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 やり直す。すべてを最初から。もう一度同じことを繰り返して、それはもう過去の遺物だと認める。そのための、確認作業。

 まさか自分が女子高生を好きになるとは思わなかった。伊藤の夢を俺が叶えたらどうしよう、なんて、今現在以降の未来はすべて未定で白紙なのだから、まだなにも決まってはいない。けれど、だからこそ口にしたらそれで本決まりになりそうな気もする。

 紫の小花が散るクリーム色のワンピースを着た安藤は、正直言って年齢不詳だった。何歳に見える、というのではなく、年齢がまったく分からない。男か女か見分けのつかない人が時々いるように。

 夏休みは七月の終わりから八月のお盆過ぎ、その一週間後まで。海外へ出てしまう生徒の方が多いという勤務先は、部活動など夏休み中は一切行われない。元々そういうものに力を入れている学校ではない。

「なに持ってきたんだよ、それ」

 大きめのバスケットを抱え、安藤が笑っている。待ち合わせは安藤の家の近くだった。車で迎えに行って、彼女を拾う。図書館だとか公園だとかで待ち合わせると学校関係者に見られる心配もあったので、コンビニの駐車場で落ち合った。信じられないことに、コンビニへ行ったことのないお嬢様ばかりが集まっている学校なのだ。

「お弁当です」

「遠足じゃないってのに」

「でも、デートですよね」

 嬉しそうな顔で口元をほころばせる安藤は、はっきり言って笑いなれていないのかどうもぎこちない。彼女はつんとすましているときのほうが綺麗な顔をしている。だけど、俺は上手く笑えなくてもにゃもにゃとした表情になっている安藤が好きだ。

「デートとかってなんか青臭いな」

「だ、だめですか、」

「駄目じゃないけど、別に。お前、またぐっちゃぐちゃに卵焼きとかぼっろぼろのおにぎりとか持ってきたんじゃないだろうな」

「練習しました、あれよりもっとマシ」

「ま、あれでも味は悪くなかったけどな」

 ほら、また安藤の顔がゆるむ。俺のひと言が、この子をこんなに嬉しくさせてしまうなんて、不思議で。

「お前さ、どうして俺なんかが好きなの?」

 小さな水色の軽自動車、助手席で今日は身をかがめさせたりはしない。制服でなければそう簡単には誰かにバレたりしないだろうという楽観的な考えと、デートなのに恋人に姿を隠させてどうするのだという気持ちと。誰にも見つかりたくないのなら、最初から後部座席に乗せればいい。

「ど、どうしてって、」

 小さい車でもクーラーはそれなりに効く。馬力は多少落ちるけれど。さっきまで安藤はダッシュボードを指差して、ここにぬいぐるみとか置いたら可愛いと思います、なんて小娘っぽいことを言っていたけれど、俺の質問で急に緊張したらしい。

「ど、どうしてそんな意地悪な質問するんですか」

「意地悪じゃないと思うけど、だって好きになるには理由があるだろう?」

「嫌いになる理由ははっきりしているけど、好きになる理由は曖昧なんです。好きな理由がはっきり分かれば、嫌いになるのももっと簡単なのにって」

「なんだそれ、誰かが言ってた?」

「小坂さん」

「ああ、言いそうだな、あいつ」

 嫌いになりたいけど好きでいるっていう相手でもいるのだろうか。大体、嫌いになりたいけど好きってなんだ、と一瞬思ったけれど、俺にもいるじゃないかと思い当たった。

 あの人。

 安藤の母親。

 俺の過去を収集していたという証拠を渡されたとき、正直引いたし、あのマンションで転がされていただけの俺を滅茶苦茶に汚されてしまった気もした。あの意味の分からない名前も知らない年上の女だったからこそ、あんなにも惹かれていたのに。触れたくて触れられなかったからこそ、こんなにも捕らわれ続けてきたのに。なんて、勝手なことを思ったりもした。けれど、どんなに眉をひそめようと、あの記憶は甘やかなものとして胸の中に留まっている。あの人を好きだった理由はなんだったのだろう。今でも分からない。もしその好きの理由が分かったら、振り切れるものなのだろうか。例えばあの謎めいた部分が好きだったのに、今ではただのおばさんになってしまったところを想像してみるとか。

「俺、想像力貧困だな……」

「え、なんですか?」

「ん、なんでもない。安藤、右手出してみ」

 右手、と確認のようにつぶやきながら、彼女がギアのところにそっとてのひらを上に向けて差し出す。俺はそれを左手で握った。

「先生、片手! 運転片手!」

「片手で運転くらいできます。利き手でハンドル握ってんだし」

「でも、でも、片手なんて危ないから駄目、」

「安藤って、なんか可愛いよな」

「なっ、なに言うんですか、話逸らさないでくださいよ、」

 そう言いながら、安藤は俺の手を振り解いたりはしない。だから、俺もわざと力を込めて、ぎゅっと握る。痛いですよ、と笑い声が上がった。可愛い。安藤が可愛い。あの人の娘だといっても、顔の造形は確かに似ているような気がしないでもないけれど、俺の感じ方が違う。自分の年齢のせいだろうか。もしも高校生の俺が安藤に出会っていたら、可愛いと思っていたんだろうか。美人だと思っていたんだろうか。

「……先生」

「なんだよ」

「片手運転はいけないと思うのに、手、繋いでるのが嬉しくて仕方ないんです……」

「お前、本当に可愛いな」

「吉村先生っ、」

 照れると大きな声を出すのか。

「どうせ美人とかって言われ慣れてるから、可愛いって言われると面白くないんだろう」

「先生が可愛いって言ってくれたら、照れます。ブスって言われたら、可愛くなろうって頑張ります」

 予想外の返事がきたので、お、と思った。そんなことないです、なんて怒るだろうと考えていたのに。ブスなんて嘘ついてどうすんだよ、と言うと、俺の左手を握る彼女の手に力が入った。それで、俺がなんだか照れてしまって、唇が勝手ににやける。


「思いっきり縛れよ」

 背後に回した両手を安藤に縛らせる。

何度でも夢に見た、あの人との逢瀬はいつも、窮屈な恰好をさせられて転がされていた。俺があの人を忘れられないのは、もしかしたら自分に変な性癖があり、縛られたり床に転がされないと満足できないのかも、と思ったからだ。

何も告げずに連れてきてしまった安藤には悪いことをしてしまった。縛られてみて、別に気持ち良かったりしなければ過去は過去としてもうきっちり忘れようと心に決めていたけれど、彼女にはそのことを話していない。腑に落ちない顔をしながら、それでも文句も言わず、安藤は俺の手を縛る。痛くないですか、痛くないですか、と不安そうな声で何度も確認しつつ。

「大丈夫だから。よし、結構強く縛れたな、じゃあさっき渡しといた布で目隠ししろ」

「わ、わたしを?」

「お前が目隠ししてどうすんだよ、バカだな、俺のだよ」

「先生、これって何の意味があるんですか」

 背中にも汗が伝う。シャツはもうべったりと肌に貼り付いている。布を持った安藤の手が、俺の顔に近付く。

「意味のあることなんですか?」

「ごめんな、訳の分からん俺の我儘に付き合わせて」

「先生、質問の答えになってません」

「後でアイスでもジュースでも飯でもなんでも好きなもの奢ってやるから」

「お弁当作ってきたのに!」

「それは昼食って、晩飯を俺に奢らせればいいだろうが」

 まさに目を覆おうとしていた布が、一瞬の停止の後に取り除かれた。安藤が俺を覗き込む。床に転がったままの状態なので、縛りにくいのかと半身を起こそうとすると、縛られた手が上手く動かなくて難しかった。

「縛りにくいか」

「そうじゃなくて。夜も一緒にいてくれるんですか?」

「なんだよ、嫌か」

「嫌じゃないです、でもそんなに一日中先生と一緒にいたら、一緒にいられない日がうんとうんと淋しくなっちゃいます」

「じゃあ淋しくないように毎日会えばいいじゃないか」

 先生簡単に言いすぎ、と安藤が呆れた声を出す。けれど、顔は笑みであふれていた。

「アイスもジュースもいらないですけど、後でいっこだけお願い聞いてくれますか」

「一個でも十個でも」

「いっこだけでいいんです」

 じゃあ縛りますから、と彼女は言って、布を俺の目に押し当てるようにしてから後頭部でぎゅっと結んだ。髪の毛が多少巻き込まれたようで、皮膚を引っ張られる痛みを感じたけれど、声は出さないでいた。

「痛くないです?」

「もっときつく縛っていいよ」

「もうこれ以上は無理です、力は入らないです」

 まぶたを閉じているせいもあり、感じるのは光だけだ。随分と暑い。汗が噴出す。安藤は文句も言わないけれど、きっと暑いと思っているだろう。俺はそのままフローリングの床に寝転がった。縛られたままの手が、気をつけてはいたけれどおかしな形で床にぶつかる。床は熱を持っていた。誰かの体温のようにあたたまっている。

 香を持ってきて焚けばよかった。

 あの時と同じ状況にしたかった。

 同じことを繰り返して。

 別になにか確信的な意図があったわけではない。あの時と状況が同じわけでない。ただ、自分を解放するために。記憶は放っておけばただただ甘くなるばかりで、捕らえられてしまう。逃げられなくなる。そうではなくて。忘れるのではなく、思い出を思い出として終結させるために。

 どれくらいそのままの姿勢でいたのだろう。背中にかいた変な汗が気持ち悪い。先生、と安藤の困ったような声がした。

「……先生、まだこのままですか、」

「微妙だ。っていうより、なんか体勢が辛いだけだ」

「……はい」

「俺もなにがしたいんだか分かんなくなってきた、解いてくれるか」

 はい、とほっとしたような声と共に、目隠しの布に手が触れられる。髪の毛を巻き込んでいた布が外されると、顔が随分涼しくなった。

「先生、汗かいてます……」

 手も解かれ、安藤は取り出したハンカチで俺の額を拭く。

「なんだったんですか、これ」

「儀式」

「儀式?」

「なあ、安藤の母親捜し行こうか」

「……え?」

 縛られていた手首がうっすらと赤い。それをさすって、シャツの首元をパタパタと引き、風を入れた。

「でも、どこにいるのか見当もつかないですし、それに、」

「明日も日曜で休みだし。お前の母親捜すって口実で、俺とずっと一緒にいない?」

「……え、あの、」

「休みの日は、俺の助手席は安藤の貸し切り」

「や、休みの日だけなんて嫌です」

 意外とはっきりした口調で彼女が言ったので、思わず笑った。それなら、もうずっと貸切にしよう。あんな小さな車の助手席でいいのなら。

「でも平日にはそんなに乗る機会ないと思うぞ」

「違います、わたしが乗るんじゃなくて、先生が他の人を乗せないようにして欲しいんです」

「お、結構我儘言ったな」

「わ、我儘でしたか、ごめんなさい……」

「冗談だよ、からかっただけだって、乗せない乗せない、伊藤も乗せない」

「伊藤先生……乗ったことあるんですか、助手席」

「ないない、乗せてない、乗せたくない」

 そういえばさっき一個だけお願いを聞いて欲しいとか言っていただろう、と聞いてみる。立ち上がった安藤はスカートが脚に張り付いたらしく、身をよじっている。

 手を差し出したら、嬉しそうな顔で自分の手を乗せてきた。指を絡めて、手をつなぐ。

「助手席を安藤の指定席にして欲しいってことだった?」

「違いますよ、あのね、」

 安藤じゃなくて、名前で呼んでください。

 うんとはにかんで可愛い顔をする。安藤、とか、お前、じゃなくて、と小さな声で付け足して。女の子ってそういえばこんなことが重要だったんだっけ、と思わせられる。

「……蒼衣」

「はい」

「なんだよその顔」

「嬉しすぎて、顔がゆるみます」

「バカだな」

 唇のゆるゆると持ち上がったその顔を見ているだけで幸せになってしまう俺は、もっとバカかもしれない、でもいい。あまりにもその顔が可愛くて、自分が汗だくなのも忘れて思わず唇に触れるだけのキスをする。安藤の目が一瞬大きく見開かれて、すぐに離れたのが不満だったらしく、もっと、なんて甘い声を出す。

 これから、ずっと。

 ずっと、甘くやわらかなくちづけを、君に。

 彼女の手を引いてマンションを出た、駐車場の水色の軽自動車の助手席は永遠に安藤のものだ、と言いたかったけれど、自分のキャラじゃないのと言おうとしたことですでに照れてしまって、口に出せなかった・

「なんですか?」

「なんだよ」

「先生も、なんだかにこにこしてます」

「……お前も、先生って呼ぶの、やめない?」

「……彰人?」

「うわっ、照れるな、照れる、うわっ、うわっ」

「……下の名前で呼び慣れたら、学校でうっかり呼んじゃうかも」

「あ、それはまずい。やっぱ卒業までは『先生』でいこう。安藤も『安藤』だ、な?そうしとこうぜ?」

 えー、と不服そうな声を伸ばして、安藤が頬を膨らませた。

 その顔が可愛くて、そりゃあ俺だってにこにこしっぱなしになっちまうってもんだ、と思ったけど、それも彼女には言わないで、ただ目を細めただけにしておいた。

野良犬駆けゆく夕暮れ、これで終わりです。

長々お付き合いいただき、ありがとうございました。

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