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好きなものを考えて考えて考えて、結局思い浮かばなくて米窪さんに聞いてみた。うちに来ているお手伝いさんの彼女は、五十半ばくらいの小柄でぽっちゃりした、明るいおばさんだ。
「蒼衣さんの好きなものですか? そうですね、炊きこみご飯の時はよく食べていらっしゃいますよね。卵料理もお好きでしょう。卵焼きとかオムレツとか。意外と根菜類も残さないですし。蓮根のキンピラとか、鶏肉と里芋の炊き合わせとか、大根の鰹節炒めとか」
「……すごい、どうして米窪さんはわたしの好きなものが分かるの?」
ずっとご飯作ってますもの、と米窪さんが笑う。朝十時に出勤、夜八時まで勤務して家に帰る彼女は、結婚して家を出た娘さんがひとりいるだけで、他の家族はいないという。旦那さんは若い頃に亡くなって、再婚はしなかったらしい。仕事だからと割り切っているからなのか、もともとの性格が明るいからなのか、「お母さん」の見本のような女性で、わたしは米窪さんが好きだった。
「でもどうしたんです、自分の好きなものを作文にする宿題でも出たんですか」
「やだ、そんな小学生みたいな宿題出ないよ」
離れに住んでいるのはほとんどわたしだけで、二階に半分だけ血の繋がった姉の子供達の勉強部屋があるけれど、ほとんど使われていない。けれど別に姉と仲が悪いわけでもなく、姉の息子達も一緒におやつを食べたりする。小学生の男の子達、というのは乱暴でやさしくてすぐ泣くくせに怒りっぽくて、くだらないことでムキになったり笑い転げたりそれはもう感情の忙しい生き物で、見ていて楽しい。朝ご飯はバラバラだけれど、晩ご飯は基本的に姉達と一緒に食べる。兄達は知らない。忙しすぎる人達なので、会うことがないから。
「進くんと信吾くんはやっぱり男の子だからハンバーグとか、カレーライスとか好きですしね。男の子はお肉好きだわ」
「今度、お弁当の作り方教えて?」
「あら、好きな人でもできたんですか?」
え、と驚いたら、目がまん丸くなるのが自分でも分かった。なんで分かるの、と聞けば、女の子が自分でお弁当作るっていうのはそういうときくらいのものです、とまた笑う。
「うちの娘もそうでしたもの」
「好きな人には自分の好きなものを食べさせてあげたいと思う?」
「自分の好きなもの……よりは、相手の好きなものを作ってあげたいと思いますかねぇ」
相手の好きなもの、なんて知らない。
吉村先生はキャラメルをくれてコーヒーを飲んで、煙草ばかり吸っている。
「……キャラメルと煙草、」
「あら、じゃあ年上の人なんだ」
「なんで分かったの?」
「蒼衣さんと同じ年で煙草は駄目でしょう。もし未成年で格好つけて煙草を吸っているなら、キャラメルなんて子供っぽいものは好きと言わないだろうし」
「そういうもの?」
「そういうものです」
とりあえず卵焼きでも教えましょうか、と米窪さんは言ってくれた。欲張っても仕方ないのでまずひとつずつ。うん、と頷く。
「そういえば、入院してる人のお見舞いってなにを持って行けばいいんだろう」
「お友達ですか?」
「友達、の、大事な人」
「入院している科によっても違うものですけどね、内科だったら食べ物はやめておくとか、外科だったら暇つぶしになるようなものをだとか。男性か女性かでも違いますし」
パウンドケーキでも焼いておきましょうか、と言ってくれたので、つい自分用のおやつの気になって、プルーンいっぱい入れて、とお願いしてしまう。笑いながら、米窪さんは「じゃあ蒼衣さんの分もね」と言ってくれる。
病院はやわらかなピンク色でまとめられていた。ベッドを仕切るカーテンも、ベッドのシーツも、病室の扉も、ネイムプレートも、すべてがやわらかなピンク色で。
「日差し、暑いからカーテン閉めようか」
小坂の声はいつもより低くてやわらかい。窓際のベッドで横になっていた女性は、まぶしそうに目を細めてから小さく頷いた。肩までの真っ直ぐな髪と、少しつりあがった切れ長の目。唇は小さく、赤い。
ベッドは電動で起こせるようになっている。山なりにしたベッドに身体を預けて、ギブスの脚を投げ出していた。もう取り外しが可能なもので、松葉杖で歩くリハビリもしているのだという。
「冷たいのが飲みたい」
奈緒、と南條先輩が甘い声で呼ぶ。
「レモンのがいい」
「うん」
バンビみたいに背筋を伸ばして、夏服になった白いブラウスの腕をすんなり伸ばして窓のカーテンを閉めると、くるりとこちらに向き返して小坂は自分のカバンから財布を取り出した。
「売店で買ってくるよ」
「売店の飽きたから、外のコンビニで買ってきて」
「分かった。他に欲しいものは?」
「手」
手? と思ったら、小坂には分かっていたようで、ベッドの上の小さな白い手を取った。行ってくるね、と小さく言うと、南條先輩は笑わないまま小さく頷いた。
土曜日の昼過ぎ、病院はいつもより見舞い客が多くてざわめいているらしい。小坂はそう言うけれど、はじめてきたわたしには静かな異空間にしか見えなかった。入院患者に合わせてあるのだろう、軽く汗ばむくらいの空調と、お薬です、検診です、リハビリです、と看護師達の明るい声が届く、光に満ちた静かな非日常。
衣替えをしたばかりの白いブラウスは目に眩しい。病室を出た小坂の背中は、すでに見えなくなっているというのに、先輩は思い出したように声を出した。
「あと、なんか甘いの、キャンディ」
「……わたし、買ってきましょうか」
「買ってこなかったら怒るだけだから、いい」
「……小坂さん、聞えてないと思います」
「聞えてないなんて、愛が足りないのよ」
目だけでちらりとわたしを見て、先輩は唇を微かにゆがめた。笑ったのだと、思う。
南條先輩のお見舞いに行きたいと言ったのは、わたしからだった。小坂がわたしを友達として自慢したことが原因で転落事故を起こしたのだとしたら、後味が悪過ぎてどうしても言い訳のようなものをしたいと思ったからだったけれど、ただ純粋にそこまで情熱的に誰かを好きでいるような、そんな人がいるのかと見てみたい気にもなったからだった。
「あの、これお見舞いの……パウンドケーキなんですけど」
米窪さんが焼いてくれたケーキは、花柄の紙ナフキンに包まれてピンク色のリボンがかけられている。取り出して差し出した。また彼女が視線だけでわたしを見る。値踏みでもしているかのように。
「あなたが、焼いたの?」
「いえ、わたしそういうのできないんで……家族、が焼いてくれたんですけど」
お手伝いさんという言葉が一瞬出てこなくて、米窪さんを家族にしてしまった。ふうん、と先輩の視線がリボンに移動する。わたしを見ていたときのような熱っぽい力は、目から消えていた。
「中身、なに?」
「ドライプルーンの、パウンドケーキですけど」
「プルーンって、干し葡萄の大きいやつ?」
「少し違うけど、そんな感じのです。あとクルミとオレンジピールが入ってます」
わたしが好きだから、米窪さんが必ず入れてくれる。ずっしりと重たいケーキを、先輩が突然手を伸ばしたのでそっと渡した。指先がわずかに触れる。冷たい手だった。
「プルーン、嫌いでした?」
「奈緒から、なんて聞いた?」
「え、」
「奈緒、あなたに私とのこと、なんて言った? 私、別にあなたなんか眼中にないわ。三階から落ちたのは事故だし。本当に。奈緒に友達ができたくらいで、どうして私が嫉妬しなきゃなんないの?」
プルーンは好き、と続けて言われたので、それも一瞬わたしを責める言葉に聞えた。責められているわけではないのだろうけれど、トゲのある言葉は耳に不快で。
「……南條先輩が、小坂さんの恋人だということだけ聞きましたけど」
「ふうん。気持ち悪いとか思ってるんでしょう。女同士で、とか、男にもてないからって同性に走ったのか、とか。私より自分が美人だから勝ったような気でいるんでしょう」
「小坂さんがどうして同性を好きになるのかも聞きました、気持ち悪いとは思いません、正直他人事ですからどうでもいいです」
他人事、と言ったところで南條先輩の表情が崩れた。驚いた目になる。唇が微かに開いた。
「……どうでもいい?」
「わたしは先輩から小坂を取ったりするつもりはないってことです」
「奈緒といつも一緒にいるじゃない」
「先輩はもし小坂さんが男だったとして、わたしが小坂さんの男友達だったとしても嫉妬するんですか? いつも一緒にいるって」
「奈緒は男じゃないし、あなたも男じゃないでしょ」
もしもの話だと言っているのに。わからず屋め、と口にしそうになって慌てて飲み込む。
「小坂さんを取ったりしません。友達としては好きですけど、恋愛対象じゃないですもん。いわれのない嫉妬をされても困ります」
そもそもどうして小坂を取る取らないの話になっているのだ。そこからして間違っていると思うのに。
病室内は暑く、汗ばむようだった。額にじんわりと汗が浮くのが分かる。分かるけれど、ハンカチで押さえたら傷が見えてしまいそうな気がして、そのままにしていた。玉になって流れるほどではない。
「……そうよ、ただの嫉妬よ」
ふい、と先輩は視線をそらすと、つまらなさそうに言い捨てた。手の中にあるケーキのリボンを引っ張って、包みをむきはじめる。行動が唐突で唖然としていると、ラップも取ってしまって、ケーキの角をいきなり手で割った。
「いいんでしょ、食べて」
「え、ああ、それはもちろん」
どうぞ、と言う間に口に入れている。小坂の買ってくる飲み物を待っていた方がいいんじゃないのかと思ったけれど、口をはさむ隙はなかった。
「死なない自信はあったの。傷ものになったら奈緒が責任を感じて、一生私と一緒にいてくれると思ったの、だから飛んだのに。骨折は時間がかかるだけでちゃんと治っちゃうのよ」
「……消えない傷なんて、いいものじゃないです」
「バカね、消えない傷を望んでるんじゃないのよ、消えない愛を望んでるの」
ケーキを小さくして口に入れる。ベッドに細かいクズが落ちるのは少しも気にならないらしい。プルーン意外と美味しい、なんてのんきな声を出している。
声のトーンは変わるのだけれど、表情はあまり変化がない。
「あなたも食べる?」
手の中のケーキを差し出されたけれど、いらないと断った。全部食べてくれていいです、と。先輩は少しだけ嬉しそうな顔になる。唇が、軽く持ち上がった。
「じゃあ奈緒にちょっとあげようっと。美味しいよ、これ。ありがとう」
お礼の言葉が子供のそれのように素直に放たれた。この人も美味しいものは好きな人に分けてあげたいと思うのか。
「私、さっきあなたが奈緒について飲み物買いに行ってたら、うんと嫌ってたと思う」
「……え、」
「ずるい、小坂とたまたま同じ年だったからって同じクラスで友達になったりして」
なにがずるいのかちっとも分からないけれど、彼女は本気で妬んでいるらしい。
「……小坂さんのどこがそんなに好きなんですか、」
「私にめちゃくちゃ甘いところ。望むことなんでもしてくれようとするところ。寂しがり屋なところ。男が嫌いなところ。ずっと一緒にいてくれるところ」
でも明日には好きの理由が変わってるかもしれない、と手に持っていたケーキを口に放り込んで先輩が言う。それでも好きなのは変わらない、とつけ足して。
ピンク色の病室と、噛み合うような噛み合わないような先輩とふたりきりでいることとで、居心地の悪さは最初からずっとあった。
「だから、ずっと一緒のあなたがずるくてうらやましい」
「ずっと一緒って、同じクラスだから仕方ないじゃないですか」
「あなたをずるいって思うこと自体が、私ばっかり奈緒を好きみたいで悔しいし、どうしてくれるの、重い女だって捨てられたりしたら。それなのにあなたばっかり涼しい顔して奈緒の傍にいて」
「わたしは別に好きな人がちゃんといますから!」
「誰?」
自分の発した言葉にすら驚いているのに、それは誰なのかとたたみかけるように聞いてこられても。上手く言えなくて困る。だけどもちろん思い浮かべているのはあの数学教師で。
好き、と。
いうのとは違うのではないかと思うけれど、でも。
だって、あの人は、母の。
だけど、どうしてこんなに気に掛かるのだろう。
「……で、も、まだちゃんと自分の気持ちに整理がついてないので、言えません」
「好きって気持ちになんの整理をつけるの? バカ? 説明しないと分からないことじゃないでしょう、すべての言葉はただの後付けだもん」
この人にどうやって太刀打ちすればいいのか、そもそも太刀打ちするようなことでもないのか、なんでこの人を小坂は好きなんだろうか、手のかかるのが好きとは言っていたような言っていなかったような、と頭の中をぐるぐるさせていると、ベッドを仕切るピンクのカーテンがさっとめくられた。パンパンに中身の詰まったビニール袋を重そうに揺らして、小坂がただいまを言う。
「南條、買ってきたよ」
ベッドに渡してある細長い机の上に、小坂は買ってきたものをつらつらと並べた。
「レモンウォーターとレモンスカッシュと、レモンティーと南條が好きそうな菓子パンがあったから、チョコマーブルデニッシュとクリームパイとチョコリングと、あと喉飴とフルーツキャンディと、アーモンドチョコとマカダミアチョコと」
「さっきの、聞えてた?」
「さっきの? なに?」
「私が、飴買ってきてって言ったの」
「ああ、聞えてない、知らなかった、ごめんね」
「買ってきてくれたからいいよ、それは」
南條先輩のまなじりがとろりと下がった。途端に甘い顔になる。唇はわたしと話しているときのような微かな持ち上がりではなく、はっきりとした微笑みを刻んでいた。
「もらったの、ケーキ。美味しかったから、あーん」
口を開けろと先輩は言う。小坂は先輩の前で腰をかがめて、あーんと言いながら口を開けた。そこへ千切ったケーキが放り込まれる。
「美味しいでしょ」
自分の手柄のように微笑んで、先輩は自慢げに言った。うん、と頷いた小坂も、やわらかな微笑みを浮かべている。ふたりの間の空気だけが、色づいたように甘かった。これが恋するふたりの独特な、と思いつつ、小坂が帰ってきてくれたというのになんだかわたしはまだ居心地が悪いままでいた。
「恋人同士って、苗字じゃなくて名前で呼びあうものなんじゃないの?」
うん? と疑問系の尻上がりで返事をした小坂が、うちらのこと? と聞く。
「だって先輩は名前で呼んでるのに、小坂さんは先輩のこと苗字で呼んでるじゃない」
「ああ、あの人自分の名前嫌いだから」
「嫌い?」
「うん。鮎美って名前、字は違うけど父親の愛人の名前と一緒だって」
病院から外に出ると、太陽が空をオレンジ色にとろけさせていた。別になにをするでもなく、小坂と先輩が話しているのを見ていただけだったけれど、随分と時間が経っていたらしい。
「……結構いろんな家庭の事情というものが、」
「形さえ枠組みがちゃんとあれば、中がどんなにぐちゃぐちゃだろうとあんまり世間は気にしないんじゃない? でもまあ、そこで生まれる子供は迷惑だよね、歪んでも仕方ない、みたいな」
長々つき合わせちゃったからアイス奢る、と小坂が手を団扇代わりに顔の前でひらひらさせながら言った。今年は空梅雨らしく、湿度は高いのにちっとも雨が降らないのでじめじめと蒸し暑い。衣替えをしたばかりなので、夏服とはいえブラウスは長袖も認められている。手首のボタンを外すと、小坂は肘のあたりまで袖をめくりあげた。細い腕が露わになる。
「いいな、安藤さんは色が白くて。私、黄色いから嫌になる」
「みかんの食べすぎ?」
「……笑うところなのかな」
「え? あれ、みかん食べ過ぎると黄色くなるって言わない?」
米窪さんが前にそう言っていた。果物が大好きで食べ過ぎる甥っ子達に、みかんを食べ過ぎると身体が黄色くなっちゃいますよ、と。
帰ったら夕食だからアイスはまた今度、と言うと、小坂はにっこりしながら頷いた。
「ありがと、いろいろ」
「いろいろ?」
「うん、南條があんなに安藤さんのこと気にいるとは思わなかった」
ええええええ、という平べったく驚いた声が結構大きく出てしまって、思わず自分の口を押さえた。
「ど、どこが気に入られたっていうの、」
てのひらを唇に触れさせたまま、もそもそと言う。聞き取り辛いかと思ったけれど、小坂は「だってあの人嫌いな人間はガン無視するもん」と明るく返した。
あんなに表情のない顔で、嫉妬でずぶ濡れの言葉を投げつけられただけなのに、それでもまだ気に入られた方だったとは。
「……小坂さんと先輩の間には、愛があるんだね」
「えええ、どうしたの、なにいきなり」
だって、愛がなければあまり感じがいいとはいえないあの先輩の些細な態度を理解できたりしない。
「まあ……世界中が敵に回っても、あの人がいれば頑張れそうな気がする、って感じかな」
格好付けて言うと、と。小坂の言葉がよく分からなくて、首を傾げた。世界中が敵に回ったら、頑張ってもなにをどうすればいいのだろう。
「安藤さんは恋に溺れないタイプだよね」
「溺れるものなの? 恋ってするものじゃないの?」
「まあ、落ちたり溺れたり、したり」
「……わたし、向いてないかもしれない」
「向いてる向いてないじゃなくて、気がついたら恋ってしてるから大丈夫」
なにが大丈夫なのかちっとも分からない。小坂が恋の先輩だから、分からないときは聞けばいいのか。面倒臭そう、と口にしたら、笑われた。
「あ、でもお弁当を作ってみようかと思って」
「なんか話が飛んで……あ、好きな人にあげるの?」
「好き……なんだかよく分からないんだけど。うん。ううん。お弁当食べてもらいたいとか渡せるかとかは別として、なんとなく」
「一歩前進だねぇ」
吉村先生には、わたしの母とどういう関係だったのかを聞きたいだけだったずなのにな、と思いつつ、軽く首を傾げる。わたしは先生に、それを聞いてから何をしたいんだろう。転校までしたというのに。
「……なんだかいろいろがよく分かんなくなってきちゃった」
「恋する人はみんなそんなもんなんだよ、意味のない行動してみたり、後から赤面もののセリフ吐いたり」
とりあえずお弁当にはゆで卵とミートボールだよね、と小坂が言うので、卵焼きと唐揚げではないのか、と人それぞれなことに驚いてみたりした。




