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悲鳴のような叫び声に気付いたのは、事務の先生だった。お茶をこぼしたので、ふきんを取りに給湯室へ行こうとして、ふと窓の外の校庭を見たら、大騒ぎになっていたという。
大変、と大きな声で叫ばれて、職員室にいた教師達の視線が集まった。
校庭が見渡せる職員室の大きな窓の向こうで、逃げ回る生徒達が見える。体育の女性教諭が赤い三角ポールを抱えたままあちこちにと走り回っていた。パニックになってしまっているらしい。女子の群れに、黒い塊が突っ込んで行く。誰かが、「犬だよね? 仔牛とかじゃないよね?」とその場ににつかわない、ぽかんとした声を上げた。
どうやら大型犬のようだ。真っ黒いので、とんでもなくやっかいなものが走り回っている感が強い。どこから入りこんだのだろう、向こうの方で倒れていた生徒がゆっくりと起き上がるのが見える。と、犬がひとりに狙いを定めたようだった。スピードを上げて、走る生徒を追う。肩までくらいの髪をなびかせて逃げる、あれは。
安藤蒼衣。
思うより先に身体が動いた。受け持ちの授業はなかったので、三年生の数学クラスマッチ問題の採点中だった。二年の分は横沢先生、一年のはもうひとりの数学教師が担当している。椅子からどう立ち上がったのか自分でも分からなかった。赤ペンが転がって、解答用紙が舞ったようだった。振り返って確認する余裕はなかった、職員室から出て昇降口を出て、などという時間もなかった。だから。窓を開けて、意外と自分は身軽かもしれない、と感心しながら、気分だけはひらりと校庭へ飛び出した。細身のスーツが好きだなんていわなければよかった。ジャージ好きだったら、もっと早く走れたかもしれない。上履き代わりのスリッパは途中で蹴り捨てた。
「安藤っ」
名前を叫ぶように呼んだ。
犬は彼女の首筋に鼻先を埋めている。前向きに転んだらしい、犬は覆いかぶさる形で彼女にまたがっていた。とっさに飛び出したものの、どうしたらいいのだろう。吉村先生、と後ろから他の男性教員達の声がする。早くこっちに逃げなさい、と、生徒を誘導しているようだった。
犬なんて小学生のときに飼っていたくらいだ。それも小型の室内犬。オレンジブラウンのポメラニアン。とりあえず大きい犬はどうやって押さえ込めばいいのだろう。後先も考えず飛び出してしまったけれど、首でもつかめばいいのだろうか。体当たりしてとりあえず相手の注意を自分に向けようか。応援も後ろに控えているだろうし。最悪噛まれたり怪我をするくらいだと、楽観的に思いこむことにする。
犬は尻尾をぶんぶんと振りたくっていた。尻尾。尻尾を振るというのは、つまり。……嬉しいとき?
「安藤っ、」
犬は新しい対象物としての俺に飛びかかってきた。尻尾をぶんぶんと振りながら。ダメで元々、ととりあえず叫んでみる。
「お、お座り!」
犬の脚に急ブレーキがかかった、ように見えた。長い舌をだらりと垂らして、目が細めたように笑った顔になった気がした。犬がぺたんと尻を地面に付ける。
「よ、よし、伏せ!」
伏せは分からなかったらしい。首を傾げて腰を浮かしかけたので、慌ててお座りと言い直す。犬はまた素直に腰を下ろした。
「そのままだぞ、お座り、ええと、待て!」
赤い首輪がついていた。野良犬ではないと思ったのが当たっていて助かった。毛並みもいいので、どこかできちんと可愛がられている犬なのだろう。芸が仕込んであって良かった、と思う間もなく、急いで倒れている安藤に駆け寄る。動かなかったのが怖かったが、背中は呼吸でゆっくりと上下していた。
「おい、安藤? 安藤、意識あるよな? 大丈夫か?」
頭を打ち付けているといけないので、ゆすったりできない。犬の獣らしい息遣いが、次の指示を待っているのにどうしたのだというように段々荒くなる。
「安藤、痛いところないか、大丈夫か?」
大丈夫かってさっきも聞いたよな、と思いながらも起きない安藤を見ていると不安が首をもたげてくる。大丈夫ですか、とそう近くも遠くもないところから声がいくつかかかる。他の生徒の誘導が終ったのだろうか。
「……安藤、」
しゃがみこんでいた身体をもっと近づけ、顔を接近させて名前を呼ぶ。
「安藤、保健室行くか?」
嫌がってもお姫様抱っこして行くぞ、ととんでもないことを口にすると、やっと彼女の指先がゆっくりと砂をかいた。さりり、と右、左の人差し指、中指、薬指が動く。
「……たい、」
「安藤、大丈夫か?」
「……痛、い、です、なんかあちこち」
ゆっくりと顔が持ち上がる。こすれてしまったのだろう、左頬と鼻先が赤くなっている。
「立てるか?」
脇の下に腕を差し入れて、ゆっくりと力を入れて安藤の身体を持ち上げる。意識のない酔っ払いより少しマシなくらいのおぼつかなさで、彼女はその身体を俺に起こされるがままにしていた。
「……犬……せ、先生、まだそこにっ、」
自分からそう離れていないところでお座りのまま待っている犬に気付いて、安藤の身体へ急に力が入った。泣きそうな顔で俺に。俺の首に。ぎゅっとしがみつく。
「えっ、と、あ、」
みっともなくオロオロしたのは俺だけで、安藤はかすれたような声で怖い、と何度かつぶやいた。細い腕なのに力は強かった。怖い、痛い、怖い。そう口にし続ける彼女の声は耳にやわらかい。俺はゆっくりと右腕を持ち上げて、安藤の髪を撫でた。後頭部に触れたとき、彼女は一瞬身を硬くしたけれど、丁寧にそっと撫で続けていると力は徐々に抜けていった。
「――安藤、保健室行くか」
「……吉村先生?」
耳元でささやくと、小さな沈黙の後で名前を呼ばれた。そうだよ、と答えた自分の声が甘ったるい。俺はこの子が好きなのか、と少しだけ思う。あの無骨おにぎりと無様な卵焼きには、怪しい薬でも入っていたのかもしれない。あれは、全部食べた。お礼も感想もまだ、伝えていなかった。
「先生が、助けにきてくれたの?」
「そうだ、悪かったか」
「……良かった」
「怪我する前に助けてもらって?」
「そうじゃなくて、助けにきてくれたのが、先生で良かった」
この子はどうしてこういう言葉を素直に言ってしまえるのだろう。俺が思わず赤面する。犬の方は背後から近付いてきた他の教師達にネットを被せられ、それでも遊んでくれているのかと勘違いしたのか楽しそうに尻尾を振り続けていたらしい。
「誰もひどい怪我とかはしてなさそうだよ」
把握もしていないのに言うと、安藤は俺の腕の中で微かに笑ったようだった。
「で、首、結構苦しいんだけど、腕を外してもらえるとありがたい」
本当は苦しくもなかったのだけれど、校庭で教師と生徒が抱き合い続けていたら、状況が状況とはいえ問題だろう。安藤はそれこそ、ぱっ、という言葉がこれ以上しっくりくることはないだろう勢いで俺から身体を離す。途端に、今まで意識もしていなかった彼女のやわらかさだとか肌の感じだとか、胸のふくらみだとかがリアルになって、俺はますます赤面した。なにを、思春期の男子でもないのに。自分に突っ込んでみても、頬の熱はそう簡単に引いたりしない。
「い、痛いところないか?」
「……そこら中痛いです」
でも先生がきてくれたから痛いのとプラスマイナスでもプラスが大きいです、と安藤が微笑む。
とろけてしまいそうな、やわらかい笑顔だった。
「校内に侵入したのは、父兄の飼っているロットワイラーという種類の大型犬のようです。近くまで散歩に来た際、興奮して校内に入りこんでしまったと。幸い、大した怪我人は出ておりません。体育の授業中だった二年D組の生徒が数名、すり傷や打ち身を負った程度です。不審者の嫌がらせなどではなく、父兄の方からも謝罪を繰り返されておりますので、大事にしないよう、先生達もよろしくお願いします」
教頭があまり抑揚のない声で、職員会議の報告事項として口頭で発表した。なかったことにしましょう、というのと同じだ。四月には転落事故もあり、大したことでなかったのなら騒がないでおきましょうということなのだ。多分。
怪我をした生徒達は保健室で治療を受け、帰宅していたが、安藤だけは頭痛がするとかでしばらく休んでいくと言っていた。顔を出す義理はない、けれど、理由はある。顔が見たい、という単純明快な。
衣替えから少し経った時期なので、服装の乱れが出ないよう頭髪服装検査を実施します、という風紀委員の顧問からの連絡があり、大して重要な報告はないまま職員会議は終った。ポケットにはミルキー。体温でやわらかくなってしまっているかもしれない。なっているだろう。横沢先生に渡した際にふたつだけ残しておいたのは、安藤にやろうと思っていたからだ。餌付けかよ、と自分に苦笑する。
最近、あの女の夢を見ない。
目隠しをして床に転がされている高校生の俺は、さなぎのように丸くなったままでいたはずなのに。
「吉村先生っ」
「あっ……伊藤先生……」
一礼で終了した職員会議後、教師達も一日が終了したように空気をゆるめる。部活動の顧問や、残業など、まだすべての教師達が業務を終えて帰れるわけではないのだけれど、表情から「先生」が抜けはじめる。そういうのを見ていると面白い。中には伊藤のように、元々「先生」の顔があまりない人間もいるけど。
「飲みに行きましょうよ、いい店教えてください、割り勘しましょう!」
「……誘い方がかなり間違えてますよ、いい店見つけたんです奢りますから、ならまだしも」
「今日とかどうです? 時間空いてます?」
「また人の話も聞かずに」
いきなりは無理ですよ、と言うのに、伊藤は聞かずに、一回帰宅して車置いてきて電車で集合とか、などと嬉しそうに話しはじめる。
「いや、今日はちょっと、」
「そう言わずに、たまにはボクとも遊んでくださいよ」
「どうしたんですか、いつもそうですけど、なんだか今日は一段とうっとおし……いえ、人懐こいというか」
「ボク、失恋したかもしれないんですよね……」
声のトーンを落として急にしょんぼりする。失恋。伊藤が。この男が惚れたというの相手を見てみたい。ちょっと話を聞いてみたいかも、という好奇心が湧いてこなかったといえば嘘になる。が、保健室の安藤も気になる。顔を見たいのだけど、と思ったら、なんだか急に胸の辺りが押さえつけられたようになった。
「……あれ?」
そわそわとした浮き足立つ感情が、背中をざあっと駆け上がる。甘酸っぱい、くすぐったい、これはなんだ。
「あの、伊藤先生、飲むのはまたに……その、失恋の話ってじっくり付き合いますから、」
「吉村先生ー、そう言わずに、今日―、きょおおおおおおおおおおおおおおー」
「わっ、きょ、今日は無理なんですって、」
席を立って、ポケットに財布と車のキーがあったことをさりげなく確認すると、机の上にあった携帯だけ手にした。
「すみません、本当に悪いですけど、今日は駄目です」
無茶な誘いを断るのに、どうしてこちらが悪者になった気分にならないといけないのか、理不尽な気がするが仕方がない。伊藤は失恋したというのだし。
逃げるように職員室を出ると、待ってくださいよ、と伊藤の声が追いかけてきた。声だけでなく、本人も追ってくるつもりらしい。事務員のひとりが、伊藤先生ストーカーみたいですよ、と笑った声が聞えた。
廊下を走らない。
そういう決まりはあるけれど、非常事態の場合は守れなくても仕方のないような、今日の伊藤はしつこくて困るというか、そんなに失恋の話を聞いて欲しいものなのか。
階段を駆け降りて、真っ直ぐな廊下を真っ直ぐ走る。すれ違う生徒が驚いた顔をするけれど、緊急事態ですまん、と口にすると、先生さようなら、と可愛らしい声が投げかけられる。保健室に飛び込んだときには、普段の煙草のせいか多少息が切れていた。体力が落ちているのだ、最近ろくな運動もしていないし。だけどジムに通うとかランニングをはじめるとかいうのはキャラクターに似つかわしくないしな、と思いつつ、またしても養護教諭が不在なのを不思議に思う。保健室の先生、はいつもどこで油を売っているのだろう。怪我をしただの、具合が悪いだのの生徒がきたら困るだろうに。
細く空いた窓から入る風が、白いカーテンを揺らしている。ベッドの仕切りのカーテンも微かに揺れて、青いラインの入った上履きがちらりと見えた。
「……安藤、」
思ったより自分の声はかすれていて小さかった。もう一度呼びかけなおそうと息を吸ったとき、カーテンの向こう側で人の動く気配がした。
「……吉村先生?」
白い靴下の足が、上履きに滑り込む。それが、床を叩いてかつんと音を立てた。ベッドがきしむ。しゃらり、とカーテンの引かれる軽やかな音と同時に、困ったように眉毛を下げた割りには口元がゆるんでしまっている安藤が顔を出す。
「なんだよ、笑ってんのか泣いてんのか分かんない顔してるな」
切れ長の目がやわらかに目尻を下げて、俺をとらえている。だから、ついそんな言い方になる。目を逸らしたら負け、なんて、犬のケンカでもあるまいに。
「痛、たいところ、とかは、」
「もう大丈夫です、すり傷だけでしたし」
「そっか、ええと、」
白い頬を赤らめるな、安藤。可愛いと思ってしまうから。
なにを考えているんだろう、という冷静な自分が頭の隅に居ることは居る。だけど声が大きくない。そいつも安藤を、可愛いな、と思って眺めているだけで。顔を見にきて、それからは考えていなかったので、なんともないんだったらいいんだと自分も帰ろうと思うけれど足が動かない。名残惜しいとはこのことか、と。思ったり、して。
「吉村先生、吉村せんせーいっ、よーしーむーせらーせーんーせーいーっ」
そこへ響いてきたのは伊藤の大声だった。保健室の前の廊下を、俺を捜して歩いているらしい。
「なんてしつこい……」
思わずつぶやくと安藤が笑った。
「なんか必死な声してますよ、伊藤先生」
「酒飲みに行こうって言われてるんだけど、今日はダメだっていうのにしつこくて」
「今日はダメなんですか?」
今日だけじゃなくていつでも伊藤との酒は付き合いたくないかも、と口にしかけたところで、保健室のドアが強くノックされた。びくっ、として恐る恐るドアを振り返る。
「失礼しますー、吉村先生きてませんかー」
「先生っ、こっちっ」
ベッド脇のカーテンをひるがえし、安藤の腕が伸びる。身を乗り出して、片足が床について蹴った。腕を取られて、ベッドへ引っ張りこまれる。落ちた片方のスリッパを安藤が拾い上げて一緒に掛け布団の中へ突っ込む。
「丸くなって!」
薄い布団をかぶされた。安藤の足が、スカートから伸びて俺をはさみこむように広げられている。パンツ見えるんじゃ、と思って慌てて目を閉じた。こんなところを見られたら、問答無用で淫行現場にされてしまう。
がらがらと引き戸の開けられる音がする。吉村先生いますか、という伊藤の間延びした声。
安藤の脚に力が入るのが分かった。どうしたのだろう、と思う間もなく、頭上から声が降る。
「あ、あの、わたしさっきから具合が悪くてここで寝てますけど、誰もきませんでした、よ、」
「寝てた人がいたとは、騒いですみません」
生徒に敬語使ってる、と思わず噴出しそうになるのをこらえると、肩が揺れた。安藤の手がそれを押さえたので、びくついてしまう。心臓が、ど、ど、ど、と跳ね上がる。ぽん、ぽん、とゆっくりリズムを取るように叩かれた。ぽん、ぽん、ぽん。心地のいい振動。
「どっち行ったかとか、分かる?」
「……すみません、わたしずっとここで寝ていたんで、吉村先生は見てないです」
「ああ、そうだよね、そうだそうだ、うん、そろそろ下校時刻になるから、帰れるんなら帰るんだよ。無理ならお家の人に連絡とろうか」
「あ、だ、大丈夫です、もう、帰れます、先生さようなら」
さようなら、と伊藤の声が遠ざかりつつ、ドアの閉まる音がする。ゆっくり二十数えてから、布団から顔を出した。
「悪い、助かった」
「吉村先生、愛されてるんですね」
「やめてくれ、気持ち悪い」
「下駄箱のところで待ち伏せられちゃうんじゃないですか?」
「やめてくれよ、そういうこと言うと本当になったりするんだ……から……」
ベッドに手をつこうとして、安藤の脚に触れてしまった。広げられた脚の間。すまん、と慌てて手を離す。やわらかかった、と赤面する。童貞でもあるまいし。ベッドから飛び降りるようにしたら、また外で伊藤の声が聞えた。しつこすぎる。
「俺、帰れないんじゃないか……」
「あの、窓から出たらどうでしょう」
「靴がないよ」
「わたし、持ってきてあげますよ」
さっき助けてもらったから、と安藤が可愛らしくにっこりとする。抱きしめちゃおうかな、と思うような。どうしたんだろう、信じてもいない神様とやらに誓ってもいいが、俺は今まで一度も生徒に対してそういう感情を持ったことがないのに。
「職員用の下駄箱ですよね、靴」
「ああ、名前とかも書いてあるけどな、右端の一番上だ」
「ラブレターとか入ってること、あります?」
「……内緒。あ。タイミングが違うかも知れないけど、卵焼き、形はすごかったけど美味かった」
「……本当?」
安藤がベッドから降りて、スカートのポケットからハンカチを取り出した。灰色で地味かと思ったけれど、広げると鮮やかなショッキングピンクの薔薇が描かれている。なにをするのかと思ったら、それを細長く折りたたんで、手を出してください、と言ってきた。右手を差し出す。手首に、そっとハンカチが結ばれた。
「なんかのおまじないか?」
「わたし、カバン取りに一度教室行ってきます。でもちゃんと戻ってくるんで、それ、人質です」
別にそんなのがなくても、なにより置いて帰ったとしても俺には文句を言う権利もないのに。なんとも可愛いことをする。
「待っててくださいね!」
「伊藤……先生に見つからないようにな」
「はい」
涼しい声が返ってくる。最初に会ったのは同じ保健室で、だけどやたらつんけんしていたのにな、と思い出すと、顔が自然ににやけてくる。
保健室の窓からこっそり抜ける。養護教諭は戻って来ない、あの人はサボりすぎではないだろうか。
職員駐車場まで送ってあげます、となぜか得意そうな安藤を横に歩いていると、どこからかまた伊藤の声がした。
「……今の、俺の幻聴?」
「わたしにも、聞えましたけど」
「……どっちからだ?」
「……後ろの方、」
「よーしーむーらーせーんーせーいーっ」
来た、と叫んぶと同時に、無意識という都合の良い下心じみたもので安藤の手首をつかんでいた。カバン寄越せ、と続けて叫ぶ。訳が分かっていない安藤が、言われたとおり素直にカバンを渡す。多少間の抜けた、え、だの、あ、だのという声を発しながら。安藤の足元に気を配る余裕はなく、駆け出して手を引いた。ひゃあ、と小さな悲鳴が上がって、それがなんだか楽しい気分にさせる。不謹慎ながらも。安藤の手提げカバンは思っていたよりも重たかった。なにが入っているのだろう。左で安藤の手首をつかみ、右でカバンを持ちながら尻のポケットの鍵を取り出す。走りながら。なにをしているんだろう、と苦笑が漏れつつ、職員用駐車場に停めてある自分の車が視界に入ると同時に、キーのアンロックボタンを押した。遠隔操作で鍵の開く音を耳が拾う。
「あの水色の、助手席に乗れっ」
つかんでいた手首を離したら、てのひらがやたらと涼しくなってしまって淋しい。そんなことを思う余裕が多少なりともあることに驚きながら、自分は運転席に乗りこむ。カバンは後部座席に放り込んだ。続けて助手席に乗りこんだ安藤が、音を立ててドアを閉める。
「シートベルトして」
「あ、はい、」
キーを挿す、回す、エンジンがかかる、ギアをバックに入れて車を後退させて。
「伊藤先生に見つかるとヤバいから、ちょっとかがんでいて」
「後ろに乗れば良かったですかね」
シートベルトを伸ばしながらそれでも素直に彼女は前屈した。おかしな体勢にさせてしまっていて、悪いな、とは思う。だけど。
「女乗せるのに助手席でなくてどうするんだよ」
隣にいてくれないと手も握れやしない。なんて、できるだけ外から見られるな、と言っている同じ口で言うのはとても矛盾しているのだけれど。
俺の手首には、まだ安藤のハンカチが結ばれたままでいる。
伊藤から逃げるため、という目先の行動で安藤を車に乗せてしまったけれど、それからのことを考えていなかった。安藤は律儀にずっと身をかがめたままで、学校を出て十分ほどしてから俺が声をかけて、やっと身を起こした。
「悪い、学校出たら顔上げてよかったのに」
「でもどこで誰に見られるか分からないですよ」
「別に悪いことしてるわけでもないし、」
信号機が黄色になった。若干スピードを上げてぎりぎり渡る。先生なのに、と隣からからかいの色をした声がかかる。
「こうやってよく生徒を乗せたりするんですか?」
「いや、……いや、そういえば初めてだわ。安藤が初めてだ」
「え、嘘」
「嘘じゃないって、だって生徒乗せる理由がないし」
「わたしが初めてですか、」
「おう。なんか無茶苦茶な成り行きだったけどな」
「……先生、怒ってません?」
視界の向こうに山が見える。電波塔のある山で、ここらの小学生達は五年生になると登山の行事があったりする。七月も近い今の時期は緑が濃くて、なんだかひとまわり膨らんでいる感じがする。珍しい旅する蝶がやってくるとかで、新聞にも載ったりしていたはずだ。
「なにを?」
「この前、先生の秘密を知ってるとかって、わたし、言って」
「あ、そういえばお前あの時の髪の毛片付けなかっただろ、清掃美化委員だって威張ってたくせに」
「そうだ、ごめんなさい」
「俺が片付けたんだぞ」
それでなんだよ俺の秘密って、と聞いてみる。さりげない声を出したけれど、ずっと気になっていた。自分の髪と引換えにするぐらいの俺の秘密、大きいのか小さいのか分からない。女の髪はどれぐらいの価値があるのだろう。もちろん、個人差が大きいとは思うけれど。
「――先生、やっぱりわたし降ります」
「はい? ちょっと安藤、待て、そういう中途半端で訳分かんないこと言うなよ」
「だって、やぱりわたし、先生の車の助手席なんて乗ってられないです」
なんでだよ。煙草くさいからか? イメージと違うとよく言われる、水色の軽自動車だからか? FMラジオしかかかってないからか?
うっかりうめき声が出る。驚いたらしい安藤が、違うんです、と慌てたように言った。まだ俺は唸っただけなのに。
「違うんです、あの、わたし、……先生のこと好きなんです」
「……この前と違うのな」
「……え?」
「この前は、俺に聞いたんだぞ、わたしは先生が好きなんですか、って」
「……好きって気持ちが分かんなかったんです。はじめてなので、どうしていいか分からなくて、あんなになりました」
「人を好きになったことないのか」
「先生はあるんですか?」
遠い昔に、心底恋した人がひとり。
まあ、とつぶやいて、口を閉ざす。別に語るような何かがあるわけではなく、自分の中でいくら特別だったとしても、他人が聞いたら恋愛のひとつのパターンなだけだと言われるだろう。
「……わたし、先生のことが好きです。だから、助手席に乗ってるだけでなんだか心臓がばくばくします。息が詰まるみたいに苦しいです」
「でもそれ、車降りても治らないぞ」
「えええっ、」
「だから乗ってりゃいいよ」
乗ってりゃいい、と言いつつ、乗っていればどこへ行くというわけでもないのだけれど。俺、なにしてんだろ、という気持ちと、どうしようかと迷う気持ちと、さらりと好きとか言われてるんですけど、とぐるぐるしてしまう気持ちと、もう何がなんだか。こんなに心乱されるのはあの人以来だ、それと伊藤と。
「で、俺の秘密教えてくれる?」
「知りたいですか?」
「知りたい、すごく」
下らなかったら怒るからな、と言ってみると、彼女は下らなくないですけど怒られるかもしれません、と小さな声で答えた。先生、懐かしいマンションに行ってください、と。言われて戸惑う。
「それって、」
「先生の秘密が眠っています」
眠り姫のように? 彼女がいるということだろうか。まさか。だけど、いや、それは。
「……お前、俺のなにを知ってる?」
「これから教えます」
告白だか脅迫だか分からない。こいつ俺のこと本当に好きなのか、と今度は疑問系が心に浮かぶ。俺の恋は、変なのと関わることと同じ意味なのだろうか。




