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前に、何度か寝た女の子が、今一番寝たいのは初めてのときの男だと言っていた。
「今ならどんなにだって気持ち良くさせてあげられるのにって思う。高校の同級生だったの。あっちもほとんど初めてみたいなもんだったし、こっちはただのマグロだったし。あれをあたしと思われたままってなんか悔しい」
女ってエッチしてきた男にすごく左右されるものだよね、と同意を求められたけれど、女でないので分からない。男も多少左右されるかもよ、とがっつり記憶の女に縛られている俺が言ってみた。
「初めての煙草は好きな男が吸っていたのと同じ銘柄とか、好きな男が聴いていた音楽にはまるだとか。興味もなかった車に詳しくなるとか、そういうの。全部男の影響」
「そういうもの?」
「女ってそういうものでしょ」
言い切ったのが気持ちよかったので、女すべてがそうではないだろうと否定するのはやめておいた。すべすべの肌と、てのひらに収まる小ぶりな胸のふくらみと。いつも梅ミントのガムを噛んでいたから、彼女の名前は覚えていなくても、思い出そうとするとあのガムの匂いが鼻の奥でよみがえる。
「じゃあ俺もなんか残すのかな」
「残るよ、残る、ちゃんと残る」
「――初めての男ともう一回会えて、それでセックスできるとしてさ、じゃあなにしてやりたいわけ?」
彼女は少し考えてから答える。丁寧なネイルの施された指を唇に当てながら。
「いろいろ、あたしが初めての人と別れてから積み重ねてきた、いろんな男に教えてもらった気持ちいいこと、今なら全部してあげられるのに、って」
「でもさ、それって男は喜ばないんじゃない?」
「どうして?」
「自分以外の男が教えたことなんて、しかもそれが気持ち良いことだったりしたらさ、敗北感っていうか。嫌じゃん、昔の女がそんな、レベルアップして目の前現れたら」
「分かんない、どうして? なんで敗北感なんて持つの? だって、記憶のあたしがいつまでもへたくそのマグロのまんまだったら嫌だもん」
男が処女を好きな理由を考えてみろ、とか言ったら機嫌を悪くしそうなので口にしなかったけれど、いつまでもマグロなままの可愛い君が記憶の中で花のように咲いてるほうが男は嬉しいもんだよ、というのは言ったら、思い切り嫌そうな顔をされてしまった。
「分かんない、全然分かんない」
「他の男に磨かれた初めての女なんて見たくないってこと」
「すっんごく気持ちよくしてあげられても?」
「すんっごく気持ちよくしてくれても」
「じゃあ吉村ちゃんはあたしが上手にお口使ったりするの、嫌?」
「俺はいいの、初めての男じゃないから」
「分かんない、本っ当に分かんない」
「男って意外と繊細なの」
喉の奥で低く唸るようにして彼女が意地悪く笑う。すぐにインポになったりするしね、と。俺のことじゃないから、きっと何番目かの男を思い出していたのだと思う。
「男って馬鹿みたい」
「そんな男に磨かれたくせに」
「そういう男達を踏み台にして女は賢くなるのよ」
そう言って賢くなさそうな丸いお尻をセクシーに振ったりして見せる。
数学研究室の前で怒ったような顔の安藤が立っていた。最近やたらと懐いてくる伊藤も、職員室からべったりとくっついてきていたところだったので、ちょうど良かったから利用させてもらう。
「ああ、ごめんな安藤、質問だったよな。じゃ、すみません伊藤先生、ちょっと数学の質問があるって言われてたんで、」
「吉村先生、じゃあ今度いつ空いてますか、僕の質問にもたまにはじっくり付き合ってくださいよ」
「ええと、また今度。おう、すまん安藤、じゃあ研究室で聞くから」
え、あ、ちょっと、あの、ええ、などと言って戸惑っている安藤を促して、伊藤に軽く頭を下げて研究室に入った。約束ですよ、の伊藤の声をシャットアウトするように扉を閉める。中は煙草の煙だけが残っていて、他の教師はいなかった。昼食の時間帯なので、出ているのだろう。
「助かった、本当に助かった、あそこにいてくれてありがとうな、安藤」
相変わらずの力強い眼差しが、それでも状況が飲み込めていないためか微かに揺らいでいる。
「伊藤先生、」
「あれ、安藤って伊藤先生の授業か」
「そうです、理科は伊藤先生」
「あの先生は、在校生と恋に落ちて卒業と同時に結婚するのが夢なんだ」
「えっ、結婚してないんですか?」
結構いい年ですよね、と安藤がひどく真面目な顔をして言うので笑ってしまった。いい年になっても結婚しない人はしないし、いい年にならなくても結婚する人は結婚する。
「気をつけろよ、悪い人じゃないけどいつでも恋愛相手を捜しているからな。安藤とか狙われるかもしれないぞ」
「え、嫌です」
「いや、嘘です」
「……わたし、人から好かれる顔とかじゃないんで」
そんなことはないんじゃないか、と言うと、不思議そうな顔になった。人よりちょっと美人だから、妬まれていじめられることはあるかもしれないけれど。
「あ、すまんな、なんか用事だったのか?」
ポケットにカンロ飴が入っていた。今朝、横沢先生がふたつくれたので、ひとつだけ舐めた残りだ。
これ、と安藤が手にしていたチェックの包みを俺に差し出した。
「……なに、」
「あげます。良かったら」
「……ええと、安藤はもしかして俺が好き?」
長く女子高で教師をしていると、こういう場面には何度か遇う。彼女達は様々なものを俺にくれる。調理実習のクッキーだったり、新しくできた雑貨屋で購入した灰皿だったり、ぬいぐるみだったり、手作りの何かだったり。そして言うのだ。直接的だったり遠回しだったり手紙だったり、伝え方の違いはあったとしても。結局みんな俺に好意を告げる。
だけど俺はこの不況で就職困難な時代に職を失いたくない。
生徒となにかあったなんていうのはご法度で、それ以前に食指が動く生徒がいなかったというのもあるのだけれど。
「……好き?」
けれど安藤は不思議そうな顔で首を微かに傾けただけだった。自意識過剰か、とこっちが赤面してしまう。
「あっと、いや、……カンロ飴やる」
煙草を取り出して咥える。照れ隠しだと分かっていても、それで少し落ち着く。ズボンのポケットにあった飴を取り出して、引き換えのように彼女の手から包みを取った。
「中身、なんだろ」
「吉村先生にお弁当あげよう、と思って」
「あ? ああ、今日はちゃんと飯食ったぞ、でもありがとな」
安藤は手の中にちんまりとカンロ飴を乗せたまま、じっとそれを見ていた。そして飴に話かけるように口を開く。
「卵焼き、教えてもらって焼いたんです。鮭って焼くと皮が焦げるんです」
「……鮭? 皮? 焦げる?」
「わたしが握るとおにぎりって三角にならないんです。あれってすごく技術の必要な食べ物だって知ってました?」
先生、と安藤が顔を上げた。この娘の目はどうしてこんなにきらきらしているのだろう。
「わたし、先生のことが好きなんですか?」
「悪いが俺は三角におにぎり作れるぞ――ん?」
「え、すごい、先生おにぎり三角にできるんですか?」
できる、っていうか、お前は俺になんて聞いた、と聞き返したいけれど、なぜか聞けなかった。わたし、先生のことが好きなんですか、って聞いたとすれば、どうしてそれを俺に聞かなくてはならないのか、それとも聞き間違いで、先生はわたしが好きなんですか、だとしたら、その答えは。
なんだろう。
「おにぎりって丸くもならないんですよ、みんなすごいですよね」
「……安藤は調理実習とかちゃんとやってんのか?」
「洗い物は得意です」
「おお……役割分担は大事だ」
「調理実習なんて、料理が得意な同級生が率先して勝手に作っちゃうし。下手に手を出すと怒られるだけです」
それを渡したかっただけですので、と安藤は言って、てのひらのカンロ飴を包みこむようにきゅっと握り締めた。
「ありがとうございます、先生はいつも飴くれますね」
「横沢先生が、」
「他の先生にあげるために買っておくんでしょう? 優しいってことですよね」
優しい。俺が。俺が? なんだか伊藤に冷たくしたことに、罪悪感がわいてきてしまったりする。安藤は俺からふいっと目を離し、失礼します、と言いかけて途中で語尾が途切れた。彼女の目が、俺に割り当てられた机のところで止まっている。
「どうした?」
視線を辿ると、佐藤がくれた写真が挟まっているところで止まっているように見えた。それ以外に変なものは入ってないよな、と確認する。数学クラスマッチの問題とか。そうだ、今週の金曜日に本番なので、最後の見直しをしておかなくてはならない。
「……写真」
「え、ああ、写真」
「わたしの持ってるマンションに似てます」
「……はい?」
わたしの持ってるマンション? 持ってるってなんだ、持ってる?
「あ、建物まるごとひとつじゃないですよ、その部屋のうちのひとつを持ってるだけです」
「おい、それでもなんか規模のでかい話だぞ?」
「先生」
「なんだよ」
「わたし、先生の秘密を知っています」
まだ火をつけていなかった煙草が、唇からぽろりと落ちた。バカみたいに口がぽかんと開いた。
秘密。
秘密。
秘密って。
なんだ。
安藤が俺を上目遣いで見る。特に表情のないその顔に、見覚えがあった。
あの女の。
やわらかな唇だとか。
「安藤っ、」
声がどこかひっくり返る。それに反応したのか、安藤は静かに腰を折って落ちた煙草を拾いあげた。はい、と渡されて、素直に手が出る。それじゃ、と安藤は俺に背を向けた。秘密を知っている、なんて意味深な言葉を吐いたのはまるで嘘だったかのように。
「ちょっと待て、というか、ええっと、」
「お腹壊さないようにしてください」
「……えっと?」
「お弁当初心者ですから」
「って、そうじゃなくて俺の秘密って、」
なんだ、なにを知っているんだ、と聞こうとしたとき、数学研究室の出入り口のところにある長机から安藤が置いてあったハサミを取り上げた。
「わたしの、秘密も教えてあげましょうか」
「……おい、お前は基本的に真面目な部類の生徒だよな、どうしたんだよ」
「分からないんです、わたし、先生のことが好きなんですか?」
さっきのは聞き間違いではなかったのだ。けれど聞く相手を間違えている。どうしてそれを俺に聞くんだ、どう答えればいいというのだ。新手の告白なのなら随分斬新だけれど、一歩間違えればただのおかしな娘になってしまうではないか。
ハサミを持っていた手が、気付けば肩より上にあった。あ、と思ったときには、刃先がふたつにしばられた髪の、左側に食い込んでいた。かさり、と長い髪が少しだけ床に落ちる。
「――あれ?」
マンガかなにかのように、一度にばさりと切り落とすイメージだったのだろう、安藤が戸惑ったような声を上げた。
「……無理だ、お前髪の量多いから。しかもそんな工作用のハサミで、一度に切り落とせるか、バ……カ……おいっ!」
一度に切り落とせないなら、と安藤は毛先の方をつかんで、細かくじゃきじゃきと切りはじめた。
「なにしてんだっ」
慌てて止めに入る。彼女の腕を取って、動きを封じる。そのままこちらを向かせてから手を離した。ハサミをそっと取り上げて、俺の机に置く。
「だって、わたしだけ先生の秘密を知っているのはずるいです」
「もうなんだよ、意味が分からんじゃないか、俺の秘密ってなんだ、俺はヅラじゃないぞ」
「……ヅラ? どうしてそんな話になるんですか」
「いや、お前がその長い髪を俺にくれようとしたのかと思って」
床にばらばらと切られた髪の毛が散っている。安藤のブラウスにも、髪が何本も何本も引っかかっていた。分けて結わえた、左側が無残なことになっている。
「誰が掃除するんだよ、これ」
「わたし、清掃美化委員です」
「……そうだったっけ、そういやそんなこと言ってたな。って、そうじゃなくて、お前なにしてるんだ」
「髪の毛を切ろうとしたんです」
「見りゃ分かるけどさ、切った髪の毛が金に変わるからそれを売ってくださいとかってのじゃないだろうが」
なんですかそれ、と聞かれてしまった。そういう童話はなかったっけ、と一瞬考える。涙が真珠になる、とかだっただろうか。
「髪の毛なんか美容院で切れよ」
「先生、これ」
なんだよ、の言葉が途中で止まった。安藤は髪をかき上げて、左のこめかみが見えるようにした。
そこに走る、ひきつれた大きな裂傷の痕が。
「……いつの、」
「これが、わたしの秘密」
「……最初から髪なんか切ってないで、そうやって見せれば良かったんじゃないのか?」
「あ、そうだったかもしれません」
「……なんかお前、最初の頃と印象違うな」
「恋してるからじゃないですか?」
誰が、誰に?
安藤が、俺に? 俺が、安藤に? 安藤が俺を好きだというのなら、どうしてここまで淡々としているものなのか。恋ってもっと、こう。好きって、もっとこう。激しかったり切なかったり胸が痛かったりするもののような、人それぞれなのか、なんだか他の女子生徒とペースが違いすぎていまいちつかみづらい。
「――お前の秘密はいいけど、俺の秘密ってなんだよ」
「秘密は秘密です。知りたいですか?」
「俺、脅迫されてるのか?」
「脅迫? どうして?」
「……新手の遊びなのか?」
「遊び? 秘密って打ち明けあうと親しくなれるんです」
「打ち明けあってないだろう、安藤は俺の秘密を握ってるんだろう?」
この娘はこんなに天然だっただろうか、と思いながら、それでもやたらとぎゅっと握りしめられているカンロ飴を見ると、俺には意味不明な発言だけれど勇気を振り絞っているようにも見える。だけどふざけているようにも見える。
「……なんだかわたし、間違えたみたいです」
「俺には最初からなにがなんだかさっぱり分からないから、そもそもなにが正解なのかも分からん」
「教室帰ります」
「あ、はい」
安藤は若干うなだれたような顔になって、研究室を今度こそ出て行ってしまった。白昼夢にしては悪夢の類だったような、と、そういえば片付けられないままでいる安藤の髪を見てため息が出る。あいつ、自分で片付けるとか言ってたのではなかっただろうか。俺が片付けるんだよな、と今度はため息を飲み込んで、頭よりも身体を先に動かす。清掃ロッカーから放棄とチリトリを取り出して、散らばった髪を片付ける。途中で横沢先生が入ってきてしまい、慌てたけれど向こうはポケットから黒飴をごっそりとつかみ出して俺に渡した。
「感心ですな、清掃時間でもないのに先生自ら掃除とは」
「あ、いや、その」
「その黒飴、妹が旅行に行った先の土産物だとくれた絶品ですから、吉村先生にだけあげます」
「特別扱いですね」
「黒飴美味しいですよねぇ」
噛み合っていないような気もする会話をしながら、安藤の黒髪を片付けた。ゴミ箱にそのまま入れようとして、少し悩んでコンビニのビニール袋に入れ、口を硬くしばってからゴミ箱に入れる。
安藤がくれた赤いギンガムチェックの包みをほどくと、中には小さな弁当箱が入っていた。開けてみれば、半分にやたらと不恰好な海苔もきっちりと巻かれていないおにぎりがふたつ、もう半分にはお世辞にもきれいに巻けているとはいえないけれどそれなりに卵焼きに見える物体がぎっしりと、それだけが詰まっていた。
いじめなのだろうか。
なんらかの宣戦布告なんだろうか。
お弁当を作って可愛らしく告白、という雰囲気ではないので、首を傾げるしかない。これは、食べられる代物だろうか。
「なんだよー、安藤ー」
意味が分からない。意味が分からないとすっきりしない。数学だったらきっちり答えが出るのに。裏の裏を読むとか裏はなかったとか、そういうのは苦手なので胸の辺がもやもやとする。
意味が分からん、とつぶやきながら、卵焼きを指でつまんで口に入れた。形はぐずぐずだったけれど、味付けはほんのり甘くてそれなりだった。安藤は涼しい顔をして、結構不器用なのかもしれない。




