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 雨が降る。

 九月半ば過ぎの雨は、先日までの真夏日を簡単にひるがえして、心底冷えるような空気を従えている。昨日の夜から振り続いていて、九州地方では大雨警報が出ているらしい。川があふれて床上浸水だのなんだのと、テレビでもラジオでもネットでも流している。

「なんだか夏じゃないみたいですね」

 事務の先生がお茶をいれてくれた。そうですね、と相槌を打つ。伊藤のいない職員室は、少なくとも俺だけは静かに平穏だ。

「それにしてもよく降りますね」

「こう肌寒いと半袖の生徒達が可哀想ですよね、衣替えもまだなのに」

「若いから、寒さなんてあまり気にならないかもしれませんよ」

「でもうちの生徒達はお嬢様ばかりだから、暑さ寒さには弱そうじゃないですか」

 各教室にはもちろんエアコンがついている。ただ、一斉制御なので、今日一日だけ暖房を入れるというわけにはいかないらしい。

「吉村先生、最近お疲れですか?」

「え、いや、まあそこそこ」

「顔が疲れてますよ、なんだか。伊藤先生に追い掛け回されているようですし」

 遠くの席に座っていた英語の教師が、俺らの会話を耳にしたらしく笑った。

「伊藤先生は吉村先生大好きですよね」

「やめてくださいよ、席が隣なだけですから」

「あんなに懐かれてるじゃないですか、伊藤先生が女性だったらお付き合いしていた関係かもしれませんよ」

 冗談じゃないですよ、と嫌な声を出したら、事務の先生からも笑われた。伊藤は実際にその場にいるとうっとおしいのだが、話題となって人の口から登場する分にはとても手頃なネタになるようだ。

 そろそろテストの問題を製作しないといけないのだけれど、上手く頭が回らない。手元に、二枚の俺の写真がある。高校生の頃の俺と、教師になったばかりの俺と。安藤から秘密を打ち明けられたあの日、自分の混乱を悟られたくないのと身勝手な欲望でくちづけて、彼女をうやむやにしてしまった。渡された自分の大量の写真と、報告書と書かれた自分の経歴だのランダムに選んだのかそうでないのか、本人が覚えてもいない一日の自分の行動表と。そんなものを、渡されても。正直、気味が悪いだけだ。好意を振りかざしてプライバシーを細部まで突き回して、それも本人の知らないところで第三者の自己満足の為に、過去の俺が切り取られている。気持ちの良いものではない。けれど、それはあの女が俺を愛していた証だという。あの女は、俺を弄ぶだけだったあの人は、俺を好きだったと。

 好き、という気持ちはなんなのだろう。

 分からなくなってくる。

 しかも安藤はその娘だというのだ、あの人の娘。あのときは冷静な振りをして、似ているよ、なんて言ってみたけれど、本当は動揺していた。娘。あの女に。いつかの目の前が真っ赤に染まる映像が、嫌がって横に振る頭を押さえつけてこめかみをこじ開けるようにして流れ込む。あれは、ただの悪い夢だと思っていた。映画かなにかが、嫌な感じで脳内に引っかかるよう残ってしまって、時々悪夢になって現れるのだと。

 頭痛がする振りをして目を閉じてこめかみを揉む。

 あの人の香りが、鼻先をくすぐる幻影はすぐに現れる。

 オレンジの匂いだったり、強すぎる麝香、白檀の匂いだったり。

 細い腕を引く。頭の中で、俺は縛られていた手を自由に解き、逆にあの人を縛り上げる。首筋に噛みつくよう歯を立てて、ブラウスのボタンを外すのももどかしく引き千切って。露わになった肌に唇を落とす、強く吸って赤紫の花を咲かせる。いくつも、いくつも。指先に神経を集中させて、身体のラインをなぞる。すべては肌理細かくてやわらかい。声は上がるだろうか、いや、きっと唇を噛んででも声は上げないだろう。唇だって噛んだりしない、俺の稚拙で必死すぎる動きに、あの人は薄く笑うだけだ。

 俺のものは痛いほど張り詰めている。触れられれば弾けそうなのに、触ってはもらえない。俺が、あの人の手を縛ってしまったから。それなのに逆恨みする、触れてもらう権利はないのだと切なくなる。触られたくて腰を自然と振ってしまう、それをあの人は笑うのだ。意地になって俺はきつくその白い肌に印を残そうと躍起になる。噛んで、吸って、あんなのただの毛細血管の損傷による内出血なだけなのに、キスマーク、だなんて名前をつけて必要以上の慈しみだとか愛を感じたりする、あれはなんなのだろう。それでも俺はあの人の肌に、不必要で時間の経過とともに消滅する、花を咲かせずにいられない。

 指先は羽の軽さで、定規の正確さで彼女の肌に触れる。ぬくもり。内ももにすべるとき、微かに身じろぎをする。逃さず顔を戻してくちづける。唇を重ねて、舌でこじ開ける、ずっと、ずっと望んでいたもの。ずっと、ずっと焦がれていたこと。身体を無理にでも繋いでしまえば、心なんて手に入らなくても忘れられなくなる。肌に刻んでしまえば、なにかの拍子で記憶の上澄みに浮いてくる。不意に、思い出して。突然、甦って。俺を思い出せばいい、長い時間経過の中の、ほんの些細な一瞬だったとしても。

 なんて。

 女々しいことを考える。

 あの人はもう既に潤い過ぎるほどになっているだろう。俺のものが張り詰めすぎているのと同じように。あの深く濡れた覗くことのできない穴に、自分の熱のすべてを突っ込んで注ぎたい。印。くちづけ。身体を洗ってしまえば表面的なぬくもりも絡んだ痕跡も流れてしまうかもしれない、それでいても記憶は消えない。

 そんな幼稚なことを。

 ずっと、望んでいた。

 頭の中であの人を犯そうとしても、俺の手は妄想の中でさえ彼女の太腿を撫でるので精一杯だ。なめらかな背中に指を這わせるので、痛いほどのくちづけをするので、もうそれ以上進めない。思わず笑ってしまうので、声を出さないようにだけ気をつける。

 目を開けば、各学年の教科書と参考問題集とつけっぱなしのパソコン画面と、まだ湯気の立つ湯のみ茶碗。

 もう一度目を閉じると、あの人の姿は制服の安藤と入れ替わっていた。

 先生、と安藤の唇が開く。

 ――先生。

 ――好き。

 あの人の貼りつけたような笑顔ではなく、彼女は目を細めてにっこりと笑う。

彼女が、あの人の娘。だから俺は安藤が気になるのか、それともまったく違う理由があるのか、はっきりと断言できないから迷う。手を出していいのか、悪いのか、もちろん教師と生徒なので手を出すというのは問題があり、そもそも俺は安藤になにを求めているのか。

 あの人の代わり?

 大体俺はどうしてあの人に囚われ続けるのだろう、甘やかな記憶は未練の塊か。あの人が俺のことをずっと調べていた、それは愛されていたという証拠なのか。俺はあの人になにをしてあげれば良かったのか、どうしてあの人は直接なにも言ってくれなかったのか。連れて逃げて、と言われたら、俺はどうしていただろう。戻れない過去に、実行されなかった行動を今更当てはめてみても意味はない。けれど考えてしまう。もしも、の話は自由に翼を広げる。無駄にはばたく。

「……大人でも恋、ってするもんなのか」

 大人ってほど大人でもない自分に呟く、誰にも聞かれていませんように、と祈りながらも口に出さないと頭が動かないようで。とりあえずこの写真の山をどうしよう。実家に送りつけてアルバムに貼ってくれ、なんて不自然すぎる。


 逃げ回っていても仕方ないので、伊藤を連れて飲みに出た。失恋の話を聞こうとしたら、もういいんです、なんて言いやがって、でも心が痛いので吉村先生奢ってください、なんて続けたから、うっかり殴ってしまいそうになった。

「奢る理由がないです」

「だから失恋したんですってばあああああ」

「じゃあ、失恋内容を話してみて、俺が奢る価値有りと判断したら奢ります」

「どうして傷をえぐるようなことしなきゃなんないんですかあああああ」

「語尾延ばしても可愛くないですよ」

 駅前の居酒屋はチェーン店で、伊藤と飲むのなんてそんなところで充分だ。ジョッキのビールをあおる俺の向かいで、伊藤はカシスオレンジなんかをちびちびとすすっている。あれはおっさんの外見をした乙女なのだと言われたら、妙に納得してしまいそうな自分がいる。

「……この前、合コンしたじゃないですか」

 合コン。合コン、合コン、本気で一瞬分からなくて真剣に考え込んだ、もしかしてあの卒業生の短大生としたあれだろうか。

「ボク、あれから牧村さんが気になって気になって、考えたんですよ。これは恋じゃないのかって」

「牧村さん?」

「合コンセッティングしてくれた卒業生ですよ、あの可愛い子」

 そんな名前だったのか。可愛い子、と言われても四人みんな同じような顔だったような、細部なんて誰一人として思い出せない。

「でもほら、ボクの夢は在校生とこっそり付き合って、卒業と同時に発表して結婚するってのじゃないですか」

「ある意味、白馬に乗ってる王子様を待ってるような女みたいですよね、化石っぽいというか、」

「ボク、乗馬ってできる自信がないんですよね」

「はい?」

 自分のことを王子様だと思っている人が現れたら、どういう顔をすればいいのだろう。笑ってやればいいのか、目を覚ませと怒ってやればいいのか、病院に行けと心配したほうがいいのか。そもそも、こんな男が教師をやっていていいものなのだろうか。それにしてもあの合コンで欠片も相手にされていなかったこの男は、いつ彼女に恋をしたというのだ。

「牧村さんにメール出したんですよ。また会いたいけれどどうしたらいいんだろうって。恥ずかしがってるのか、返事はなかなかこなかったんで、手が空いてるときに同じメールをずっと送ったんですよね」

「……同じメールって、まったく同じ文面をですか?」

「送信ボックスに入ってるメールをそのまま再送信しましたけど」

 通りかかった店員にビールを追加注文する。まだ飲み終わっていない伊藤は、それでも合わせたのかグレープフルーツジュースも、と言う。

「……それ、何通くらい?」

「一週間くらいですかね、朝起きてからと、出勤してからと、休み時間とかと、まあ手の空いたときにずっとです」

 それは何百通だ。よく着信拒否にされなかったもんだ、いや、着信を拒否されたのが分からなかっただけか。下手するとストーカーかなにかで通報されるレベルだと思われる。

「それでも返事がなかったんで、携帯電話に電話してみたんですよね。そしたらおつなぎできませんとか言うじゃないですか、電話が!」

 完璧な着信拒否だ。

「だから、名簿で調べてお家に電話かけたんですよね」

「……わざわざ、」

「だって携帯電話が繋がらないってことは、彼女になにかあったのかもしれないじゃないですか、卒業生だと住所とか電話番号とか分かっていいですよね」

「……職権乱用ですよね」

「そうそう、ボク昔、職権ってずっと食券だと思っていて、乱用するってことは持っている券を食べもしないのにすべてご飯に替えちゃったりするのかな、とかって思ったりしてましたよ、あはは」

 グレープフルーツジュースって酸っぱいですね、と伊藤がグラスに口をつける。ガムシロップでももらいますか、と聞けば、いいですね、と言われてしまう。

「そうそう、牧村さんなんですけどね、そうそう。家に電話したんですよ、そうしたら出てくれまして。携帯電話はなんでも水に落としちゃったから使えなくなってるんだって、苦い声で言ってましたよ。若い女の子はそそっかしくて可愛いですよね」

 若くなくても女じゃなくてもそそっかしいのはそそっかしいし、しっかりしたのはしっかりしている。なんだか今日の俺は自棄に伊藤に対して反発的で、だけどそんなのはいつものことかと思い直す。ビールが苦い。間違った飲み方と言われても、俺は痺れるほど冷たくしたビールが好きで、けれどこういう居酒屋ではまず出てこない。泡が雑だったりして、やるせない。焼き鳥の盛り合わせからレバー串を取って口に入れた。火を通しすぎているのか、硬い。

「酒が不味くなるな」

「吉村先生?」

「あ、すみませんなんでもないです、で?」

「で?」

「牧村さん」

「ああ、そうなんですよ、電話出てくれたんですけど、それがね、ボクね、好きだから付き合ってくださいって言ったんですよ」

「え、いきなり?」

「いきなりじゃないですよ、頭の中で何百回、何千回とシュミレーションしましたから」

 それは自分だけであって、相手にとったらいきなりだろう。どうしてこいつが教師なんてやっているんだろう、としみじみ顔を眺めてしまった。俺だって褒められたものではないかもしれないけれど、頭が良いことと勉強ができることと、社会に順応していくことはまったく別物なのだと感心までしてしまう。

「そうしたら、牧村さん、長い沈黙の後で、付き合ってる人がいるから先生のお気持ちは嬉しいですけどって言うじゃないですか。すごく切なそうに言うんですよ、あんなに沈黙してたのも、泣いてたんじゃないかな」

 それは沈黙ではなくただの絶句だと思う。そして、その長い時間で伊藤をどう撃退するか考えていただけだと思う。

「相手は同じ年で別の大学の人間だって言ってたんです。牧村さんには優しいけれど、他の人には乱暴なところがあるから、もしもボクの好意が知れたら嫉妬してボクに暴力を振るわないとは限らないって。伊藤先生の気持ちはとても嬉しいけれど、先生が傷付いたりすると哀しいから、お気持ちだけで自分のことは諦めてくれって。……いい子だよね、ボクのためにボクを好きな気持ちを押し殺して、あの子はそうまでしてボクを傷つけないようにと……」

 グレープフルーツジュースを飲みながら涙ぐみはじめてしまった。俺はあまりにもデキの悪い嘘話に言葉を失くす。この人本当に童貞なんだろうな、と思う。そんな無茶苦茶な嘘に騙されるなよ、と、女の方にも腹が立つ。もう少しまともな嘘吐けよ、と。

 端が焦げてしまっている唐揚げにはどうも手が伸びなかった。仕方なくゆで過ぎの枝豆をつまむ。通りかかった店員にビールを再び注文して、何気なくその店員の顔を見た。

 短すぎる髪、薄っぺらな身体、男か女か一瞬分からない中性的な雰囲気。

「お前、少年女っ、」

 じゃなくて、名前はなんだっただろう。思わず手首を掴んでしまった。

「バレた!」

「いや、全然気付かなかった、たまたまだ。偶然だ」

「……そっちは?」

 少年女がちらりと伊藤を見る。伊藤はぽかんとしたまま唐揚げを箸に刺していた。知り合いですか、と聞きたそうに間抜けな開けっ放しの口をしている。

「……分かってない」

「よしっ、じゃあちょっと、」

 掴んでいた手首を引かれたので、バランスを崩してよろけた。立て直そうとして、立ち上がる。

「なんだよ」

「バレてないものだったらそっとしときましょうよ、でも先生は気になるんでしょ?」

「なにがだよ」

 ひそひそ声になっているのはつられたからだ。

「ビール一杯奢りますから」

「いらねぇよ、うちの学校バイト禁止……」

 でもなかったな、と思い直す。お嬢様が多いので、金に困るような生徒はいないものとしてバイトなど禁止どころかする必要のないものとして認識されているようで、校則にはバイトに関する規定はなかったような気がする。でもアルコールの出る店でのバイトはどうだろう。

 なんて考えているうちに引っ張られて、トイレのところまで連れてこられてしまった。

「なんだよ、安藤もお前も強引な奴らだな」

「安藤? 安藤の好きなのって先生でしょ? 強引にキスでもされたんですか? って、あの子そういうことできなさそうだから、無理かな」

 あれ先生顔赤いですよ、なんて言われても引っかからない、酒を飲めば血色は良くなる。

「お前なんでこんなところで働いてんだよ」

「親の店ですぅ」

「嘘吐け」

「嘘ですぅ」

「からかってんのかよ」

「からかってないですけど、軍資金溜めてるんです、内緒にしといてください」

「なんの軍資金か知らんけど、もっと稼ぎのいいバイトはあるだろうが」

 バイト推奨していいんですか、職業に貴賎はありませんよ、と小坂が言う。そうだ、小坂だ、この少年女の名前は。

「どうせ毎月使い切れないような小遣いもらってんだろうが」

「なんですかその偏見。まあ、もらってますけど、でも自分で働かなきゃ分かんないお金の重みってあるじゃないですか」

「それはそうだけどな」

「幸せにしたい人がいるんですよ、そのために稼げる自分になりたいんです」

 なーんて、格好良いことを言ってみたりします、じゃあ内緒にしておいてくださいね、と小坂は微笑んで身をひる返す。他の客に呼ばれたのか、途中で近くの席に寄っていた。

 俺は伊藤のところに戻ると、黙って冷めた唐揚げを口に入れた。脂肪の部分がぬらりとぎとつく。ビールで流し込む。

「さっきの、知り合いですか?」

 安藤も小坂も理科の授業はこいつが担当だったのでは、と思ったけれど、まあ、とだけ答えておいた。担任でもなければ、気に入った生徒以外の顔などそう覚えない、という教師もいないわけではない。伊藤はきっと、可愛い子ばかり眺めているのだろう。

「まあいいんですけど、ねぇ、吉村先生。ボク、牧村さんのこと考えると胸が痛いんですよ。ぼんやり考えていると突然大声で叫びたくなったり、そうかと思うとなんかもっとこう他のアプローチの仕方があったんじゃないかと考えたり、彼女が恋人だったらどんなことをしてあげようって想像したりするのが楽しかったり、だけど他の男のものなんだって落ち込んだり。なんなんですかね、自分が忙しい感じです」

「恋、してるんじゃないですか」

 恋なんて単語、三十も過ぎた男が口にするのも気恥ずかしいと思ってしまうのは、自分にまったく無関係なものではないからだ。無関係だったらもっと簡単に言葉にできる。恥ずかしがりもせず。意味を知って発するから、言葉は刃にも花束にもなる。知らないで口にするのはただの音だ。耳を通り過ぎていくだけの、音。

――先生、好き……。

 耳の奥で響く声。意味を知る、その言葉は花と咲く。

 背筋に一直線の電気が走った。身体が勝手に姿勢を正す、目が一度大きく開かれてゆっくりとまたたきをする。

「吉村先生?」

「あ、なんか……飲みすぎたかな、と」

 頭の中をゆっくりとかき回す、細い腕。あれは。

「今日暑かったですもんね、ビール進みますよね」

「日本酒でも、飲もうかな」

「ええええ、今飲みすぎたって言ったじゃないですか」

「飲みすぎたとは言いましたけど、もう飲みたくないとは言ってないじゃないですか」

 受け答えしながらも、伊藤の声は遠くにある。脳内で再生される声は、あの涼しくやわらかな声は。

「変な親子……」

 酔ってしまえば、気味の悪さに怯えていた俺の過去の切り取りも、だからなんだ、という気になってくる。犯罪に使われたわけでもないだろう。もういいや、と口にすると、本当にどうでもよくなる。まあいいや、と口にしてしまえば、なあなあで許される。酔いが醒めたあと、どうなっているかは知らないけれど。

 注文した日本酒は、涼しげな緑色のガラスの徳利でやってきた。瓶ではないのか、と思いながら、コップについで飲む。

「なんか吉村先生楽しそうですよ」

「楽しいんですかね、よく分からないですけど」

 少ししてからグラスでビールが届けられた。小坂の奢りか。せめてジョッキにしろよ、とつい笑ってしまった。

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