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暑い時期になるとこの学校には文科系クラスマッチと呼ばれる行事がある。集会休みに行なわれるもので、英語、数学、漢字、歴史の四つが毎年交代で行なわれる。全クラス共通問題の、全部で百問。二週間前に数学なら中学生レベルの掛け算と割り算、方程式を使った簡単な問題、漢字なら四文字熟語の穴埋めや読み書き合わせて、英語は和訳と英訳、歴史なら年号の書き込み問題とそれぞれの出来事に当てはまる人物の書き取りがそれぞれ三百問ずつプリントされて配られる。その中からクラスマッチの問題も出され、各クラスの成績と個人の成績を競うものだった。四科目あるので、もちろん受けない一科目が生徒達には必然的に出てくる。
そして今年は数学クラスマッチで、逃げまわっていた「責任者」の役目を押し付けられたのでこのところ煙草の量が増えていた。責任者は答えの間違いがないかを確認し、問題の難易度を調整し、先に配るドリルの問題を考え、もちろん本番用の問題も作らなくてはならない。他の数学教師も問題の提供はしてくれるのだが、あまり手伝ってくれない。責任者を決めるじゃんけんで負けた俺が悪いのだけど。
「吉村先生、吉村先生、メールきたんですよ!」
「……伊藤先生、いい加減に認めて諦めたほうがいいですよ、」
「いや、今度は絶対ですって、だって件名が『今までごめんね』ってありますから!」
「……内容は? 本人からですか?」
「『今までごめんね。本当は会いたかったんだけど恥ずかしくって。だってダイエット成功してなかったんだもん! でもこれからは自信持って会えます、ばっちり痩せたよ! だけどおっぱいはそのままなの、うふふ。あたしのプロフィールのアドレス、貼っておきます! 早くクリックして、早く会いましょう!』」
「読み上げないでくださいよ、それ、完全に迷惑メールじゃないですか……」
ええええ、と伊藤が情けない声を出す。
二ヶ月近く前になる合コンで、相手の女の子からメールアドレスを聞き出そうとしつこくして嫌がられ、それでも、と自分のアドレスを無理矢理渡したらしい。思い切り嫌われそうな行動ではあるが意外とやるな、と思ったのが少し。なんというはた迷惑な、と思ったのがたくさん。嫌がらせで出会い系サイトにでも登録されたのかもしれない。
「ほら、伊藤先生にはもっと大きな夢があるじゃないですか、そんな迷惑メールばかりのアドレスは変更したらどうです?」
「でも変更しちゃうと、連絡くれたい人が困るじゃないですか」
「変更しましたのメールを送ればいいじゃないですか」
「いや、だけど僕が相手のメールアドレスを知らないけど向こうには知らせてあるとか、そういう場合もあって……」
職員室で問題を作ろうとしていた俺が馬鹿だった。伊藤が邪魔だ。
「伊藤先生は在校生と、卒業と同時に結婚」
「そ、それ、僕の夢です!」
「いや、知ってるから言ったんですけどね。そういう夢があるなら、他の女から連絡が来なくてもいいじゃないですか、未来の恋人が嫉妬しますよ」
「嫉妬! それは駄目ですよね!」
なんだか自分がいかがわしい恋愛カウンセラーとかにでもなった気分だ。
「だからとりあえず、メールアドレス変更して、合コンのことは忘れましょう」
「吉村先生はモテるから……」
「モテてないじゃないですか、話を変なところに放らないでくださいよ」
「どうやったらモテますかね」
「げ、現実を直視する、とか……」
白馬に乗った王子様みたいな表現ってそういえば男性向きのはないですね、と伊藤が考えるような顔になって言う。今時白馬に乗った王子様を待っている女性などいるのだろうか。
「今年は雨少ないですよね」
「雨……そういえば空梅雨でしたね」
「ボク、濡れた制服の匂いが好きなんですよね」
「……え?」
「なんか独特の匂いがするじゃないですか、こもったような犬とかの獣のような、それが女生徒達の髪の匂いとか制汗スプレーの匂いとかと混じって、なんともこう、ほわーっと」
ほわー、のところで伊藤はきらきらさせた目を細め、天に向かって両手を広げた。机の上で広いていたノートパソコンを思わず閉じて、伊藤先生、と声をかける。
「はい、なんでしょう」
「……伊藤先生って、結構、独特の感性をお持ちですよね」
「いやあ、そんなに褒められると照れます」
褒めてない。
伊藤は他にもいろいろなフェチそうで、話を掘り下げるのが怖い。
「あの、すみません、今年の数学クラスマッチの問題を思案中なので」
「ああ、今年は数学ですか。理科はないから切ないんですよね、問題考えるのとか楽しそうなのに。『先生、難しいの出しすぎ』とかって怒られたりしてみたいですよね。お気に入りの生徒にだけ出す問題を教えちゃうとかね」
「……いやいや、それはまずいでしょう」
数学研究室に戻るんですみません、と席を立つ。
「あ、あの、良かったら金曜日とか、また飲みに行きませんか」
「……合コンとか嫌ですよ、」
「そういうんじゃなくて、吉村先生にモテる秘訣でも教わろうかな、と思ったりしまして」
「……は、」
「なんかこう、女性にガツガツしていない雰囲気とか出したいんですけどね、僕も。そういうところ、教えてもらおっかな、って」
ある意味伊藤も女性にガツガツした態度は見せていないし、独特な雰囲気はかもし出していると思う。一般受けするかどうかはまったくの別問題だとしても。
「ああ、でもすみません、今度の金曜はちょっと。昔の友達と会う約束があるんで」
「昔の恋人とか」
「……そういうのって、友達って言わないんじゃないですかね」
この男は頭の中がいつも幸せそうだけど、ちっとも羨ましくない。
女の曲線が好きだった。タンクトップからちらりと覗く、形の良い曲線。丸い膝小僧。そう尖ってはいない肘の先。
一度も交わったことはなかった。
くちづけより先は未知だった。
もしももう一度あの頃に戻れるとして、彼女を抱くことができたりしたのなら、俺はこんなにも執着しないでいられたのだろうか。
恋は執着ではない。
それは、分かっているのだけれど。
高校時代の友達が出張で地元に顔を出すというので、仲の良かった数人に声がかかった。結婚したり地元を離れたりして、同級会といってもそうそう集まらないのに、仲の良かったのだけで飲む、なんていうとどうしてなのかぽつぽつと人が集まったりする。
駅前の居酒屋で男ばかり、生ビールのジョッキを片手に騒ぐ。誰が枝豆を一番男らしく食べるかだとか、冷奴のネギをどける奴を笑うだとか、くだらないことで酒が進む。
「でもまさか吉村が教師になるとかってな」
「うん。問題があと三十七問分足りない」
「は? あ、その唐揚げオレのだから、ちょっ、食うなよっ」
「あ、三十八問だったかも」
「なんだよ、もう酔ってんのかよ」
酔ってない、と空になった三杯目のジョッキを顔の前で振ってみせる。酔ってないけど、眠くはなってきている。このところずっと数学クラスマッチ用の問題を考えっぱなしで頭がぐるぐるしている。
「なに、吉村って先生なんかしてんのか」
「しかもこいつ、女子高の教師なんだぜ」
「おー、羨ましい、現役女子高生と付き合ったりできるのかよ」
「……できない。仕事クビになりたくない」
「女子高って憧れだよな、女しかいないってすごいよな、毎日女子高生と戯れてんのか、羨ましい」
「戯れてない、あのな、現役女子高生ってピンからキリまでいるんだぞ」
ピンが良い方だっけ、キリが良い方だっけ、とひとしきり周りが騒ぎだす。
よくあるチェーン店の居酒屋にしては、グラスが綺麗だった。
「お前なににやにやしてんだよ、気持ち悪い」
「どーせ受け持ちの生徒とかのこととか思い出してんだろ、やらしいな」
俺、こんないじられキャラだったっけ、と思いながらも唇がゆるむのを止められない。そんな俺を見てみんなも笑う。
馬鹿笑いしているところにビールのジョッキがまとめて四つ置かれる。いるのは五人。さささ、と手が伸びて、俺も素早くひとつを確保する。取り損ねた奴が笑いながら店員を呼びとめ、生中三杯、と注文した。焼き鳥の盛り合わせと漬物と、軟骨唐揚げと。
「大人になったってのは見た目だけかよ、中身はちっとも変わんねーな」
「いやいやいや、大人でしょ、酒飲んでるし」
「酒なんか大人じゃなくても飲める……おっと、教師の前で失礼」
「教師の前って、なんだよお前」
「吉村なんでまたにやにやしてんだよっ」
気持ち悪りー、とまた笑って。
けれど本当はみんな大人になっている。隣に座る前田は結婚して再来月第二子が生まれる。その隣の上原は父親の店を継いで酒屋をやっている。俺の前に座る佐藤は今日の主役で出張してきてみんなを集めた張本人で、奥さんに帰りが遅いだの仕事人間過ぎるだのなじられながらも仕事漬けの毎日を「金は貯まっても使う時間がない」と言いつつ過ごしている。その隣の川上は農家のひとり娘のところに婿入りしなきゃならないかもしれないと笑っている。
なんだかんだ言って、結婚していてもおかしくない年になってきているらしい。どうも職場にいると周りがあまり変化せず、独身男は毎年ひとつずつ年を重ねていくだけなので、自分も変わらなくていいような気にさえなってしまうのだけれど。
「楽しい」
「吉村、学校でもそんなにやにやしてるのかよ、変態教師か」
「いや、真面目に仕事してる」
「彼女とかは?」
「え、いない」
「そんなに周り女だらけの環境なのにか」
結婚していないのは俺と川上だけで、その川上も婿養子での結婚が決まりそうだというので、どうしてもそういう話は俺に集中するらしい。
「駄目だよこいつ、若いのに興味ないもんな」
「そういえば学生時代からクラスの女子とかに全然興味示さなかったもんな」
「そうそう、数学の木村好きじゃなかった?」
「ああ、あのおばはん先生。え、マジで? 吉村、もしかして木村先生好きで数学教師になったわけ?」
「え、俺の話だったの? いや、木村先生ってなに、全然覚えてないんだけど」
数学の、と言われても思い出せない。俺の高校の記憶は、ほとんどがあの女で占められている。
「おい、俺の青春時代を勝手に捏造すんなよ」
「じゃあ吉村ってクラスの女子で誰好きだった?」
「向坂って可愛かったよな、あの髪長いさ!」
「えー、鈴木のが可愛くなかった? 色白くてさ、目も乳もでかくて」
「鈴木なんか腹出てたよ、ありゃただのデブだ」
俺の話じゃなかったのかよ、と突っ込む暇も与えずに、みんなは過去の話に盛り上がる。いつの間にか日本酒を注文していた佐藤が、向かいからグラスを俺に渡した。ん、と言って傾けるジェスチャーをする。手を伸ばすと緑色の瓶から透明な液体がそそがれた。
「でも、吉村って彼女いたんだろ?」
「……え、」
「たまにオレらと帰んないでさ、全然違う方向に帰ることあったじゃん」
「……よく覚えてんな」
「これ。いつか渡してやろうと思ってたんだけど」
鞄をごそごそとやりだし、佐藤は随分とくしゃくしゃな写真を取り出した。アルバムの後ろのシート入れに放り込んであったのを見つけたからさ、大体これがあったからみんなに会いたくなったんだよな、と佐藤が笑う。日本酒に口をつけた俺は目だけでそれを追って、差し出されたのをしばらく眺めてから受け取る。白黒の写真。記憶にある、道路。
「なんだこれ」
「お前、写ってるだろ」
「いつの写真? 白黒って古くない?」
「昔流行ったじゃん、使い捨ての。セピアとかモノクロとかの、カメラ」
ちっちゃいけどそこに吉村が、と言われて、酒で潤む目のまま写真を見る。真っ直ぐ続く道の住宅街、手前にトラック、その向こうにマンションの入り口。そこに写るのが。
「これ、俺?」
「そう。で、そこから見てるのってお前の彼女だった人?」
「……え?」
使い捨てカメラの、しかも素人が構図も何もあったものではなく適当に撮った写真の、二階のベランダから確かに身を乗り出すように玄関を覗いている人は写っていたけれど、顔が鮮明に分かるわけではない。ただ、確かに二階の角部屋は彼女の部屋だった。
「……なに、この写真」
「え、探偵ごっこのつもりで張ってて、撮った、ような記憶が」
「……なにその暇人」
脳みそがゆるむ。まばたきがやたらとゆっくりになって、一気に酔いがまわったようだった。肩より少し短い髪。黒目の部分が多い、切れ長の目。薄い唇。涼しい顔をしていた、あの人の横顔。
「あ……、」
頭を揺さぶられるように、記憶が押し寄せる。上手く思い出せなかったはずの部分が、色鮮やかに、細部までくっきりと。
「なに、佐藤、お前暇人……」
「いや、確かたまたま吉村が入って行くところ見かけたんじゃないかな、でさ、スクープ! とかって勝手に記者にでもなった気分で待ってて写真撮ったんじゃなかったかな」
しびれるくらい焦がれていた甘い唇。それ以上は未知のまま終ってしまった関係。血の匂い。小さな子供の声。妙な静けさ。
「これ、もらっていいのか」
「うん。ずっとお前に渡してからかってやろうと思ってたんだけど……どうした」
「……え、」
「泣きそうな顔してる」
慌てて腕で顔を隠そうとして、グラスを引っ掛けた。少しだけ残っていた中身がこぼれる。どうせなら、と言葉が勝手に唇からこぼれる。
「もっとはっきり、顔、撮ってくれればよかったのに」
「なに?」
「……なんでもない、ああ……あの人、安藤に」
似てる、ほんの少しだけ。まなざしだとか、唇の感じだとか。そんな気がする。それであんなにあの娘が気になるのか。
「吉村は彼女とかは?」
「だから、いないって」
「吉村がまさか売れ残るとはなー」
「売れ残るとか言うなよ、女じゃあるまいし。え、三十前半なんてまだまだだろ?」
「そう言いながら男ってのは売れ残る」
「あ、でも吉村って職場にいっぱい女はいるんじゃん」
「商品に手ぇ出せるかよ」
商品ってひでぇ、と馬鹿笑いして、日本酒とビールが追加注文される。高校の頃の同級生なんて、酒と煙草がおおっぴらに解禁されただけで本質は何も変わっていないような気がする。
それにしても、周囲の環境によって結婚時期というのは随分とズレてしまうものなのだと知った。職場で結婚している教師は俺が赴任する前から結婚しているし、していない教師は年々年を重ねていくだけで、見えないところでは焦っているのかもしれないけれど、表には出さない。出しても伊藤みたいなのだとギャグにしか見えない。
次は酒だけ楽しみたい、と居酒屋を出て、前に伊藤達と合コンをしたバーにうっかり入りそうになって慌ててやめた。苦い思い出でもあるのか、と笑われたが、苦いというより情けなくなる思い出なので、と説明するのもなんだか恥ずかしい。結局その近くの焼酎バーを見つけて入った。酔うと少しだけ家庭の愚痴が出たりする。仕事の自慢と弱音が混ざる。だけど基本的に笑ってばかりになる。
佐藤から渡された写真はポケットの中に突っ込まれていた。どうせ最初からくしゃくしゃだった。大事にしまうのも女々しく、捨ててしまうのははばかられて、どうしていいのか自分でも分からなかった。
「意外と吉村って繊細っつーか乙女なとこあるよな」
「――え、オトメ?」
お湯割りだったはずの焼酎はいつの間にかロックになっている。芋、麦、蕎麦と並べられて、レモン、ライム、梅干などの小皿が置かれている。お好きに飲んでください、ということらしい。
「乙女って顔じゃないだろー、こいつは」
「いやいやいや、こういう奴が初恋とか引きずって、まんま独身で一生を終えたりするんだって」
「いや、むしろ教え子とデキ婚とかすると思うな、卒業を待って結婚するんだけどさ、もうその頃は妊娠六ヶ月とかでさ」
「おいこら、人の人生を勝手に決めんなよ」
結婚したからって恋愛が出来ないわけじゃないけど、プラトニックにはなるよな、と前田が言う。不倫してくれるようなおねーちゃんもいないだろ、と上原が笑う。
「……結婚、ってどんな感じ?」
あー、だの、うー、だの言いながら、みんな顔を見合わせる。タイミング……タイミングだよな、なんかタイミング的に、タイミングが良かったから、という答えしか返ってこなくて、結局笑い転げただけで終った。




