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秋の長雨が続くと思ったら、また暑くなった。衣替えがまだで良かった、と思う。降りそうな夕立は灰色の雲だけで終ってしまったり、ほんの五分だけ気紛れに降って湿度を増し、いたずらに蒸し暑くなるだけという嫌がらせをしてみたり、この頃の気候は吉村先生より意地悪だ。
毎日はなんだか短いイメージがある。そのスピードに乗り遅れないように、と思うのかそれとも無意識なのか、どこかみんな浮き足立っているように感じるのは、テストが近いからかもしれない。一応附属の大学もあるので、生徒達は進学にそうぴりぴりすることもないし、赤点は平均点の半分未満からという鷹揚さで、テスト期間中もそう切羽詰ったような雰囲気はないけれど。なんだかいろいろがあっという間に流されるよう過ぎていく。
吉村先生とはあれから顔を合わせていなかった。
あの、マンションに出かけた日。校内に入り込んだ犬に襲われ、助けられ、伊藤先生に追われ、一緒に逃げ、キスをして、母が溜め込んだ過去の先生を解放したあの日から。全校朝会などで遠くから見かけることはあっても、先生はわたしに気付かなかった。気付いてくれなかった。視線をほんの少しでもこちらに向けてくれれば、わたしがいつでも先生を見つめていることなんてすぐに分かってもらえただろうに、視線どころか顔が向くこともなかった。
先生は母の執着に呆れたのだろう。
愛想が尽きたのだろう。
だってあんなのはただのストーカーだ。
わたしはその娘なのだ。
厄介なものと関わってしまったと思っているのかもしれない。それにわたしだって、先生ばっかりお母さんに愛されてずるい、なんて言ってしまったような記憶がある。あれは、完全に先生を好きだというよりは、先生を第三者としてライバル視しただけのようではないか。
そんなわけの分からないのは、関わりたくないと思われても仕方ない。
そう思おうとする。
けれど。
本当は先生の顔が見えないだけで、胸が締め付けられるように痛い。わたし以外の生徒には、あの優しい笑顔を向けているのだろうと思えば、苦しくて仕方がない。わたし以外のすべての人は、吉村先生に優しくされているのではないかと錯覚して気が狂いそうになる。好かれたいなんて我儘は言わない、嫌われたくない。ただ、それだけ。そう思う次の瞬間はもう首を横に振っている。嘘。嫌われたくないなんてそんなささやかな願いではない。好かれたい、触りたい、もう一度キスがしたい、できればそれ以上。想像して赤面する、裸の上半身が抱き合う妄想だけで顔が火傷しそうになる。処女なのに。わたしはいやらしい。だけど今までこんなことしたいとも思ったことはない、先生が。わたしの欲望の栓を抜いた。なんて。
「女子トイレって女くさい」
「小坂さんはさ、自分が女だって自覚はあったりするの?」
「あるよ、そうでなかったら女子トイレなんか入らないって」
今日はなんだか腰の辺りがひどくだるい。最近食欲がない。恋煩いしてるからじゃないの、と小坂に言われて、ちらりと視線を送った。言葉は出てこなかった。顔が疲れすぎてる、と言われる。恋のせいで食事ができないのかは分からない、ただ最近のわたしの主食は果物だということだけは事実。まるで夢を生きる乙女のようだ。
「お腹痛い……」
「食べるもの食べてないから、便秘なんじゃないの?」
「なんかそういう感じじゃなくて、胃の下辺りがぐるぐるするというか、」
「食当たり?」
変なものを食べた記憶はない。
「違うと思う、」
お昼休みのトイレは、大抵混んでいる。歯を磨いている子もいれば、口元にお弁当の残りがついていないかチェックする子もいるし、他のクラスの友達と話していたり化粧を直していたりする子もいるから。女子くさい、とまた小坂が小さくつぶやいて、顔をしかめる。腰周りが厚ぼったい感じで不快なのを一瞬忘れ、わたしは笑った。
「小坂は睡眠不足とかにならないの?」
「全然。元々そんなに寝なくても結構平気だし、まかないとかガッツリ食べてるし、楽しいから苦にならないし。学校だけじゃないよ、って感じ。人の集まりっていうかが」
小坂は最近アルバイトをはじめた。お金を貯めて、南條先輩を彼女の家から連れ出したいらしい。愛人の名前を子供につけるような親と一緒だとなんか駄目だよね、と小坂は言う。南條の愛されたい願望と、裏腹に相手をとことんまで嫌な言葉で追い詰めてどこまで自分が許されるのかを確認したくなる小心者なところが、と。守ってあげたくなる、そう言って小坂は微笑む。
「南條先輩、嫉妬しない?」
「するする、毎回大騒ぎ。バイトの話なんかしたら、一週間は不機嫌なまんま。あんたばっかり外の世界と繋がってずるい、だとか、どうせいつかは私を捨ててそこらの男と恋をしちゃうのよ、だとか」
「目に浮かぶ……」
「好きでも時々やってらんないよ!」
「でも好きなんだよね」
「……悔しいことにね」
順番待ちの個室が開いて、わたしが先に譲ってもらった。ありがたくお言葉に甘えて、入る。
スカートをめくり、下着を下ろしたときだった。和式のトイレにしゃがみこもうとして、違和感があった。ふらついたので足に力を入れる。視線が、下着に落ちる。
チョコレートのような、茶色い染み。
なにこれ、と他人の声のように響く言葉が自然とこぼれる。
知らずに落としたチョコレートの欠片が、溶けて服につくとこんなような色になる。
なにこれ、ともう一度つぶやいて、手が自然にトイレットペーパーを掴んでいた。今まで下着が当たっていたところをそっと拭いてみる。それを恐る恐る視界に入るところまで持ってくると。
そこには同じチョコレート色の染みと、微かに混じる淡いピンクに似た赤色の、血がにじんでいた。
トイレをどう出たのか記憶がない。用を足したのかさえも。気がつけば心配そうな顔の小坂が、ベッドに横になるわたしの顔を覗き込んでいた。
「あ、焦点が合った、良かった良かった。ちょっと、顔真っ青だったんだよ、今も青いけどさ、大丈夫? 貧血?」
「あれ……わたし……」
「トイレから出たら真っ青な顔してたから、慌てて保健室連れてきたんだけどさ、焦点合わないんだもん。ベッドに寝かせたら大人しく従ったからさ、寝ててもらったんだけど」
「わたし……身体が変……」
変って、と小坂が戸惑った声を出した。
「お腹痛いの? 頭痛いの? 気持ち悪いの?」
「チョコレート……」
「え?」
「どうしよう……チョコレートがわたしの身体から……」
「チョコレート? どうしたの、なんか幻覚でも見てんの? 暑さのせい?」
「わたしの身体からチョコレートみたいなのが出るの、下着につくの、なんか血が混じってるみたいなの!」
下半身の出血、というのはなんだか口にするのがものすごく恥ずかしい。ほとんど叫ぶように言うと、小坂がきょとんとした顔をした。
「……生理、まだ?」
「……はい?」
「安藤、初潮はまだですか?」
ショチョウ、の漢字が分からなくて首を傾げる。生理だよ生理、毎月排卵日に子宮に落ちた卵が受精しなかったからって、子宮の壁と一緒に剥がれ落ちて体外へ排出されるあれだよ、と言われて、ああうん、などと呆けた声が出る。
「生理なかったの?」
「え、な、なにが、え、どういうこと?」
「あのさ、多分それ、生理だよ。チョコレート色のかすれたような血がパンツにつくんでしょ? 私も中一のとき初めてなってびっくりしたもん。鮮血じゃないんだよね」
「え、え、あの、」
「っていうか、安藤がまだ生理なかったってのがすんごい不思議。あ、でもあれって個人差があるみたいだから、そうか、おめでとう」
「せ、生理? これって、生理なの?」
腰が重たいのもお腹が痛いのも、胃のところがぐるぐると気持ち悪いのも。
そうだよそんなの典型的な生理中の症状じゃん、と呆れたように言われて、じゃあわたしどうすればいいの、なんてバカみたいなことを聞いてしまう。小学校の保健体育で、確かに女子だけ集められて女性の身体の仕組みは聞いた。だけど。でも。そんなの遠い昔の話で、わたしは自分で勝手に生理なんて無縁のものだと思っていたのだ。未成熟のままで生きて行くというか。母のようになりたくないから、わたしはずっと大人にはなりたくなくて、自分で生理を止めてしまっているんだ、なんて。そう、思い込んでいた。
「なに、生理用品とかなんにも用意してないわけ?」
「い、家にはある……と思うけど、学校になんか持ってきてない……」
「のんびりしてるな、もう。まあ安藤らしいけどさ、私のでよければあげるよ。でもサニタリーショーツは自分で買っておいで」
「サニタリー……?」
「生理中はいつもと違うパンツ穿くんだよ! 締め付けがちょっときついっていうか、脱臭効果があったりするような。んーと、簡単に言うと生理用のパンツ。習ったっしょ、小学校んとき」
チョコレート色の血は、これから延々とわたしから流れ続けるのだろうか。ずっと? ではわたしの今までのお気に入りだった下着達はどうなるのだろう。箪笥から出されることはないのか。じゃああの赤いレースのたくさん使われた大人っぽいショーツだとか、結構リアルなウサギがいっぱい刺繍されたクリーム色の可愛いやつなんかはもう二度と……と思うとなんだかひどく哀しくなってくる。
「やだ、お腹痛い? 辛そうな顔になってるけど」
「……わたし、一生血を流し続けるの?」
「え、閉経したら生理止まるよ」
「閉経っていつするの、おばあさんとかになってからでしょ? そんなころには、もうお気に入りのショーツなんて穿けなくなってるじゃないの……」
「ちょっと待って。なんかおかしい、安藤は生理になったら閉経までずっと血が流れ続けると思ってる?」
「違うの?」
「あんた、小学生からやり直してきなさいよ!」
変なとこボケてて嫌だよこの子は、とさっきより数倍呆れられた声で言われた。だってそれどころじゃない、生理なんて言われてどうすればいいのか分からない。生理って、なんだっけ。身体の仕組みなんて、目に見えてる表面だけでも分からないことだらけなのに、視界に入らない内臓だのの中身なんてもっと分からない。
「生理の血が流れるのは大抵一週間くらい! 周期は二十八日とか三十日とか三十二日とかいろいろあるけど、まあ多少ずれつつ一ヶ月に一回生理がくるものと思ってればいいの。血が流れる時は痛かったり不快だったり不調だったりするけどね、女みんなそんなもんだと思ってれば自分だけって悲劇に思わなくても済むはずよ、って生理が軽いわたしが言うと重い人からは殴られるけどね」
「生理の軽い重いって、体重?」
「体重じゃないよ、生理のときに身体がしんどすぎるか、まあ血が出てるな、くらいで終るかの違い。あ、私タンポン派だから、ナプキンは大きいの持ってないけど、とりあえずいいよね。カバンに入ってるから、後であげる」
保健室にもあるはずだけど、保健の先生いないんだよね、と小坂がぐるりと周りを見回した。いつもいない。保健の先生はどこでなにをしているんだろう、いつも。
「あ、この前バイト先で吉村先生に会ったよ」
「え? え、ずるい」
「向こうが勝手にきたんだもん、ずるくないよ。伊藤先生もいた」
「バレちゃった?」
「伊藤先生は全然気付いていなかったみたいだけど。吉村先生には気付かれて腕つかまれちゃった」
いいな、とうらやんだ声が勝手にこぼれる。いいでしょ、とにやけた小坂が、わたしの手を取って自分の腕を握らせた。
「ここを掴まれたの。関節キスならぬ、関節接触」
「……こんなので嬉しくなっちゃうわたしって、バカだよねぇ」
うぬ、だとか、うむ、のような声を出して、小坂が跳ねる。
「ちょっとナプキン取ってきてあげる、安藤ここで寝てて!」
小坂は元気だ。小鹿のように跳ねて保健室を出て行く。わたしはそれを見送ってから、ベッドに横になったまま目を閉じた。保健室はクーラーが効き過ぎてもいないし、カーテンが日差しをきっちりと遮っているし、消毒薬の匂いが微かにして居心地がいい。シーツはほのかに花のような香りもする。
吉村先生をベッドに押し込んで、伊藤先生から隠れたこともあったのを思い出す。足だとか腕だとかが先生に密着して、なんだかとても恥ずかしかった。恥ずかしがっていることを悟られたくなくて、身体に力が入りすぎてしまったりもしていたような。
もう一度、キスがしたい。
もう一度、先生に触れたい。
わたしだけのものにならなくていいから、傍にいたい。嘘吐き、という自分の声が胸に響かないわけではない。わたしだけのものにならなくていいなんて、嘘。本当は先生が他の誰かを見るのは嫌。他の女の人とキスしたりしないで欲しい。触らせないで欲しい。触らないで欲しい。先生に触りたい。ぴったりと隙間なく寄り添って、先生の煙草の匂いと身体の匂いの混じったものをずっと感じていたい。先生がぎゅっとわたしを抱き締めてくれればいい。離したくない、というように。髪を撫でて欲しい。先生をぎゅうっと力いっぱい抱きしめて、好き、と耳元でたくさん囁きたい。頬にくちづけたい。
吉村先生。
先生。
先生。
もうわたしに興味がなくなってしまっただろうか。
本人未承諾の過去を切り取って集めていた女の娘なんて、愛想が尽きただろうか。
だったら、あの最後のキスをして欲しくなかった。未練が残るから。だけど、あの最後のキスをしてくれて良かった。幸せな思い出がひとつ増えたから。
どうせだったらわたしを滅茶苦茶に傷つけるようなことを言ってくれれば良かったのに。気持ち悪いだとか、信じられないだとか、子供と恋愛するつもりはないだとか、どうせお前も面倒臭い女なんだろうとか。ひどい言葉で罵ってくれれば、わたしは先生を諦められたのかもしれないのに。ただ避けられるだけなんて苦しい。哀しい。消えてしまいたくなる。
知らず知らずのうちに溜まってしまったのか、涙が目尻からこぼれた。目を開ける気にはならず、涙の流れるままにしておく。いっぱいの涙を流し続けたら、いつか心の痛いのも流れて出ていってしまうだろうか。涙の浄化作用。先生を好きだという気持ちも、先生に嫌われたかもしれないという恐怖も、全部、全部。流れて、しまえ。
カーテンの引かれる音がした。小坂が帰ってきたんだろうと、うつらうつらしていたらしい、涙拭かなきゃ、という気持ちと、もう乾いてしまっているだろう、という気持ちとが混ざって腕が重たく持ち上がらなかった。
「安藤、寝ちゃってる?」
やっぱり小坂だ。ううん、と声を出すけれど、それはかすれていて重たかった。咳払いをして、ううん、と言い直す。
「って、小坂さん授業はどうした、の、」
目を開けないと。もしかしてわたしは眠いのかもしれない。それでも頑張って目を開ける。そこに、愛しい人の姿がある。
「わあ、白昼夢……わたし、寝ぼけてる……」
思わずつぶやいたら、幻が笑った。
「お前の友達はすごいな、職員室にいたら無理矢理引っ張ってこられたぞ」
「おかげ様で職員室にいた他の先生から、授業どうしたって怒鳴られたよ! 安藤に貸し一ね」
たまたまのこの時間に吉村先生が授業入ってなかったってのは、もう運命的な奇跡なんじゃないの、と小坂がにやにやする。頭がついていかなくてぽかんとしているのはわたしだけで、吉村先生までほんの少し意地悪なような顔で笑っている。
「じゃ、私は真面目に授業受けてきますからね。あ、これ。ポーチだけ後で返してくれれば、中身好きに使って」
ぽん、と投げられた白黒ストライプのビニールポーチはてのひらにすっぽり入ってしまうほどのもので、慌てて半身を起こして掛け布団の上に落ちたそれを手にする。
「使い方分かんなかったら、吉村先生に聞いてみ」
「ちょっ、こ、小坂さんっ、」
「なんだそれ?」
「先生、この子今日、女になったんだよ」
「俺、なんにも覚えないぞ、って、あ? おい、もしかして、あれか」
お赤飯的な意味のあれかよ、と吉村先生が驚いた声を上げる。初めて会ったとき、確かにわたしはつんけんしながら先生にそんなようなことを言った覚えはある、わたしは生理がないのだと。もしかして。覚えていてくれたとか。そういうので、ときめきを感じてしまうのもどうなのだろう。
「吉村先生、覚えがないとかって教師が言うのはどんなもんだろう。っていうか、なに、先生も安藤のこと好きなの?」
「ちょっ、小坂さん、やめて、先生の、」
迷惑になっちゃうから。そういうことがずばりと聞ける彼女が羨ましいような疎ましいような、ここから走って逃げたいような。
「少年女」
「吉村先生、わたしの名前はこ・さ・か」
「知ってる。小坂、俺はお前の秘密を握ってるよな」
「なんですか、脅迫でもするんですか、しかも意味分かんない脅迫なんですけど、それ」
「握ってるよな、お前の秘密」
「はいはい、握ってますよ、いっこだけね。でも私の秘密がいっこだけなんて思うなよ!」
「一個知ってれば取引なんて充分だ、よし認めたな。じゃあこれから俺の秘密をバラすから、お前絶対言うなよ、誰にも」
先生、ここでバラしたらわたしにも聞こえてしまいます。わたしが慌てて遮ると、お前は関係あるけど関係ないからいいんだ、と言われる。関係あるけどないって、なぞなぞなのかなんなのか。
「安藤、なに泣いてんだよ」
先生が話を変えて、ベッドのふちに腰掛けた。それだけで心臓が跳ね上がる。先生が、近くにいる。腕が伸ばされて、わたしの目尻に指が触れた。体温の高い指。微かに、煙草の匂いがするような、しないような。恥ずかしくて照れる、唇が勝手にゆるんでしまうので引き締めようとして変な顔になる。
好きな人といるときは、いつも格好悪い顔になってしまうものなのだろうか。絶対冷静でなんかいられない、顔の筋肉がゆるみっぱなしでだらだらになってしまう。傍にいるだけなのに。
「……先生、ずっと目を合わせてくれなかった」
小坂がいることなんて忘れそうになる、視界の端にはにやにやと笑っている彼女がしっかりと写っているというのに。恋って。恋って。恋すると世界が、自分の中にもうひとつできてしまう。今までの、みんながいる世界とは別に、好きな人と自分だけが存在する、身の内にまあるく存在する小さな世界。そこは薄いピンクだとか黄色だとかオレンジ色に染まっていて、幸せだったり辛かったり嬉しかったり泣いてしまいそうだったり、あらゆる恋に関係した感情でぎっしりと溢れている。静かなのに騒がしい。賑やかなのに穏やかな。そんな、世界。
「安藤、俺お前が好きだ」
先生の声がやわらかな羽のように降ってきた。わたしは手を伸ばして、それを掴む。まだなんなのか分からなくて、だけど手の中にそれが欲しくて。握りしめてからそっと手を開いて見る、もしかしたら掴めなかったかも、というのはただの杞憂で、それはしっかりとてのひらに収まっている。
先生の、言葉。
好き。
誰を。
わたしを。
誰が。
先生が。
好き?
「過去は過去、でも俺は今、お前が好きだ」
小坂、と先生はわたしの目を見つめたまま小坂を呼ぶ。わたしから視線を外さないまま、お前の秘密と引き換えの、俺の秘密だからな、と言う。
「誰にも言うなよ」
「いつまで?」
「安藤が卒業するまで」
即答してくれたのが嬉しかった。ずっと内緒だったら、誰も知らないままの恋になってしまうのだから。
「長過ぎない?」
「教師が生徒に手を出すのは悪いことなんだよ、一般的にはな」
「両想いでも?」
「車と通行人がぶつかったら、同じだけ悪かったとしても自動車の方の過失が大きくなるだろうが」
「恋愛を交通事故と一緒にしちゃいけないと思うな」
「安藤がいろいろ言われたら困るだろう、安藤が好きだって言う俺がいろいろ騒がれたら、安藤が困るだろう」
なにその自意識過剰! と小坂が叫ぶ。呆れたように。
「好きな女の顔なんて、ろくに見つめられないもんなんだよ」
薄く笑って先生はわたしから目を逸らす。心なしか、耳が赤い気がした。
「先生、わたしも先生が好き……」
「知ってる、大丈夫」
なにが大丈夫だ、恥ずかしいふたりめ、と小坂がまた叫んで、後は好きにやるといいけど他の生徒が入ってくるのに気を付けるんだよ、と保健室を出ていく。慌てて、ありがとうを告げてみたけれど、届いたものかどうか。
「俺が女にする前に、勝手に女になったのかよ」
「え、あ、え、先生、セクハラ……」
「もう知らん、一回言っちまったからな、もう怖いもんなんて……まあいっぱいあるけどいいや、うん」
今度キス以上のことしてもいいか、なんて真顔で聞かれたら、なんて答えればいいんだろう。
「あのな、夏休みになったらちょっと行きたいところがあるから、お前付き合えな」
「あ、はい、」
「それから、俺達のことまだみんなには内緒な」
「……俺達?」
「バカ、安藤は俺が好きで、俺は安藤が好きなんだぞ。両想いで付き合わないって選択があるのかよ」
不意に先生が覆いかぶさるようにして顔を近づけてきた。驚いて、目を閉じることもできない。目を閉じるのは、勿体無い。
「……おい、目、つぶれ」
「え、やだ……」
「お前、可愛くないこと言いやがって」
そうは言うけれど先生の声は甘い。そして、さっと唇がわたしの唇に触れて離れた。
「……もっと、」
「学校じゃ駄目です。さ、俺も職員室戻ろうっと」
「先生、」
「なんだよ」
「……好き」
「俺もだ、バーカ」
バカと言われて驚いたけれど、照れ隠しなのだろうか。腹痛いのか、と聞かれて、小さく頷く。よしよし、と頭を撫でてもらう。布団の上からお腹をさすられて、痛いときはあっためろ、と言われる。
「キスが駄目なら、頭撫でてください」
「そんくらいならいいけど」
もう一度撫でてもらって、わたしはうっとりと目を閉じた。幸せな子猫になった気分だった。未来は輝いているばかりの、これから楽しいことだけが待っている世界に飛び込んで行こうとしている、うんとうんと幸せな子猫。




