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肩のところで切りそろえた髪は、慣れなくて自分でないようだった。頭の重さがなんだか違う。お風呂では今までどおりの量でシャンプーを取ってしまい、泡を持て余す。
髪を切ったのなんてどれぐらい振りだろう。吉村先生に傷を見せるために、髪まで切る必要は確かになかったのだ。だけど自分もなんらかの形で傷付かないといけないような気がしていた。あの白黒の写真は、多分本当に母とわたしの住んでいたマンションだった。父が母に買い与えた部屋。母がもう要らないと言ったので、父がわたしの名義に換えた誰も住んでいないマンションの一室。
わたしは自分がなにをしたいのか、自分のことなのに分からなくなってきていた。分かっているのは、吉村先生が気になるということだけだ。
「……わたし、いろいろと間違えたのかもしれない」
「私もだよ、予習用のプリントも全然やらなかったから、全問解く前に時間終っちゃったし」
「予習できるものなの? イメージトレーニング?」
「蒼衣、話がなんか噛み合ってないよ、また天然ボケ発動させてない?」
今、さりげなく蒼衣と呼ばれた。小坂の顔をまじまじと眺める。ずっと目を見つめていたら、向こうがしばらくしてからふいっと逸らせた。
「恥ずかしくなるからずっと視線合わせないでよ」
「蒼衣って呼んだ」
「ああ、ずっと安藤さんじゃ、なんか他人行儀な感じでしょ。蒼衣って名前だから蒼衣って呼んでもいいじゃない。ダメ?」
「……南條先輩に殺されそうな気がする……」
「あ……それは否定しない……」
やっぱり安藤さんに戻そうか、と言われたのでしっかりと頷いておいた。あの嫉妬深そうな先輩には余計な誤解をして欲しくない。
「数学クラスマッチの話をしてたんだけど、私は。そっちは?」
「えっと、告白の仕方を間違えたかもしれないって話だった」
「告白? え、もう告白したの? 嘘、いつよ」
「この前、お弁当を自分で作ってみた日」
小坂は鼻にしわを寄せて、黒目をくるりと上に回した。記憶を引っ張りだしてきているのか、唇が少し開く。
「あの、すごい形のおにぎり作ってた日?」
「そんなにすごい形だった?」
「あの黄色い物体としか認識できない卵焼きと」
「黄色い物体……味はちゃんと卵焼きだったのに」
「安藤の好きな人って、もしかしてこの学校にいるの?」
好きな人、という言葉でなんだか頬が熱くなった。もうわたしは吉村先生を好きだということでいいかもしれない。好きだ好きだ、好きなんだ、そうだ、わたしは吉村先生が好きだ。だけど好きって。なんだろう、未だによく分からない。
「安藤って言った」
「いいじゃん、敬称は略させていただきます。私のことも呼び捨てでいいよ、奈緒、でもいいし」
「……南條先輩に殺される」
「そんなに怖がらなくて大丈夫だってば、南條だって安藤のこと気に入ってるのに」
「どこが? どうして? どうするとわたしを気に入ることになるの?」
「あー、気に入ったは言い過ぎだった、ごめん」
同級生? 先輩? もしかして後輩? と聞かれる。話が飛んだことに気付かなくて、なに、と聞き返す。
「好きな人」
「……相手、女にしかならないじゃない」
「じゃあ誰よ」
「……先生」
「先生だっていっぱいいるじゃない、あ、もしかしてあれ? あの、キャラメルくれた先生?」
う、と詰まった返事が肯定になる。ふうん、とにやにやした小坂がなにか言おうと口を開いたところで、集会休みの終了チャイムが響いた。五分後に本鈴が鳴って、授業が始まる。
「サボっちゃおうか」
「え、ダメ、次英語だから出る」
「いいじゃない、ちょっとくらいサボったって」
英語の小柄な教師はまだ若い女性で、気に入った生徒ばかり贔屓する癖がある。嫌われると教科書にない言い回しなどをその場で和訳させて、できないとひどくこき下ろす。
「あの先生大嫌いだから、休まない」
「普通逆じゃない? 嫌いだからサボる、でしょ?」
「嫌いだからってサボったらなんか負けた気がしない?」
「しない。私ならサボりまくる。安藤の考え方って面白いね」
面白くもないと思うけれど、嫌いだからって逃げてしまうのが嫌なだけだ。どうせなら嫌なところをとことん知り尽くして、こっちも容赦なくもっと大嫌いになりたい。その人が死んだとしても、もしかしたら好きになれたかもしれない、なんて後悔しないように。
わたしは、母ともっと向き合って、きちんと大嫌いになれば良かったと後悔しているから。あんな中途半端に嫌われ逃げしたら、それでもいつかは分かりあえて愛してくれるかもしれないなどという希望が存在してしまう。
醜悪で哀しい願い。愛されたいなんて。
「告白して、返事は?」
「もう授業の用意しなきゃ」
「あと五分もあるよ。返事、もらったの? まだ保留? なんて言ったの? 好きですってだけ? 付き合ってくださいとか?」
「わたしは先生のことが好きなんですか、って聞いた」
「……は?」
「わたしは先生のことが好きなんですか、って聞いたの。なんか困った顔してた」
「そ、それはそうでしょう、先生はわたしが好きなんですかって聞かれるならまだしも……随分インパクトのある告白というか……それって告白なわけ?」
分からない。
しかもわたしは先生を脅した気もする。あなたの秘密を知っています、と。
「やっぱりあれって告白じゃなかったよね」
告白って難しいね、と言うと、小坂が変な顔をした。そんなことはないと言う。自分の気持ちを相手に伝える行為の、なにが難しいのかと。
「難しいじゃない、だって相手にとっては迷惑かもしれないでしょう?」
「好きって気持ちが迷惑? 別に、殺したいほど憎んでますって言われるより良くない?」
「知らないところで恋焦がれられてて、挙句の果てに聞きたくもない好きですなんて言葉を聞かされたらどうする?」
「どうする、って、自分をそこまで嫌ってる人を好きにならないでしょ?」
「そんなの分からないじゃない、それに告白なんて打算でするものでしょ? あわよくば相手からも自分を好きになって欲しいとか、恋人になって欲しいとか、キ、キスがしたいとか」
「安藤、面白すぎるよ、それ」
本鈴が鳴ってしまってビクつく。小坂がわたしの手を急につかんで引いた。行くよ、と言われて、反射的にダメ、と答える。
「いいじゃん、話の続きのが気になるよ!」
「授業サボっちゃダメ!」
「どうして、青春は今だけだよ!」
「今日の英語の授業だって今日だけだもん」
そうだけど、と小坂の手から力が抜ける。授業中に手紙を回すくらいならできるじゃない、と提案したら、悪戯っぽく笑った。
「岩井の授業でそういうことする?」
「あの先生大嫌いだもの、絶対見つからないでやればいいじゃない」
「安藤もでっかい猫被ってたんじゃないの?」
そんなことはないけど、と唇を持ちあげてにやりと笑う。女子高生っぽいよ、と小坂が言ったすぐ後で、英語の岩井が教室の前のドアから入ってきた。
くすんだ金色の小さな鈴には、桜貝でできている華奢な人形がついている。そのキーホルダーの先には、九個の穴が左右にバラバラの間隔で並んだ鍵。父が母に買い与えたマンションの合鍵だ。
マスターキーは母が持ったままになっている。
気が向けば、月に二度ほど空気の入れ替えをする。水道もガスも止まっているので、夏は暑いし冬は寒い。二歳のわたしが母に殺されかけた部屋。記憶は欠片も残っていない。ここに来れば何か思い出すかもしれないと、その記憶が辛く哀しいものだとしてもなにかしら、と思うのだけれど、なにひとつとして心に浮かぶものはなかった。
リビングとキッチンと、洋室が二部屋。ユニットバスではなく、トイレとバスルームはそれぞれ独立している。洋室の片方は物置のようになっていて、備え付けのクローゼットの他にたんすがみっつもあって服や下着がぎっしりしまい込まれていた。クローゼットには服ではなく、どう考えても母のものではなさそうなぬいぐるみだの整理されていない現像したままカメラ屋の袋に入っている山のような写真だの、一貫性のない本だのがめちゃくちゃに入っていた。
ベランダのガラス戸を空けて換気する。植木鉢も物干し竿もない殺風景なベランダ。六月の濃いオレンジ色をした太陽が西に沈みかけていて、光の手を床一面に伸ばしてくる。そのままフローリングの床に転がってみた。制服のスカートが太腿までめくれ上がる。人目がないので気にしない。床にはうっすら埃が溜まっていた。
わたしがいなかったら、母は父と結婚することなく、吉村先生と一緒になろうと思っていたのだろうか。
けれど母にはわたしが必要だったはずだ。父から庇護してもらうために。好色な爺とは結婚したくないけれど、その男の持つ金は欲しい。計算違いで男から求婚され、断り逃げる勇気もなかった弱い女。
その母に、まだ愛されたいと思っているわたしはどれだろ愚かなのか。
寝転がった拍子に舞い上がった埃でくしゃみが出た。
わたしを殺せば父から逃げられると思っていたくせに、父が必要だからわたしを産んだ母。矛盾している、裏表逆につないでしまった輪のように捻れて行きつく先がない。わたしを殺そうとした女を、わたしが血縁だからという理由だけでその女ごと取りこんだ父。母ごとでなければ、親権は母親にあるままだっただろうから。だけどわたしには最初は父親がいなかった。だから母親に対するほどの愛情は求めていないようだ。
父の愛情で満たされる子供だったら良かったのに。母の愛の代わりに。
わたしは吉村先生から、間接的に母の愛を受け取りたいだけなのかもしれない。間接キスのように。
それは吉村先生を純粋に好きだということになるのだろうか。
わたしは吉村先生を通して母に愛されたいのか、吉村先生を通して母を許したいのか。
とにかく、わたしは母の愛が欲しいということは確かなのだ、漠然としていて具体的にどうして欲しいのかも口に出せないのに、愛が欲しいと。思っている。
だけどそれは捨てられた者の、ないものねだりなのかもしれない。
母のことを考えると、頭がぐるぐるする。今は行方不明だし、現在の家に住むようになってからもほぼ顔を合わせなかった。あの人は幻だったのかもしれないと思えそうなほどだ。
どうしてわたしはとらわれ続けるんだろう。
どうして自分を殺そうとしたり平然と捨てた母を、突き放して憎んだりできないんだろう。
わたしは、どうしたいんだろう。
瑞香女子高等学校にはプールがない。ただし、水泳部はある。市営体育館の中にある温水プールを夏の間は借りて、部活をしているらしい。ここらの私立高校にはプールってないんだよね、と小坂が言うので、公立だとプールがあるのかと驚いた。
「あるでしょ、あるある。なんかこの学校も昔はあったらしいよ。お金持ちだし。でも女子高な上にお嬢学校じゃん? 結構覗きにくる変態さんとか忍び込もうとするおかしな人とかがいたらしくって、つぶしちゃったんだって」
「水着姿の女子高生ってどれぐらいの価値があるの?」
「どうだろう、知らない、人によるんじゃないかな。でもスクール水着だし、あ、マニアにはたまらないか」
ここの学校は珍しく体育の教師を女性だけで構成していた。なにかしら問題を起こしがちなのが、体育教師だと一般的なイメージであるからだろうかと噂されているけれど、実際のところは知らない。女性と言っても若い先生ではなく、おばさんと形容する意外の言葉が当てはまらない年齢の先生達だ。
「でもこの暑い中、外でバドミントンはきつい」
「持久走よりマシじゃない?」
「ブルマ強制じゃないだけまだいいか」
夏の体育は汗だくになって、そのあと一日がベタベタした肌でいなくてはならないようで苦手だ。いくらふき取りシートを大量に使ったとしても、シャワーを浴びる爽快感とはほど遠い。
それでも六時限目の授業が体育だとほんの少しだけマシな気がする。体育が終ったらそのまま帰宅すればいいのだから。
五時限目の休み時間に教室でクラスメイト達は体操着に着替える。男子の目もないので、恥ずかしがる人も特にいない。更衣室は体育館にあるけれど、校庭での授業のときはわざわざ体育館経由で行くのが面倒臭い。
半袖の体操着は白地に腕のところだけ上履きと同じ色で三本ラインが入っている。胸には校章の刺繍。
「プールの授業って中学のときとか面倒じゃなかった?」
「どうして? 夏はやっぱ泳ぎたいじゃん」
「着替えるのとか、濡れた髪拭くのとか」
プールの時は髪を水泳帽に入れなくてはならなくて、頭部の傷がはっきり見えてしまうのが嫌でたまらなかった。自分では見えないものが人に見えている、しかもそれが他人の興味をそそる、もしくはそそると思い込んでしまうのは怖いことだった。わたしが後ろを向いた瞬間、その場のすべての人間がこちらを指差して、傷の噂をしているような気がしてしまって。
「そういえば安藤って髪切ったの、告白に失敗したからなの?」
「告白……やっぱり失敗なんだよね」
「相手がどんな受け取り方したかでしょ、でもやっぱ先生とかだと相手が生徒じゃ本気に取ってくれないかも」
どうして、と純粋に不思議に思ったから聞いたのに、小坂はそんなことも分かんないのか、というような呆れ顔をする。
「生徒に手を出す変態教師が、毎年どれほど免職処分になってると思うの」
「別に吉村先生は変態じゃないと思う……合意の下でもいけないわけ?」
「おおっぴらにはダメだったと思うけど……っていうかさ、じゃあもし付き合いました、なんらかの理由があって向こうの方から別れ話を切り出しました、納得がいかなくて怒った生徒側は、あることないことでっちあげて『先生に強姦されました』って言っちゃいました、なんてことになったら困らない?」
「そんなこと言わない!」
「安藤が言うって言ってるんじゃないよ、ただそういう可能性を考えちゃうと先生と生徒って難しいじゃん、って話」
校庭の白いスピーチ台の前で適当に整列して座り込む。体育の山下先生は五十ぐらいのおばさん先生で、髪の毛をとんでもなく明るい茶色に染めている。化粧はほとんどしていないのに口紅だけ真っ赤にぬりたくってあって、声は男のように太い。だけどなんとなくみんなから好かれている。
「はいはい、女子達。今日もバドミントンやるけどね、いくらうちの学校が金持ちだっていっても、全員分のラケットはないんだから、仲良く順番にやるんだよ。じゃあ各班でラケット三本ずつね、責任感の強い奴かもしくは班長、取りにおいで!」
ばらばらと数人が立ち上がって、山下先生について校庭の隅にある用具倉庫まで歩き出した。
「その他の女子はコートに移動してアップしときな! 分かんなかったら適当にラジオ体操しとくか、面倒だったらトラック三周しときなさいよ!」
山下先生の声はよく響く。声の威力にわたし達は立ち上がらされて、なんとなくくすくす笑いながらバドミントンのネットが張ってあるところまで移動して、なんとなくラジオ体操っぽいものをはじめた。
「ねえ、あなたの秘密を知っています、って言われたら、小坂さんはどう思う?」
「秘密? なんの話?」
「たとえばの話。自分のことを嫌ってる人がじゃないよ、どっちかっていえば好意を寄せてるっぽい人がさ、あなたの秘密を知ってるよって言ってきたらどうする?」
「私の秘密ってなんだろうって考える」
「あー、そういうんじゃなくて。言ってきた相手をどう思うかってこと」
「え、そんなの、気持ち悪いなー、とか。もっと気の効いた気の引き方しろよなー、とか。バカじゃないの、とかって思うかな。まわりくどい人嫌いだし。あんた嫌いって言っちゃうかも」
吉村先生も、安藤って訳分からなくて嫌い、って思われてしまっただろうか。いきなり髪を切って見せたりもしたし。痛い女だと思われた可能性は高い。
どうしようか。
やってしまったことを後悔するのは、挽回策が尽きているときじゃないかと思う。どうにか持ち直せることなら、後悔している間に次の手を繰り出せばいいのだから。
「相手から嫌われたとしても、好きって気持ちがなくならないのはどうして?」
手を大きくあげて背伸びの体操。
「それは自分の中で好きって気持ちが決着ついてないから。相手に否定されたくらいじゃ好きなんて気持ち消えないよ、そんなんだったら世の中からストーカーとか恋愛に関する嫌がらせとか消えてるよ」
安藤はさ、と小坂が考えるような顔つきで腕をぐるぐる回して、おかしな体操をしながら空を仰ぐ。
「ええっと。どうしてそんなに恋愛するのが怖いわけ?」
「え? 別に怖いって思うことはないけど、恋愛ってよく分からないだけで、」
だって誰かを好きになったとき、どこに正解があるというのだろう。その気持ちは本当の好きです、だとか、その気持ちはちょっとした勘違いで三日後に消えます、だとか。そういうのは誰にも分からない。本人にだって。もしも好きだと勘違いしたことによって、好きだと思った人や周囲の人間を悪戯に振り回しただけで終ってしまったらどうすればいいのだろう。
「安藤は臆病すぎ」
「そんなこと、」
「あるよ、好きなら好きで、相手が誰だってそれがいつか消えちゃう感情だっていいじゃん、今、現時点でその人が好き、っていうんならさ」
倉庫から山下先生達がやってくるのが見える。ラケットの他になぜか三角ポールも運ばされている人達は、重たいのか集団から少し遅れていた。山下先生はがっつりと重ねたポールを軽々と持ち上げてひょいひょいとこちらに向かっている。
「あ、犬?」
誰かの声が、した。
イヌ、ってなんだっけ、イヌ、犬か、ペットとかの、と声のした方を振り返る。周りの視線を集めてしまったポニーテイルの女子は、ほら、と山下先生達の方を指差した。
「犬なんて、どこ、あ!」
「え、あれ犬?」
何か黒っぽい塊が突進してくるのが視界に入った。それはラケットを運んでいる集団に、ものすごいスピードでぐんぐん近づいてくる。
「え、あれ危ないんじゃないの?」
「っていうか、なんで犬、」
一番遅れていた女子の足元にあっという間に追いつき、黒い塊が噛みついたのかぶつかったのか、三角ポールが宙に浮いたように見えた。と、それを持っていたはずのクラスメイトがゆっくりと倒れ込む。
きゃああああ、という甲高い悲鳴が響いて、ラケットを運んでいた集団がほどけた。散り散りに駆け出す生徒に混じって、山下先生も混乱に飲み込まれたのかポールを抱えたままジグザグに走り出している。犬は一瞬たじろいだようにも見えたけれど、すぐに近かった生徒に突進して行った。その子が悲鳴を上げて倒れる。
「ちょっと、あれってやばいんじゃないの!」
「ど、どうしよう、先生っ、先生っっ」
「他の先生とか呼んでこないと、ちょっと、ね、まずいよ」
「こっち来たらどうしよう」
「ね、倒れてる人助けなくていいの?」
「あれ、転んでるだけだよね? し、死んでたりしないよね?」
転ばされただけのようなのでまさか死んではいないだろうけれど、起き上がらないのでこちらの恐怖だけが増す。ざわついて浮き足立つ。傍にいる友達の手をそれとなく握り締めたりしている。
「ど、どうすれば、」
「え、ちょっと、こっち来るよ!」
「やだやだやだやだ!」
散らばったラケットを蹴散らして、黒い塊は逃げ回るひとりずつを追うよりこちらに団体がいるのを発見してしまったらしい。口からだらりと舌を垂らし、笑う悪魔のような形相でこちらに向かってきた。足がすくむ。あれはなんだ、という上手く状況がつかめない頭と、先に恐怖を感じて震える脚が、根を生やしたようにがっちりと動かず、そのくせ感覚をなくしている。
「逃げてっ!」
誰かの声で一斉に悲鳴が解放された。視線がさまよう。景色がぶれて、そういえば小坂は大丈夫なのだろうかと頭の片隅で思った。走り出す前から息苦しい。足、は、走り方を忘れているようで、もつれる。
「逃げてっ、危ないっ」
誰の声が、誰に向けられたものなのかも分からない。怖い。なにが。どうして学校の中に犬が入り込むのだろう、あれはどこからやってきたのか、危険なものなのかそうでないものなのか。危険、なのだろう、だってクラスメイトが転ばされたまま立ち上がらない。獣の力強い息遣いが背中から覆いかぶさってくるような気がして怖くてたまらない。振り返ったらすぐそこにいそうで、前を向いて走るしかできない。
「安藤っ!」
小坂の声を耳が拾った。立ち止まれない。危ない、と誰かが叫ぶ。叫び声ばかりが広い校庭に満ちている。助けて。誰か。誰か? わたしは誰に助けて欲しいんだろう。
不意に膝裏を強く突かれた感覚があった。バランスは簡単に崩れて、膝から崩れ落ちた。膝と腕と。肩と胸をざらざらの地面で打ち付ける。痛いというより、意味が分からなくて混乱した。荒い息が自分の呼吸だと思えない。埃くさい日向の匂いが鼻を刺激する。喉の奥の方で血のような味がする。
そこへ急に影が差した。太陽が雲に隠れたのだろうかと思いかけたところで、生ぬるく力強い自分以外の呼吸が気持ち悪い感じで重なるのを知って背中がぞっとした。犬が。わたしの真上にいる。首筋のところに鼻先が当てられたらしい。つめたく濡れた感触があった。恐怖と全力疾走の名残で声が出ない。首を齧られるかもしれない。血がどれだけ出たら死んでしまうのだろう。助けて、というよりも、ただ、怖い。獣くさい息遣いが恐怖心を煽る。あちこちで叫び声がしているのに、どこか遠いところでの出来事のように聞える。
硬く目を閉じると、身体の力が抜けた。怖くて仕方がないのに、ふ、とすべてがゆるんだ。唇の形だけで人の名を呼んだ。よしむらせんせい。お母さんではないんだ、とぼんやり思った。




