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いきなりフローリングの床に、うつ伏せに転がったのには驚いた。ネクタイが顔のところでおかしな風に伸びる。匂いがしない、と吉村先生がつぶやいた。なんのことだか分からず、返事ができずにわたしはいた。
「安藤、どうしてお前がこの部屋の鍵持ってんだよ。お前、なにを知ってんの? お前は何者? あの人の娘とかだったりして、なんて――」
「そうです」
「――は?」
「先生、安藤香代子……先生が一緒にいたのは野村香代子の時でしたけど、知ってますよね」
「知らない、そんな名前の人」
「この部屋で、高校生の吉村先生が……愛し合った人の名前で、わたしの母です。先生、名前も知らなかったんですか」
知らなかった、あの人は名前なんか言わなかったし、俺の名前も聞かなかった、と先生はつまらなそうな声を出した。西の空が明るい。ひとつ隣の部屋にベランダは続いていて、そのガラスを透かせて光が入ってくる。
「俺、あの人とキス以上のことしてない」
「――え?」
「いや、信じなくてもいいけど。へえ、香代子さんっていう名前だったんだ。なんか名前知っちゃうと平凡だな。そか、お前あの人の娘か」
「……信じるんですか?」
「嘘なのかよ」
「嘘じゃないですけど、そんなすんなりと信じてもらえるとは思ってなくて、」
「信じる、似てるもん。お前、あの人に似てる。目のところとか。唇の感じとか。そうか、それで俺はお前が気になって仕方なかったのか」
気になって、のところで心臓がはねた。だけど、それは母に似ているからだという意味だと理解して、すぐに胸へ苦いものが広がった。
「あの人……母は、先生が好きだったんです」
「そうか? 結構無茶苦茶な扱いを受けたぞ。あの人は自分の鬱憤晴らしの対象が欲しかっただけじゃないか?」
「どうだろう、わたしはいらなかったみたいだから、殺されかけましたけど」
え、と息を飲む先生の喉仏が上下した。寝転がったままわたしを目だけで見る。困惑した表情だった。
「それって、どういう……」
「先生が助けてくれたんだと思います」
先生の顔が歪んだ。視線がわたしを離れ、ふわりと泳ぐ。記憶の底をさらう作業。多分、先生の脳はそれをしているか、わたしの言葉の信憑性を計りかねているか、そんなような。
わたしは先生の隣に腰を下ろした。スカートの膝裏に手を入れて、折りたたむように座る。床は冷たくなかった。うっすらと埃が、もう積もっている。それは西に傾いた太陽の光の中で、くっきりと浮かび上がる。
ごろりと吉村先生が仰向けになった。手が伸びてきて、わたしの膝を撫でる。小さな声が、反射で漏れた。
「お前の秘密?」
「え、」
「ああ、違った。これが、お前の言う、俺の秘密?」
光は眩しいらしい。目を細めると、先生の手はわたしの膝から離れた。わたしは正座のままでじりじりとにじり寄る。上半身を折りたたんで。先生の唇に、自分のそれをそっと重ねてすぐに離した。
相手の顔だけ見つめる。吉村先生は天井を向いたままゆっくりと時間をかけてまばたきをして、それからわたしの方を見た。
「……なにすんのさ」
唇の端が笑っている。だけど声は乾いている。間違ったことをしたのかな、と頬が急に熱を帯びた。ごめんなさい、と急いだ声が出た。
「……ごめんな、さい」
次はゆっくり。
先生の身体が揺れる。あ、と思ったら半身が起こされていた。その気はなくても自分の身体は逃げの体勢を取りかける。腕が伸ばされて。手首がつかまれていた。
「どうして謝る?」
「気を、悪くさせたかなって、」
「この部屋に連れてきたこと? キスしたこと?」
「……はじめてだから、下手くそだったんです、ごめんなさい」
はじめて、と先生がやわらかく繰り返した。目が細められて、笑っているような、痛いような、そんな表情になる。
「あれじゃ、カウントされない」
「ご、ごめんなさい」
「口開けて」
「――はい?」
それでも言われた通りに口を開けた。先生はわたしの手を取っていない方の手、まだハンカチが巻かれている方の手をポケットに入れてなにかを探る。白とピンクの包み紙が取り出されて、キャンディ包みのそれを器用に片手でくるりとほどいた。
ほい、と口に入れられる。練乳の甘さでミルキーと分かる。一度ゆるく溶けたのが固まりなおしたのか、舌に引っかかるざらりとしたトゲがあった。
「甘、い……」
口の中で転がす、右の頬の内側に舌で押し付けた瞬間、先生に手を引かれた。バランスを崩して、よろける。先生の胸に飛び込む形で倒れたら、頬と顎の境目に手を置かれて引き上げられた。
重なったのは、唇。
息が止まったのは、わたし。
先生がわたしの下唇をそっと噛む。甘い痺れが走る。口の中のミルキーを持て余したりしないような感覚で、彼の舌がすべりこむ。驚いて開きっぱなしだった目は、舌をやわらかく舐られた気持ち良さでとろりとまぶたが下りた。
きつく吸われて、同じ唐突さで力を抜かれて。ミルキーがさらわれて、違う場所に返される。身体中の力が奪われる。気持ち良くて目の裏がちかちかする。唇が離されたかと思うと、鼻と鼻をこすり合わせる。子犬の挨拶。頬が撫でられて、喉が撫でられて、鳴きそうになる。先生の呼吸、吐息から男の人の匂いがする。熱が、触れ合っていないところまでも飛び火する。
キスが。
こんなに気持ちの良いものだったとは。
再び重ねられた唇に、舌に、少しでも応じようとしてけれど無理で。わたしにまわされた先生の腕へ、きつく力がこもる。抱きしめられて、胸の底から痛いような甘いようなもどかしさがこみ上げる。
もっと、と。
唇が微かに離れるだけなのに、わたしはそう口にしてしまう。もっと。だめ、離れては。抱きしめる腕に力をこめて。もっと、もっと、もっと。みぞおちを蹴り上げる愛しさが、背中を駆け上がる微流の電気が、わたしをけしかける。もっと欲しがれ、もっと求めろ、もっときつく、もっと確かに。
これが、好きという気持ち、なのかしら。
濡れている舌と舌が絡むのだから、くちづけは濡れたものになる。そのはずなのに、わたしの中の乾きがもっともっとと言う。もっと、もっと、キスを。もっと、もっと。思わず力が入って、先生のシャツの肩口を握りしめていた。全身の感覚が唇に集中する。感じる為に、他が鈍る。
やがてふたりの唇が完全に離れたとき、まるで一日が終ってしまったような気すらしていた。
「……しちゃったな」
「だめ、でしたか、」
「どうだろう、立場的には……立場って問題じゃないな、俺、こういう気持ちで女とキスすることなんてもうないと思ってた、ってだけの話だ」
「こういう気持ち?」
先生の腕が伸びる。
わたしを後頭部にそっと手を置いて、自分の胸に引き寄せた。頬がシャツ越しの体温を知る。やさしくわたしの頬を両手で包んで、額にくちづけをくれる。
「キスしたいとかいう、気持ち」
「……キスしたいと思わなくても、できるんですか?」
「意識しなくったって、知り合い見かければ挨拶するだろう」
「そんなに簡単なことなんですか」
結構なショックを受けて、わたしは先生から飛び退いた。まじまじと見つめてしまう。
「他の女はね」
目を細めて、意地悪そうに笑う先生はわたしの手首をつかんで引いた。胸元に倒れ込む。先生の匂い。男の人の、肌の匂い。
「そういうこと言うの、やめてください」
「怒ったか?」
「他の女、とか言うの」
「なんだ可愛いな、嫉妬か」
嫉妬、と言われてぽかんとする。そんな単語、知識でしか知らない。だけど確かに。他の女と言われて、胸が嫌な感じに痛んだ。あの唇が、他の女の人を知っているなんて。知らないのならそれはそれで不自然なことなのだろうけど、とても、嫌で。わたしだけの、ものでないのが。
そう思ったらもう頬が熱くなっている。頭が、爆発しそうに恥ずかしくて真っ白になる。
「安藤って、そんな百面相もできるんだ」
「え、わたし、どんな顔してるんですか、え? え、ちょっと、見ないでくださいよっ」
「初めて見たときなんて、仏頂面で俺のこと信用ならんって目で見てたもんな。あのときと同一人物には思えない」
あのときは。
やっと見つけた、というか。
なんだかまだ先生が母寄りの人間のような気がしていたから、ものすごく警戒していた。勝手に思い込んでいただけなのだけど、でも先生の存在がわたしを母に殺させようとしたのは間違いではないと思うから。
「……いつまでつけてるんですか、」
話を逸らして、自分がさっき結びつけたハンカチを先生の手首から解きにかかる。結び目は軽く結わえていたはずなのに、動いていたせいかいつの間にかきつく絞まっていた。
指先と爪を立てて結び目を広げる。そちらばかりに意識がいって、気がつけば先生の空いたほうの手がわたしの頭を撫でている。意識したらまた恥ずかしくなって、けれど飛び退く驚きよりもうつむく気恥ずかしさが勝ってしまった。
可愛い、と。
耳にやわらかな声がするりとすべり込む。
「――そういうことを、」
「誰にでも言うと思うなよ」
笑う猫のように細められた目が。わたしを捕らえる。逃げるなんてできない、逃げ出すなんてしたくない。解けたハンカチが床に落ちる。わたしはそのまま先生の手首を握りしめた。顔を寄せる。唇を軽く開く。胸なんて限界を超えて打ち付けていた。このまま、意識なんて簡単に手放せると思った。先生の顔が近付けば、わたしの顔に影が射す。煙草の匂いがする。先生の舌はあたたかい。思い出して身体の芯がとろける。じゅんわりと、水をたっぷり含んだスポンジみたいになる。なんとなく内股になってしまう感じがして、それがひどく自分を女っぽく変える。
「好き――」
唇から思わずこぼれ落ちた言葉を拾うように、先生の唇が触れた。やわらかくて甘い。ここで、世界が終わってしまってもいい、と思いながらとろりと、わたしは目を閉じる。
本当だったらこれで終わりにしたかった。先生好きです、俺も好きです、わあい嬉しいな卒業したらわたしを彼女にしてくれますか、みたいな。
母の残したものを、見せたくない。
あれは、悪意の塊ではないにしても、未練の塊ではあるから。
純粋すぎる愛情は沈み込むように重い。愛されなかったわたしと、愛されすぎた先生と、プラスとマイナスを一緒にすれば釣り合いが取れるかといえばけしてそんなことはないのだから。
「……先生の秘密、見せてあげなくちゃ」
「なんだよ怖いな」
笑っている先生の顔は、きっと曇る。確信がある。それでも、うやむやにしておくわけにはいかなかった、わたしはもう既にそれを口にしてしまっていたのだから。
どうしてもっと上手に気を引けなかったんだろう。恋愛初心者な自分に腹が立つけれど、時間の経過と犯した過ちは取り戻せない。
「本当に、怖いですよ」
さっきのミルキーの甘さが口の中に残っている。それよりもっと鮮明に残る、先生の唇のやわらかさ。
立ち上がって隣の部屋のドアを開けた。靴下ではすべるフローリングの床を歩いて、クローゼットに手をかける。たくさんの封筒と、たくさんの写真と。のそりと起き上がった吉村先生がついてきて、わたしの肩越しから覗き込む。黙ったまま、封筒の中から写真の束を取り出した。それを、ゆっくりと一枚ずつめくって見せる。
「……なんだ、これ」
色を失くした先生の声が、水分も奪われてからからになって、わたしの耳にやっと届く。
制服で笑う先生。自転車に乗る後姿。授業中なのか、同じようなジャージ姿の男の子達とサッカーボールを蹴っている写真。犬の散歩をしている、友達と土手を歩いている、ゲームセンターで遊んでいる、駅前で佇んでいる、マフラーを巻きなおしているらしいところ、缶ジュースを飲んでいるところ。
「……安藤、これは、」
封筒ひとつ分の分厚い写真の束はすべて学生時代の先生。すべて、カメラ目線ではない。隠し撮りされた、本人の知らないところで撮られたもの。他の封筒にも入っている。写真は驚くほどたくさんある。写真の中で順番に年を取る、もしくは若返る、写真に比べれば薄い封筒には先生がどこでなにをしたのか、日記のような報告書が入っている。どこの誰なのかの素性も。隠し立てするようなプロフィールはなかったようなので、調べるのは簡単だったのだろうか。わたしは探偵ではないので分からない、ひとつだけ分かっていることがあるとすれば、母はバカみたいな大金を積んで先生のすべてを知ろうとしていたということだけだ。
本人が手に入らないので。
せめて、本人の影だけでも、と。
そう思ったのかどうかは知らない、だけど想像はできる。
「……母は、先生を……とても愛していたようです」
歪んだ愛の形だったとしても。
「わたし、母の残したこれを見て先生が瑞香女子に勤めていることを知りました。会ってみたかったから、編入しました、父に頼んで」
「……お前ら親子はなにを考えているんだ」
振り返ると、白い顔の先生がゆらりと立っていた。左の手を持ち上げて、口元を覆う。
「ストーカー、かよ……俺なんかのなにが、なんでだ、これはなんだよ……」
「……二歳の頃の記憶です。残っているはずなんてないんです、だけど、捏造したものだとしても、わたしの頭にずっと同じ映像があるんです。母に……なにか硬いもので殴りつけられて、倒れる自分が。フローリングの床に、ケチャップより赤いものが広がるんです、目がかすんで、お母さんって声が出ないんです、寒くないはずなのに身体が震えて。そのとき、ドアが開いたんです。なにしてるんだって男の人が驚いた声を上げて、救急車だって叫んだんです」
「俺、そんな記憶は……」
痛そうに眉根を寄せて。
ほら、とわたしは唇を噛む。見せなければ良かった。秘密なんてごまかせばよかった。どうしてそうできなかったんだろう、どうしてさっきの甘いキスで時間は止まらなかったんだろう。
母の愛した人だから、こんなに執着するのか。
それとも別の理由があるのか。
母が憎くて、それと同じ強さで愛して欲しいとも思っているバカな自分を、どこかで区切りたかった。そんな自分勝手な願いのために、先生を巻き込んだ。わたしと先生が出会ったことでさえ、母の残した未練。
「……ちょっと待ってくれ、なんかすごく頭痛がする」
「これは、先生の過去だから、先生に全部返します」
「勝手に盗まれてた過去だろうが」
「捨てるなり、アルバムに貼るなり、日記代わりに……」
「お前がなに泣いてんだよ」
「……え、」
泣いてる。誰が。どうして。
泣いてるなんて、だって理由がない。
泣くなんて、誰が。誰が。どうして。
こい、と手を引かれる。今日は何度手を引かれるんだろう、何度先生の胸に顔を埋めることになるんだろう。先生の指先は冷たい。血がうまく通っていないように。
「……だ、」
ぎゅうっと強く抱きしめられて、息が止まる。
だって、と。
唇から言葉は勝手にこぼれる。
「だって、先生ばっかり……ずるい、どうしてお母さんは……先生ばっか好きだったの、自分の産んだ娘なんか、どうでも良くなっちゃうくらい、邪魔になっちゃうくらい、どうして……先生ばっかずるい、お母さんに好かれて、ずるい……ずるいよ……」
シャツの向こう側にある先生の体温が。
「わたしだって、お母さんに好きって、可愛いって、言われたかっ……」
嗚咽が。
息を吸い込んだときに、ひ、と喉が鳴った。
吉村先生の胸にしがみつく。自分が表に出してはいけないと信じていた想いが、涙と一緒にこぼれ落ちる。先生の手がわたしの後頭部に置かれた。静かに髪を撫でられる。
「せ、先生、先生、お、お母さんは、わ、わたしなんか、い、いらなかった、の、かな、」
いらなかったんだよ、答えは分かっているから、相手を困らせるだけの質問をする。なにも言わないで、先生の手はわたしの頭をぎゅっと自分の胸に押し付けた。息苦しいほど先生の匂いがする。先生。先生。先生。
「俺が安藤のこと、いる。必要とする」
くぐもった声が耳に届く。そんな簡単なすり替えではないでしょう、と心の奥で呆れたような自分の声もする、けれど。
うん、と、ひとつ頷いてみる。
先生。
好き。
お母さんの後を追いかけて好きになっているような気になっているだけではないと、証明したい。
「……俺な、安藤のお母さんが今でも胸に引っかかっててさ。上手く恋愛とかできないんだよ、って、なんかいい歳の男がなに言ってんだろうな」
「……先生、お母さんのこと、今でも好きなの……」
「好き、っていうか。微妙な年齢のときに刺激が強すぎる体験したからな。キスしかしなかったけど、ひと言じゃ言えないようなことしてたんだよ。いや、言えるけど、芋虫ごっこみたいだったな……。なあ、お前の傷ってまだ痛いの?」
どの傷のことだろう、今日のものか、前に見せたもののことか。考えていたら沈黙になってしまい、先生の胸から引き剥がされた。少し乱暴だったので、自分が気に障ることをしてしまったのかとびくびくする。
先生はわたしの前髪を持ち上げると、左のこめかみ辺りに引きつれているであろう傷を眺めているようだった。そんなに見つめられると。恥ずかしくなる。
「……せんせ、い、」
顔が不意に寄せられて。傷のところに唇は押し当てられた。
「知らなかったけど、俺のせいでもある傷か」
横に振りたかった首は、先生の視線に絡め取られた目のせいで動かせなかった。
「なんかもうよく分かんないけどさ、教師がこういうこというのって良くないんだろうけど。頭パンクしそうだ、キャパ超えちゃったよ、今日一日。いろいろありすぎて。なあ、どうせだったら訳分かんないまんまじゃなくて、幸せに一日締めくくろうぜ」
「え、な、なんですか、」
「俺、安藤とも一回キスしたい」
「え、ええっ、な、えええっ、せ、先生?」
したいしたい、とにんまり笑われて、わたしはまばたきの回数がやたらと増える。いきなりすべてを曝け出しすぎたのだろうか。
だけど、わたしも、本当は、したい。
微かに首を傾げる。口元が勝手にゆるむ。なんかちょっと違うような、と言ってみるのは口先だけで、心は欲しがっている。王子様の、くちづけ。
先生が少しだけかがんで、わたしの唇を奪った。
舌をねじ込まれて、吸い尽くされそうにかき混ぜられる。息が、できない。息を、したくない。うっとりと目を閉じる。奪い尽すような、さっきとは違うキス。先生のいろいろを、もっと知りたいと思う。ライオンに噛み付かれるような、キス。




