始する。
手早く髪をまとめ上げると、鞄の中からエプロンを取り出した。そして引ったくった籠のパンをいくつかオーブンに放り込みながら、既に沸騰していた湯を鍋に移す。野菜籠から適当に葉物を取り出して刻むと、それをウインナーと一緒に鍋に入れた。フライパンで卵とベーコンを焼いて、冷たい水に浸した野菜でサラダを作る。それらが一度に行われると、すぐさまテーブルの上を片付けてコップにミルクを注ぎ、料理を並べる。これで完成だ。
「どうぞ!」とベアトリス胸を張って微笑んで見せた。すると頬杖をついたまま、店主は意地悪そうに笑いながら彼女を見やった。その顔もかわいいのだから、本当にずるい。
ベアトリスの相貌はいささか派手で、両親や姉ととても似ている。褒めてくれる人もたくさんいるから、不細工ではないかもしれない。だが、ベアトリスはこの子栗鼠のようにかわいい顔に生まれたかったとこっそり思っている。これは彼女だけの秘密だ。
「さすがだね。よくもまあ、短期間で成長したもんだよ」
ちょっと呆れたようにサミュエルは言った。少しの揶揄などベアトリスは気にしたりしない。
「あらお言葉ねサミー。これぐらいはロックフォード家じゃ出来て当然ですのよ」
「ふぅん、マッキンゼー家じゃないわけだ。それといい加減サミーは止めなよ。僕はサミュエル」
そこまで語調を合わせると、改めてサミュエルはテーブルに並ぶ料理を眺めた。ベアトリスはどきどきしながら彼の顔を見つめていた。きっとサミュエルは三か月前のことを思い出しているに違いない。あの時も、ベアトリスは同じように食事の準備をしようとしたのだ。
結果は悲惨なものだった。パンと卵焼きは炭化して、味の薄すぎるスープだけがぽつんとテーブルに乗ったのだ。支度中はアクシデント続きで覚えていないが。
ちらり、と目線を上げて、サミュエルは天使のような笑みをくれた。
「でも本当にすごいよ、ベティ。上手になったね」
その言葉だけで、ベアトリスは頬が熱くなった。きらきらした笑顔は反則だ。
もじもじしているうちに、サミュエルが食事に手を伸ばした。温かく、香ばしいパン。湯気の溢れるスープもいい塩加減になっているはず。ちゃんと野菜と肉のバランスも考えた。教えてくれた人を思い出して、ベアトリスは何度目かの感謝を捧げた。――ありがとう、義母様。
……こんな、簡素なものだけれど。
ベアトリスにとっては、大きな試練の一つであった。それが恥ずかしいけれど、誇らしい。それでも、旅での出来事を思い出して、ベアトリスはしゅんとした。まだまだできないことの方が多いのだ。
生活の知恵や技術はまだまだ覚えなければならない。
「でもまだまだよ。アルヴィンはね、牛からミルクを取ることだってできるのよ。羊を動かすことだって」
「いや、そこまでできなくても」突っ込んで、サミュエルは黙った。
ベアトリスはもぐもぐと懸命に食べるサミュエルを見ながら頬を緩めた。一人で動物たちと住んでいて、その小さな手からは魔法のように衣装ができる。たった十歳なのにといつも思うけれど、体格以外は老成していて、不思議な少年だ。けれど、色眼鏡なしでベアトリスを見ていてくれる、貴重な友人なのだ。
「……幸せなんだね。ベティ」
高い声が、陽光で温められたようにじんわりと部屋に響いた。
ベアトリスは片づけを始めながら、席からこちらを見ているサミュエルに微笑んだ。――きっと、ベアトリスがなにを思っていたか、この店主にはわかるまい。もちろん、彼女の心を占めているのは彼だけではないのだけれど。
「ええ。本当に幸せよ。こんな幸せって、本当にあるのね。サミー」
ベアトリスは太陽のように笑った。